日本重症心身障害学会誌
Online ISSN : 2433-7307
Print ISSN : 1343-1439
39 巻, 1 号
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第2報
巻頭言
  • 宮野前 健
    2014 年 39 巻 1 号 p. 1-2
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    第40回日本重症心身障害学会学術集会を9月26日(金)、27日(土)の二日間、京都の地で開催いたします。障害者を取り巻く福祉施策や社会環境は大きく変わろうとしており、大会のテーマを「見つめ直そう。重症心身障害医療・福祉の原点」(サブテーマ 新しい制度のもと、その課題と方向性)としました。平成18年障害者自立支援法が施行され重症心身障害施設は18歳以上を対象として医療型の療養介護事業へ制度移行となり、経過期間を経て24年からは公立・法人立重症児(者)施設と国立病院機構の重症児(者)病棟は医療型の療養介護事業に変わりました。特に国立病院機構では大きな質的な変化をもたらそうとしています。 昭和39年全国重症心身障害児(者)を守る会が設立され半世紀が過ぎました。守る会が掲げた三原則の一つに「最も弱いものをひとりももれなく守る」があります。この理念が世界に類のない福祉と医療が表裏一体の重症心身障害施策を日本にもたらしたと思います。 今回の学会で二人の先生に特別講演をお願いしています。「この子らを世の光に」を理念に掲げたびわこ学園で、長年実践を重ねてこられた前院長の高谷清先生に「重い障害のある人の生きるよろこびと“生命倫理”」と題して講演をお願いしています。高谷先生は岩波新書から「重い障害を生きるということ」(平成23年)と題した本を出版されました。重症心身障害医療の現場で働く者として、この著書から「最も弱いものをひとりももれなく守る」事の意味や意義を改めて考えさせられました。今学会のテーマである「重症心身障害医療・福祉の原点」にふさわしい特別講演と考えています。また同志社大学の小西行郎先生(赤ちゃん学研究センター教授)には「赤ちゃん学からみた重症心身障害」と題してお話頂きます。周囲に育まれ日々成長していく赤ちゃんと同じように、さまざまな障害を負う重症心身障害児(者)にも大きな“力と可能性”が秘められていないか、それを引き出し伸ばしていくヒントは無いのかとの思いからです。 今学会ではシンポジウムとして3つの課題を取り上げました。 1.本学会サブテーマの「新しい制度のもと、その課題と方向性」に基づき「障害者総合支援法からみた重症心身障害」と題してシンポジウムの一つを企画しました。療養介護事業移行に伴い、日中活動や社会参加がクローズアップされています。公立・法人立施設では、利用者一人に対するスタッフ数はほぼ1人を確保していますが、国立病院機構では看護師中心で、0.8人程度でマンパワーの不足は否めません。しかし国立病院機構の運営方針の一つとして在宅支援を中心としたセーフティーネットを掲げ地域社会のニーズに合った取り組みを進めています。設立母体やその歴史は異なりますが、重症心身障害児(者)を受け入れる施設の運営上の課題や地域のニーズを見据えた取り組みを、福祉行政の立場や利用者の視点からも意見を交え、これからの在り方や方向性に関して、参加者間で活発な議論を期待しています。 2.「重症心身障害医療の専門性とその教育」と題して重症心身障害の医療や教育また福祉の現場を支えるスタッフの専門教育の課題やあり方について問題提議していただきます。重症心身障害医療は一般医療の延長線上で対応できるものではなく、また福祉や教育を含め極めて専門性が高く集学的で、職種間の連携が不可欠な分野です。それを担う医師や看護師、リハスタッフの専門教育、福祉職や更に支援学校教職員の大学教育の視点から論じていただきます。 3.「地域生活と医療的ケア 快適に生きるための課題とこれから」をテーマに、医療ニーズの高い在宅重症児(者)が確実に増えていく現実を踏まえ、医療的ケアを含めた地域行政を巻き込んだネットワーク作り、支援学校における医療的ケア、訪問診療・看護を実践している立場からの課題、施設での短期入所の対応など在宅支援を多角的に議論していただきます。 また教育講演として京都大学iPS 細胞研究所(臨床応用研究部門)の准教授井上治久先生に「iPS 細胞と神経疾患(仮題)」と題して最新の研究成果についてお話しいただきます。iPS細胞の技術もいよいよ臨床応用されようとしており、重症心身障害医療に携わる我々に希望を与えてくれるものと感じています。 微かな秋の気配を感じ始める9月下旬の古都京都は、その雰囲気をゆっくり堪能できる季節になります。会場近くには「弘法大師の東寺」で知られる教王護国寺があり、ライトアップが美しい五重塔は是非ご覧下さい。この学術集会に重症心身障害に携わる多くの分野の皆様方に参加して頂き、日頃施設や地域で取り組んでいる医療・看護や療育、リハビリテーション、在宅支援、教育など幅広い分野の発表、情報交換や交流が出来ればと考えています。 この京都の地で皆様とお会いできることを楽しみにしています。 追記 現場で役立つ共催ランチョンセミナーを計画しています。 また手作りのファッションショーにも取り組んでいます。
特別講演2
  • 新井田 孝裕, 内山 仁志, 鈴木 賢治, 小町 祐子, 山田 徹人, 靱負 正雄, 谷口 敬道, 関森 英伸, 平野 大輔, 恩田 幸子, ...
