日本重症心身障害学会誌
Online ISSN : 2433-7307
Print ISSN : 1343-1439
シンポジウム2:災害時の重症心身障害児(者)への支援
福島整肢療護園における震災時避難計画
吉原 康
著者情報
ジャーナル フリー

2014 年 39 巻 1 号 p. 41-42

詳細
抄録
東日本大震災における福島第一原発事故は、障害者や高齢者等、社会的弱者と呼ばれる人たちにも多大な影響を与えた。 原発事故という未曾有の混乱の中で、寝たきりの高齢者が病院関係者から「置き去り」にされたなどという誤報が不幸にも先行して報道されてしまったが、それでもなお、避難後の3週間で130名中50名が亡くなったという双葉病院の例は、事実として重く受けとめなくてはならない。 双葉病院の場合、避難指示が通達されたのは震災翌日の3月12日の午前5時44分であった。それに伴い同日の午後2時頃に、全患者337名中209名の軽症患者が、大熊町の手配したバスでいわき市に向けて出発した。(その直後の午後3時36分に一号機の水素爆発が起こった。) この後にも双葉病院には128名の中等症以上の患者が残されていたわけであるが、大熊町ではこの初回の避難をもって「双葉病院は避難が完了した。」という報告を福島県にしている。 残されたのは128名の患者の他に、医師2名、事務員2名のみであった。この4名の職員のみで128名の患者の介護にあたったが、翌13日にも救援は来ず、14日の明け方までに3名の患者が亡くなった。 同日14日の午前10時半頃、双葉病院から34名の患者を乗せた第二陣のバスが、職員を伴わずに避難先のいわきに向かった。 いわきに到着したのは約9時間半後の14日の夜8時頃であるが、バスの中ですでに3名の患者が死亡していた。さらにその後7名の患者が亡くなった。 いわきへのバスがこのように時間がかかったのは、原発事故のため海岸沿いの道路が封鎖され、通常30km足らずの道のりが、迂回経路だと200kmにも及んだためである。 一方、双葉病院にはまだ91名の患者が残っていた。 14日の午前11時1分には三号機の水素爆発があり、双葉病院の状況はもはや限界に達していたものと思われる。 同日夜10時過ぎ、地元警察の指示で院長ら3名の職員は、患者91名を残し原発から20km離れた川内村の県道のトンネルまで避難する。ここで自衛隊による救助隊と落ち合う手はずであったが、不運なことに自衛隊が選んだ道は県道の北側の国道であったため、両者が出会うことはなかった。 自衛隊が双葉病院に到着したのは、翌15日の午前9時40分であるが、すでに職員の姿はなく、さらに1名の患者が死亡していたため、残された90名の患者を救出した。 双葉病院の患者はその後も転院先の病院などで28名が亡くなり、全体としては50名ほどが亡くなったと見られている。 一方、東京大学の渋谷健司教授らによる報告1)によれば、避難により高齢者の死亡リスクは移動距離とは関係なく、むしろ避難前の栄養管理や、避難先の施設のケアや食事介護の配慮の方が重要であると述べている。 私たち福島整肢療護園は、原発から南に約38kmの地点にあり、正式な避難地域には入っていなかったが、実際は着々と避難の準備が進められていた。 当時入所していた57名のうち14名が、全国8施設に避難し、6名が親元に戻り、37名が園内に留まった。さらにその後の状況によっては、9施設から受け入れの表明をしていただいていた。 国からの指示により、避難する患者の状態や、持参する物品、避難ルートなど、細かな打ち合わせが3月下旬までにはほぼ完了していた。 これらの避難にあたっては、数年前まで実施していたクリスマス祝会という園外行事参加のため、大型バスで移動していたことが図らずも大いに役立った。 やはり日常から危機意識をもってあらゆる可能性に対し応用が効くように備えることが肝要であると思われる。
著者関連情報
© 2014 日本重症心身障害学会
前の記事 次の記事
feedback
Top