    2014 年 39 巻 1 号 p. 3-12
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    重症心身障害児(者)(以下、重症児(者))は、視覚刺激に対する応答が不明瞭であり、実際にどこまでどのように見えているのか正確に捉えることは難しい。今回、視能訓練士、眼科医と療育に携わっている作業療法士、言語聴覚士、小児科医の多職種が連携し、工学系研究者の協力の下で客観的視機能評価を試み、以下の成果を得た。1.興味を引く動物のキャラクター画像の反転刺激を用いて、パターン反転で得られる従来波形に極めて類似した視覚誘発電位を抽出できることが判明した。2.従来刺激では明瞭な対光反応の見られなかった対象者で、電子瞳孔計の青色光刺激(470nm)で明らかな対光反応を認めた。3.非接触型の視線解析装置を用いて縞視標や視運動性眼振の誘発視標をモニタ上に提示し、選択注視や眼振の波形を解析した結果、視診では判定が曖昧な事例でも客観的に評価できることが判明した。これらは療育者や験者の主観的観察結果に基づく応答性を客観的に評価し共有できる点で優れている。
教育講演1
  • 髙嶋 幸男
    2014 年 39 巻 1 号 p. 13-20
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    発達期脳の傷害病巣を病理学的に観察すると、病巣周囲には修復とともに再生現象が見られ、長い間、再生する細胞が増加し、代償機能が働いていることが分かる。さらに、脳は神経ネットワークを形成して機能しているために、それを介して遠隔の神経細胞にも代償や活性化が見られる。最近では、脳の形態画像でもtractographyが急速に進歩し、さらに、脳の機能画像や機能生理検査の発展もめざましく、脳の局所機能、脳の可塑性、脳機能の代償を含めて、ベッドサイドでも脳機能の可視化への進歩が期待される。このような脳の細胞や組織の修復・再生・代償の機構を臨床神経学的およびリハビリテーション学的に、療育の現場でも、より有効に活用して効果的な支援が発展することが望まれる。
教育講演2
  • 児玉 浩子
    2014 年 39 巻 1 号 p. 21-28
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    近年、重症心身障害児(者)(以下、重障児(者))においても栄養管理の重要性が指摘されている。また、栄養療法の進歩により、様々な経腸栄養剤や治療フォーミュラ(特殊ミルク、治療乳)が開発・普及している。しかし、その中には、必須栄養素が必要量含有されていないものがある。そのような栄養剤を使用して、欠乏症が多く報告されている。主なものとしては、エンシュアリキッド®にはカルニチン、セレン、ヨウ素;エレンタール®にはカルニチン、セレン;ラコール®にはカルニチン、ヨウ素;牛乳アレルゲン除去ミルク・乳糖除去ミルク・MCTミルク・ケトンフォーミュラ・先天性代謝異常症用ミルクなどにはビオチン、カルニチン、セレン、ヨウ素がほとんど含まれていない。これらを単独で使用すると、含有量の少ない栄養素の欠乏を来す恐れがある。したがって、これら栄養剤・治療乳を単独で使用する場合は、欠乏症に注意し、必要に応じて補充することが大切である。
シンポジウム1:重症心身障害児(者)へのこれからのリハビリテーション
  • 栗原 まな
    2014 年 39 巻 1 号 p. 29-31
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.座長の立場から 重症心身障害医療の分野では従来から理学療法士(PT)、作業療法士(OT)、言語聴覚士(ST)などのリハビリスタッフの関わりがある。リハビリの分野では日進月歩、新しい技術の導入が見られるが、重症心身障害の分野にはその恩恵がなかなか得られていない。そこで今回は重症心身障害児(者)(以下、重症児(者))に向き合うスタッフにとってリハビリの新しい知識・技術の広がりが得られるようなシンポジウムを企画した。髙嶋幸男先生の「重症心身障害の脳」の講演と、山海嘉之先生の「ロボットスーツ、最先端技術」の講演と関連づけた形でまとめた。はじめに小児神経専門医およびリハビリ専門医としての観点から当センターの重症心身障害施設(七沢療育園)などの診療を通した全般的な話を行う。次いで奥田PTから「自ら動く」というテーマでThe SPIDERを用いた理学療法の話を、岸本OTからは重症児(者)の生活に寄り添う作業療法の話を、最後に高見STからは認知・コミュニケーション支援と摂食嚥下支援について発表していただく。 Ⅱ.医師の立場から 重症児(者)においては、はじめに「医療」がある。七沢療育園長期入所者の現在の平均年齢は約50歳であるが、重症者においても高齢化の問題が生じてきており、呼吸器疾患・神経疾患・消化器疾患など従来からの疾患に加え悪性腫瘍や脳血管障害への対応が求められるようになってきている(図1)。医療と並行して、機能の改善、機能低下の予防、介護量の軽減への対応を行う(図2)。長期入所者延べ95例のうち機能退行が見られたのは31例で、退行が始まった年齢の平均は14.4歳であった。機能低下の原因は、痙縮・過緊張・関節拘縮・側彎などによる場合、肺炎・イレウス・てんかんなどにより身体機能が低下する場合、学校生活が終わり運動量が減少する場合などであるが、リハビリによって機能低下を防ぐのは容易ではない。リハビリの分野では、従来のものに加え新しい技術が取り入れられてきているが、その多くはリハビリ工学の進歩に基づくものである。これらは専門的な知識が必要となるが、専門的になればなるほど、関連する多職種がチームを組んでアプローチしていくことが必要である。 重症児(者)のリハビリではPTの関わりが最も多く、呼吸排痰訓練・適正姿勢の確保・補装具の作製などが行われる(図3)。補装具の作製にはPT・リハビリ工学士・装具業者・看護師・支援員がチームで関わる。OTは日常生活用具の作製、感覚統合、介護法指導などを行う(図4)。STはコミュニケーションと摂食嚥下の分野に関わる(図5)。摂食嚥下訓練には、医師・PT・ST・看護師・支援員がチームで関わる。一般的な補装具・福祉機器だけでなく、リハビリ工学を駆使した機器や当センターに導入された歩行支援ロボットHAL®も紹介する(図6)。このシンポジウムが重症児(者)のこれからのリハビリに役立つと嬉しい。 
  • −理学療法の立場から−
    奥田 憲一
    2014 年 39 巻 1 号 p. 33-34
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.はじめに 2009年8月1日、花井丈夫氏(横浜療育医療センター、理学療法士)を代表に「重症心身障害理学療法研究会」が発足した。2013年に開催された、第5回セミナーのテーマは「動く」であった。今回「重症心身障害児(者)へのこれからのリハビリテーション」を理学療法の立場から述べる機会を与えられ、「動く」というテーマでいくつかの検討を行った。その結果、若干の知見を得たので報告する。 Ⅱ.方法 1.電動移動機器の使用が乳幼児の発達に及ぼす影響を検討するため、Jonesら1)、Gallowayら2)、Lynchら3)の3文献を用いて文献研究を行った。 2.重症心身障害児(者)にとって「動く」ことの制約因子の一つである重力に対して、Norman Lozinskiが開発したThe SPIDER 4)やTheraSuit Method 5)で使用されるUniversal Exercise Unitを参考に、体重免荷可能な「環境支援機器」(据置式・移動式)をイレクターで作製し、当園入所・外来利用児(者)に理学療法(以下、PT)を行った(図1)。 Ⅲ.結果 1.Jonesらによれば、20カ月の脊髄性筋萎縮症を持つ女児に対して電動移動機器を半年間使用させた結果、コミュニケーション、社会性、認知の領域で月齢の増加以上の発達を示した(BDI & PEDI使用)。Gallowayらによれば、リーチと把握が可能で、実用的な移動手段が未獲得の7カ月の正常乳児と、ほぼ同様の上肢機能と粗大運動機能を持つ14カ月のダウン症児でも電動移動機器の自発的操作が獲得されることを示した。またLynchらは、7カ月の二分脊椎を持つ男児の電動移動機器操作を実施した結果、半年後に認知、言語、巧緻運動の領域で生活年齢よりも高いスコアを獲得したことを示した(BayleyIII使用)。 2.体重免荷可能な環境支援機器を用いてPTを行った結果、徐々に下肢の屈曲や伸展の自動運動が表出し、四肢の他動運動に対する筋群の抵抗が著明に減弱した。また車いすや座位保持装置上での座位姿勢が安定し、介助歩行時の介助量も減少した。 Ⅳ.考察 文献研究の結果、乳児期から電動移動機器の自発的操作が獲得されるだけでなく、自ら「動く」ことが認知、言語、社会性領域等の発達に不可欠であることが示された。この意義は大きく、今後、PTプログラムに如何に反映させていくかを真摯に検討しなければならない。 また体重が免荷された環境で自動・他動運動を行うPTの有効性については定量評価による検討が必要である。この評価に関して筆者らは研究デザインを作成し、その研究デザインは日本理学療法士協会の「平成25年度理学療法に関わる研究助成」に採択されており、今後検討していく予定である。 最後に、筆者らが環境支援機器をイレクターで作製した時点では国内での販売はなされていなかったが、現時点では国内の業者による販売も開始されており6)、安全管理の面からも正規の製品の使用が推奨されると考える。
  • −作業療法の立場から−
    岸本 光夫
    2014 年 39 巻 1 号 p. 35-36
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.はじめに 近年のリハビリテーションにおいて、①家族中心理論(対象児(者)の治療は、家族ぐるみの援助を含むべきである)、②生態学的理論と課題指向型理論(生活障害を軽減し、自立や適応を促していくためには、対象児(者)が生活する家庭や学校、施設生活環境で実際に必要な技能・課題を練習することが必要である)、といった考え方が重要視されるようになった。このような中で、重症心身障害児(者)(以下、重症児(者))のリハビリテーションにおいても、作業療法士(以下、OT)の働きが一層重要になってきていると感じている。OTの役割は、①対象児(者)を取り巻く実生活と環境を詳細に評価し、②日々繰り返しのある生活活動や遊びを治療手段とし、③楽しみと夢のある日常生活を目標にしていく、まさに「生活支援」であり、それは過去もそして今後も変わることのない根底である。 筆者らは、2011年から「重症心身障害のある人の生活を支える作業療法フォーラム」を開催し(ホームページは現在準備中)、今年で3回目を迎えている。毎回この領域に携わるOTの施設での取り組みの意見交換や事例報告が活発に行われているが、本シンポジウムではその内容を以下の3点に整理して報告したい。 Ⅱ.健康増進と維持 OTは、呼吸理学療法に代表されるような徒手的技術は充分にもち合わせていないが、育児や日々の介助の工夫、環境調整を通して、様々な合併症に対する包括的な支援にあたることができる。シーティングやポジショニングは、二次障害への対策だけでなく、様々な姿勢の特性を活かした生活空間の広がりを目指すものと位置付けている。上気道の呼吸障害への対応として左右への側方ティルト機構がついた座位保持装置などは、今後さらなるデザインの発展を予感させるものである。また施設入所者を対象に、日常生活の中に無理なく継続できる24時間の姿勢援助プログラムを約5カ月間実施した成果の報告(2001年、旭川児童院研究)などは、重症児(者)の一見固定的に思える拘縮や変形が改善しうる範囲をもっており、何よりその進行を予防できることを示唆した臨床研究として意義深いものである。 Ⅲ.楽しみのある日常生活活動 全国の施設内でOTが様々な個別的レクレーション活動やクラブ活動を企画・運営している例が多くなった。これらには、在宅生活にも取り入れられるアイデアも多くあり、病院のリハ専門職にも役立つ情報である。中でもOTが最も貢献できる「感覚あそび」は、感覚統合理論やスヌーズレンの理論と活動形態などをうまく応用してきた経過があり、今後さらに明解な根拠に基づいた感覚あそびの支援に発展していくことが期待される。超重症児(者)の感覚クラブの取り組みを通して、変化の少ない日常生活の中で反応が微弱と思い込んでいたスタッフの意識改革につながったことなども紹介されている。また重症児(者)間のコミュニケーションの発展を目指した活動なども多く実践されている。医学の進歩や工学技術の発展のめざましい現代にあっても、重症児(者)にはその恩恵が還元される割合は少ない。しかしだからこそ、人として当たり前に生きること、優しさ、幸せの力動感といったことを大切にしたいと多くの仲間が感じている。そして、将来何かができるようになるための支援に偏ることなく、今を大切に生きる支援の重要性をこの領域から発信していきたい。 Ⅳ.多職種との協業 「近江学園」の創設者であった糸賀一雄先生は、重症児(者)は自前で太陽や星のように光っており、その理解の輪を広げていくことを願って、「この子らを世の光に」と唱えた。多職種協業の意義は、まさにここにあり、重症児(者)がすでにもっている豊かな部分に気付き、それを充分に発揮させてあげるような発想が必要なのである。そしてOTは、多職種協業において常に身近な存在になれるよう努力したい。施設という生態系の中で、重症児(者)との係りの多い支援員が、対象児(者)との日々の付き合いに喜びをもてるということが、OTの重要な一目標であり、彼らのQOLに貢献できる協力体制の充実が求められている。個別治療の一手段として、OTとPT、OTとSTといったジョイントセラピーも実施されるようになり、その成果も大いに期待される。 Ⅴ.おわりに OTは、「実生活支援」をキーワードにしているだけで、その専門性ははなはだ曖昧なものである。しかし一方で、今回報告したように様々な生活現場で多岐にわたる重症児(者)のニーズに柔軟に応えられる専門職であり、今後も重症児(者)のリハビリテーションチームワークに貢献していけるはずである。
  • 高見 葉津
    2014 年 39 巻 1 号 p. 37-38
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
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    Ⅰ.はじめに 本邦での言語聴覚士(以下、ST)の養成校教育は1970年代に入ってから始められたが、1999年に初めて国家資格試験が実施されるまで長い時間を要した。 1960年代にアメリカから伝えられた脳性麻痺の言語治療の中に発声発語機能に食べる機能が関与することが述べられている1)。1970年代に入りプレスピーチアプローチが紹介され2)、早期療育など時代的変化に伴いSTによる重度脳性麻痺児や重症心身障害児(者)(以下、重症児(者))への食事指導が行われるようになった。 重症化に伴い重症児施設に入職するSTが増えてきているが、まだ少数職種であり個別性の高い重症児(者)へのコミュニケーションや食事指導の臨床は試行錯誤の連続である。今回、STの重症児(者)への役割を再考し、STの向かう方向について検討した。 Ⅱ.重症児(者)のST支援について 1.コミュニケーション支援 重症児(者)の他者とのつながりは、年長になっても乳児期と変わりないケアを受けるという関係が主となる。しかし、重症児(者)は狭い枠ではあるが生活経験を重ねながらゆっくりと学習し、身体の成長と同様に心や理解力が発達する。人と人が分かり合える関係を築くことを発達的に捉え、学習の糸口を見出し、潜在的能力を引き出し育み、弱く希少な表出を見つけながらその表出を重症児(者)と関わる人々と共有して、コミュニケーション環境を調整すること3)をST支援と考える。 重症児(者)のコミュニケーションの基盤は、鯨岡が述べている間主観性4)と相互主観性5)という視点が挙げられる。鯨岡は、間主観的な関わりは、関わる人によってその解釈が異なることや、関わり方が違うこともある。重症児(者)は他に主体があることを感じ、関わりの中で共有、共感を感じ取り相互主観性という関係が成り立ってくると述べている。子どもの背景を推測してやり取りを行うことは、家族や施設とともに過ごした中で培った経験を理解する必要がある。 ST指導では、言語室での個別指導やグループ指導などがある。重症児(者)の場合、入所施設や通園での生活の場でのより良いコミュニケーションをめざす必要がある。 日々の生活で、重症児(者)たちが示す表出を発達的に捉え保障するために、関わる人々が表出の受け取り方を修正、共有しながら昇華させる必要がある。そのための方法として、鯨岡氏はエピソードの記述6)を挙げている。 日常に見られる表出をよく観察し、養育者からの情報に耳を傾け、その人らしさの特性に配慮しながら対象児(者)の示すわずかな表出の受け止め方を確認、修正、共有するインフォーマルな職員間の話合いも有効である。臨床や生活のビデオ録画を見ながら反応の分析や意見交換をすることもできる。STの指導方法にインリアルアプローチ7)がある。 2.食べることへの支援 STは食べることとコミュニケーションを関連づけて行う。年少では、摂食・嚥下機能に加え、授乳や食事を母子相互作用や育児支援と捉え8)、母子の関係が豊かになるような指導を行う。味わうことのみでも口腔内の知覚、食べ物に関する認知などを意識した働きかけを継続する。 今後の課題は、気管切開術や喉頭気管分離術を施行した重症児(者)への嚥下の再学習指導である。喉頭周辺の運動や呼吸方法の変化に伴い嚥下運動が変化していることが推測されるので、安全を見極めながら嚥下運動の再学習を支援する。 Ⅲ.重症児(者)へのSTの新しいフィールドについて 小児の訪問STは数少ない。筆者は2012年4月から小児の訪問を開始した。開始から2013年8月までの訪問対象児は23名でそのうち重症児(者)は18名であった。大島分類1と準超重症、超重症で15名を占めていた。経鼻経管栄養や胃瘻からの栄養摂取は13名であった。 STへの要望は、遊びの広がり、子どもの反応の読み取り、表出の定形化といったコミュニケーション支援と経管栄養の子どもの母親全員が味み程度でも口から摂取する機会を増やしたいとのことであった。 STの関わりで感覚運動経験を拡げ新たな反応が見られ、母親の関わり方が修正され、子どもへの理解が深められる変化もあった。 また、経口摂取の不安があるが、少しでも味を楽しむことで生活を豊かにし、子どもとの共感を得、希望につなげたいという母親からの訴えがあった。STは摂食・嚥下に関する専門的な知識とアプローチ方法で安全に味み程度でも食する支援を行い、それを通して子どもへの関わり方を提示した。 体調が不安定で、外出がままならない母子にとって、家庭という生活の場で安心して支援が受けられるSTの訪問は有効であると考えられた。 Ⅳ.おわりに 重症児(者)と関わるSTの臨床は、コミュニケーションと食べることへの支援である。早期介入は食べることへの指導を含め脳の可塑性と母子相互作用への支援として意味があり、今後は、気管切開や喉頭気管分離手術後の嚥下機能の再学習への支援が課題となる。 コミュニケーション支援では、生活や医療的ケアでのコミュニケーション関係にも注目し、子どもへの理解を深め、潜在能力を引出す方法をさらに探求することが必要と考えられた。    在宅重症児(者)への訪問ST支援は、今後拡充していく必要性があると思われた。
シンポジウム2:災害時の重症心身障害児(者)への支援
  • 伊東 宗行, 田中 総一郎
    2014 年 39 巻 1 号 p. 39-40
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    2011年3月の東日本大震災の被害は甚大で、世界中から救援、復旧のために多くの援助と励ましをいただいたことを感謝する。被災地では復興と防災対策に取り組み2年余を経過したが、多くの犠牲を払い未解決の課題を残している。本シンポジウムは災害時に特別な援護を必要とする障害者、特に重症心身障害児(者)が受けた被害状況とその救援・支援について当時の実践者が検証し、今後の大規模災害時の具体的な対策を提言することを目的に企画された。被災当初から支援活動に尽力された5名のシンポジストによって医療、教育、福祉、行政の専門領域の視点から現場の状況と対応を報告し、今後の対策について課題と解決策を提言し、参会者とともに討論を行い、災害弱者への重要な支援策を共有することができた。 シンポジウムの前半は、福島整肢療護園・吉原康診療部長が東日本大震災発災時の福島原発事故による医療施設の緊急対応、主に患者の避難移動状況を報告し、通常時の避難訓練と情報確認の重要性を強調し、宮城県立拓桃支援学校(前石巻支援学校)・櫻田博校長は前任の石巻支援学校で被災し、直後から学校が地域の避難所になった2カ月間の運営を経験し、当時の避難活動の教訓をもとに、特別支援学校の役割と危機管理マニュアルの見直し等を提言した。後半は、社会福祉法人りとるらいふ・片桐公彦理事長が2007年中越沖地震等において被災地の障害者福祉施設の支援活動の実績から、東日本大震災直後から障害者入所施設での外部からの支援をビジターコーディネートとして組織的に実践したことを報告するとともに、災害時のコーディネート機能の特性と重要性を述べ、東北大学小児科(前宮城県拓桃医療療育センター小児科医療部長)・田中総一郎准教授は発災直後から被災地の障害児(者)、施設、支援者等と連携し、切迫する現場のニーズに応え活動した経験をもとに実効ある支援体制と緊急用の医療介護機器の活用等具体的な支援内容を提示した。最後に福井県総合福祉相談所(前厚生労働省障害福祉課障害児支援専門官)・光真坊浩史判定課長は当時、厚生労働省で障害者支援業務を担当し、被災地の障害のある人々および障害福祉サービス事業所の被害状況の把握、支援体制の整備等に従事した経験から現状を再考し、現場ニーズの迅速な集約と救援の組織的対応をきめ細かに実践する重要性を強調された。 東日本大震災の情報は、岩手、宮城、福島の3県が主たる被災地として集約されているが、全国集計(2013年4月10日警察庁発表)では死者15,883人、行方不明者2,681人であり、要援護者である福祉サービス利用者の死亡・行方不明者は54人(2012年10月現在)であった。注目すべきことは、障害のある人が災害時の被害者になる割合が高かったことである。東北3県の沿岸31自治体の調査では被害者数の割合が一般人0.8%に対して障害者手帳所持者は1.5%で約2倍であった(2012年9月24日付、河北新報)。 これらの報道や調査公表に含まれない被害者も多数あったと推測されるが、自力ないし家族の支援のみで避難ができない高齢者、障害者を災害時に支援する「要援護者避難支援計画」について東北3県の沿岸37自治体を対象とした調査では、計画を策定していた24自治体のうち10自治体が「実際には役立たなかった」と回答している(2013年4月、共同通信社)。また、医療を要する障害児113家庭での「福祉避難所」所在の周知度20%、利用者0%と示されたように、重症心身障害児(者)・災害弱者への災害対策は住み慣れた地域での生命と生活の保障のために実効性のある包括的支援体制の整備が喫緊に必要である。
  • 吉原 康
    2014 年 39 巻 1 号 p. 41-42
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    東日本大震災における福島第一原発事故は、障害者や高齢者等、社会的弱者と呼ばれる人たちにも多大な影響を与えた。 原発事故という未曾有の混乱の中で、寝たきりの高齢者が病院関係者から「置き去り」にされたなどという誤報が不幸にも先行して報道されてしまったが、それでもなお、避難後の3週間で130名中50名が亡くなったという双葉病院の例は、事実として重く受けとめなくてはならない。 双葉病院の場合、避難指示が通達されたのは震災翌日の3月12日の午前5時44分であった。それに伴い同日の午後2時頃に、全患者337名中209名の軽症患者が、大熊町の手配したバスでいわき市に向けて出発した。(その直後の午後3時36分に一号機の水素爆発が起こった。) この後にも双葉病院には128名の中等症以上の患者が残されていたわけであるが、大熊町ではこの初回の避難をもって「双葉病院は避難が完了した。」という報告を福島県にしている。 残されたのは128名の患者の他に、医師2名、事務員2名のみであった。この4名の職員のみで128名の患者の介護にあたったが、翌13日にも救援は来ず、14日の明け方までに3名の患者が亡くなった。 同日14日の午前10時半頃、双葉病院から34名の患者を乗せた第二陣のバスが、職員を伴わずに避難先のいわきに向かった。 いわきに到着したのは約9時間半後の14日の夜8時頃であるが、バスの中ですでに3名の患者が死亡していた。さらにその後7名の患者が亡くなった。 いわきへのバスがこのように時間がかかったのは、原発事故のため海岸沿いの道路が封鎖され、通常30km足らずの道のりが、迂回経路だと200kmにも及んだためである。 一方、双葉病院にはまだ91名の患者が残っていた。 14日の午前11時1分には三号機の水素爆発があり、双葉病院の状況はもはや限界に達していたものと思われる。 同日夜10時過ぎ、地元警察の指示で院長ら3名の職員は、患者91名を残し原発から20km離れた川内村の県道のトンネルまで避難する。ここで自衛隊による救助隊と落ち合う手はずであったが、不運なことに自衛隊が選んだ道は県道の北側の国道であったため、両者が出会うことはなかった。 自衛隊が双葉病院に到着したのは、翌15日の午前9時40分であるが、すでに職員の姿はなく、さらに1名の患者が死亡していたため、残された90名の患者を救出した。 双葉病院の患者はその後も転院先の病院などで28名が亡くなり、全体としては50名ほどが亡くなったと見られている。 一方、東京大学の渋谷健司教授らによる報告1)によれば、避難により高齢者の死亡リスクは移動距離とは関係なく、むしろ避難前の栄養管理や、避難先の施設のケアや食事介護の配慮の方が重要であると述べている。 私たち福島整肢療護園は、原発から南に約38kmの地点にあり、正式な避難地域には入っていなかったが、実際は着々と避難の準備が進められていた。 当時入所していた57名のうち14名が、全国8施設に避難し、6名が親元に戻り、37名が園内に留まった。さらにその後の状況によっては、9施設から受け入れの表明をしていただいていた。 国からの指示により、避難する患者の状態や、持参する物品、避難ルートなど、細かな打ち合わせが3月下旬までにはほぼ完了していた。 これらの避難にあたっては、数年前まで実施していたクリスマス祝会という園外行事参加のため、大型バスで移動していたことが図らずも大いに役立った。 やはり日常から危機意識をもってあらゆる可能性に対し応用が効くように備えることが肝要であると思われる。
  • 櫻田 博
    2014 年 39 巻 1 号 p. 43
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.はじめに 私は、石巻支援学校長として勤務していたときに震災を経験し、児童生徒の安否確認や避難所運営、学校再開へ向けた取組を経て学校教育の復興等に向けた様々な取組を行った。震災では、4名の児童生徒が家庭で津波の犠牲になった。そこで、災害から障害がある子どもの命を守るために何が必要か?また、災害に対してどんな準備をすればよいのか?体験から学んだことを中心に報告したい。 Ⅱ.東日本大震災時の概要 1.被害状況     ① 児童生徒:4名が津波の犠牲、全壊・半壊:51名(157名の内、約3割) ② 教 職 員:全員無事、全壊・半壊21名(約2割) 2.避難所の運営 3/11~5/8(約2カ月)最大で81人(介護高齢者21人 在籍者13人) 3.学校再開日 5/12(学校再開まで心理的ケアを目的とした家庭訪問2回)  Ⅲ.まとめ  東日本大震災から学んだ教訓として次のことが挙げられる。  1.危機管理マニュアルの見直し ① 津波を想定した通学バス避難場所の指定 ②地区割り担当者の決定 ③災害用児童生徒名簿の整備(緊急時の連絡先一覧と避難場所の掲載) ④災害用備蓄品の整備(食料、発電機、ラジオ)・医療的ケア児童生徒の持ち出し物品の整備 ⑤体験的防災教育の推進(教育課程の編成、防災教育力の育成、SOSファイルの作成) 2.関係諸機関との連携 大災害時は、学校独自の力だけでは困難を乗り切ることはできない。普段から各学校が関係諸機関と協力関係を構築しながら連携を点から線へ(継続性)そして面へ(広域性)と拡充・発展させる必要がある。 3.障害児の理解・啓発 学校を積極的に公開するとともに、学校間交流や居住地校学習の深化・拡充を図りながら障害児の理解・啓発活動を充実させることが重要である。石巻支援学校では、PTAを中心に障害児の理解・啓発活動として「ハートバッチ運動」が展開されるようになった。 4.特別支援学校の役割 大災害時に障害児が地域の小・中学校等で避難所生活を送れることが最も望ましい社会の姿であろう。しかし、どうしても地域での避難所生活が立ちゆかない場合は、特別支援学校が最後の砦として避難所を開設する使命を担っていると考える。 5.学校の危機管理能力の向上 危機管理能力は、イマジネーション力である。不安感情をコントロールし、具体的・組織的行動力に変えていくことが、今学校に問われている命題である。
  • 片桐 公彦
    2014 年 39 巻 1 号 p. 45-46
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    災害時には多くの外部からの支援者(ビジター)による手助けが重要となる。東日本大震災においてはその被害の大きさに比例して、これまでにない規模のビジターが被災地に駆けつけた。外部からの支援者の存在なしに復旧・復興を語ることはできない。しかし、その受け入れ体制を整理しておかなければ、現場は混乱し、復旧・復興を逆に遅らせることにもなりかねない。震災時におけるビジターコーディネート能力はわれわれが備えておくべき技術の必須アイテムといえる。 2004年7月の新潟・福島豪雨、2004年10月の中越地震、2007年の中越沖地震、その後もたび重なる大雪等、新潟県というエリアは常に震災・災害とともに歩んできた地域である。私自身、ときには被災者として、ときには支援者としてこれらの災害に関わってきた。特に2007年の中越沖地震の際は、被災地域が私の暮らす地域のすぐ近くということもあり、かなり深く関わらせていただいた。そこで見た風景は、ひたすらに支援を申し出る支援者の対応に追われる被災した福祉施設のスタッフの姿だった。その多くの申し出は被災地にとってはありがたいものであったが、「今はまだその時期ではない」「もうすでにその物資は必要ない」というものであってもすべてを引き受けようとする姿であった。災害時には「支援する者とされる者」の色分けが極めて明確になる。ただ、その中で必要なもの不必要なものは当然あるが「支援される者」である被災地の者はその好意をすべて引き受けなくては必要な支援が受けられない精神状態にある。そんな場面も多く目にしてきた。 東日本大震災においても同様の現象は起こった。それもこれまでの震災とは比較にならない規模で支援者が被災地を訪れることになった。これまで、いくつかの災害に支援に入っての印象は「支援に入る側は、被災地を支える側である一方、被災地にとってはこれまでその支援コミュニティに入り込むことのなかった部外者(ビジター)であり、それは立ち振る舞いを間違えるとたちまち被災地にとって負担となるという強い自覚を持つ必要がある」ということだった。 私自身は東日本大震災発生後から約3週間後から宮城県石巻市にある「ひたかみ園」に支援に入ることとなった。行った支援は今回のテーマにもなっている「ビジターコーディネート」である。「ひたかみ園」という知的障害者の施設入所支援事業所には多くの方が避難していた。障害のある方はもちろんのこと、障害のない方も多く受け入れを行っていた。そんな中で膨大な数のビジターが「ひたかみ園」を訪れ、またアクセスをしていた。当の「ひたかみ園」は「支援者は必要だがそのコーディネートをする余力はまったくない」といった状況だった。現地入りした私は、ビジタースタッフの受け入れにあたってのルールを設定した。そのルールとは以下の通りである。 ①支援の申し出は直接事業所に問い合わせをせずすべてコーディネーターを通すこと ②事業所の条件に合う方のみを受け入れること(一定期間以上活動できること、障害福祉関係の従事経験があるなど) ③事業所のやり方をむやみに批判したり指摘するような審判的態度を取らないこと ④自己完結で支援できること(食料や水、寝具、身の回りのものを自分で用意できること) こうしたリクエストは、支援を必要とする当事者からは実はなかなか出しづらいといった心理が働く。支援者の申し出は非常にありがたく、必要がない物資や支援であっても受け取ろうとするものである。そういう意味では、災害時における「ビジターコーディネーター」はできるかぎり外部の支援者に依頼すると言ったスタイルが必要になる。 今後も東日本大震災に匹敵する震災が起こらないという保障はどこにもない。この日本のどこかで大きな震災が起きたときに備え「ビジターコーディネーション」の重要性を共有していただけたら幸いである。
  • 田中 総一郎
    2014 年 39 巻 1 号 p. 47-48
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.災害から逃げのびる 東日本大震災による被害者の死因の90.5%が溺死であった。また、被災3県の障害者手帳を有する方の死亡率(1.5%)は、一般の方(0.8%)の約2倍に及んだ。これは、障害児(者)を津波被害から守る避難支援の方策が機能しなかったことを物語る。2005年に内閣府は、自力では避難することができない高齢者や障害者の避難を支援する「災害時要援護者の避難支援ガイドライン」を策定した。2012年には、全体計画は87.5%の市町村で策定済であったが、個別計画は33.3%に過ぎなかった。宮城県の医療を必要とする子どもたち113家庭を対象としたアンケート調査(2012年10月)では、このプランを知らなかったのは57.2%、この制度に登録していないのは79.6%であった。また、震災時に登録していた15人のうち実際に援助が得られたのは3人(20%)であった。今後の周知と、実際の支援を見直す必要がある。 Ⅱ.安全に過ごせる場所を見つける 1995年の阪神淡路大震災では、神戸市内養護学校の児童生徒262人の59%が自宅に留まり、39%が避難した。その避難先は、避難所が10%、親戚・知人宅は28%であった。東日本大震災では、医療を必要とする子どもたちの家庭の62%が自宅に留まり、38%が避難した。その避難先は、避難所が12%、親戚・知人宅が12%、自家用車内が11%であった。避難所を選択しなかった理由として、夜間の吸引音や、奇声を発する子どものことを気兼ねしたことが多くあげられた。阪神淡路大震災から東日本大震災の間、16年経っても、避難所は障害児(者)にとって避難しにくいところのままであった。 子どもたちが普段通いなれている学校や施設が福祉避難所になることは、安否確認、必要な物資の把握、子どもたちの精神的安定のためにも今後取り組まれるべき方策であると思われる。 Ⅲ.普段からの防災 人工呼吸器や吸引器など電源が必要な家庭では、電源の確保や自家発電機、電源を必要としない手動式・足踏式吸引器が注目を集めた。学校や福祉施設への自家発電機の配置、常時服用している薬剤のお預かりなど、防災への意識も高まっている。 子どもの薬剤は、錠剤やカプセルを常用する大人と違い、散剤やシロップが多く、詳細な情報がないと処方しにくい特性がある。薬を流失した、または、長期にわたる避難生活で内服薬が不足したときに、遠くの専門病院まで処方を受けにいくことは困難である。今回の教訓として、処方内容や緊急時の対応法などを明記した「ヘルプカード」の作成と携帯が提案されている。医療と教育、福祉が協力して推進すべき課題である。 Ⅳ.それでも困ったときは 災害時の備えを十分に行っても、「想定外」な不測の事態は起こりうる。このようなときに頼りになるのは、普段からのつながり、信頼関係、きずなである。 たび重なる津波被害を受けてきた三陸地方に伝わる「つなみてんでんこ」は、「津波のときは人に構わず、一人ひとりてんでに逃げる」ような一見冷たい印象を与えるが、実際には異なる。「家の人が戻ってくるまで家で待っている」子どもがたくさん犠牲になったこの地方では、「お母ちゃんはちゃんと逃げているだろう、だからボクも待っていないで一人で逃げる。そうすれば、あとで迎えにきてくれるはずだ」と子どもたちに教えているという。普段からの信頼関係があってはじめて、「つなみてんでんこ」は成立するのである。 このような悲惨な体験から立ち上がる力(レジリエンシー)を次世代に育むためには、絆を信じる力が重要である。負の遺産を正の遺産に変えていくためのキーワードは、この「絆を信頼する力」であるといえる。
  • 光真坊 浩史
    2014 年 39 巻 1 号 p. 49-50
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.はじめに 東日本大震災による被災3県の被害は、サービス利用者の死亡48名、行方不明6名、障害福祉サービス事業所等の全壊43カ所、半壊・一部損壊200カ所(損壊等率12.1%)であった。厚生労働省の行った支援の概要を報告し、重症心身障害児(者)(以下、重症児(者))を中心に今後の課題について論ずる。 Ⅱ.発災直後の現地課題と国の対応 1.在宅障害者の安否確認、ニーズ把握が困難 全国から派遣された保健師や相談支援専門員等によるニーズ把握、障害者団体による会員の調査の活動を支援。 2.一般避難所では障害者に対する配慮が不十分 障害者への情報確保や相談窓口等の周知のため「生活支援ニュース」(壁新聞)を作成し、全避難所に配布。一般避難所での障害者への配慮を促すとともに福祉避難所の設置を促進。 3.被災した障害者の他県での受入れが必要 全国の障害福祉施設を調査し、2,800カ所8,946人分の受入れを確保し斡旋。ピーク時には施設入所者515人が県外避難。 4.障害福祉サービス事業所のマンパワー不足 全国の障害福祉施設の介護職員等2,028人の派遣要員を確保。現地の要請に基づき派遣の斡旋を行う仕組みを作り、最大148人(延べ7,789人日)を派遣。 5.障害福祉サービスの利用・提供が困難 福祉制度の運用弾力化を図り、利用者には①受給者証の紛失や有効期限切れでもサービス利用可能、②新規の支給決定や変更手続きの簡易化、③利用者負担の免除や支払い猶予、④避難所での居宅介護等を利用可能に、事業者には①定員超の受入や職員配置基準を満たさなくても提供可能、②避難先での安否確認も請求対象、③仮設施設や避難先施設で支援した場合も請求対象、④概算請求を可能とした。 6.小規模な障害者団体ではきめ細やかな対応が困難 人的・物的支援の相互乗入や情報共有を行うことを目的に11関係団体連絡協議会(全国重症心身障害児(者)を守る会も参加)の立上げ支援や運営会議への協力1)。 Ⅲ.重症心身障害児(者)特有の課題と対応 ①停電等(計画停電含む)による生命の危機→相談窓口の開設、施設への自家発電機整備等、②避難所での生活困難→発災後の福祉避難所の指定促進、③救援物資の不足・輸送困難→業者・団体等を通じた輸送等、④生産工場被災による経管栄養剤の不足→代替策の周知、⑤施設入所者の組織的避難→受入施設の広域調整、移送手段の確保(福島整肢療護園等)を行った。 Ⅳ.今後に向けて(国の役割、福祉避難所等) 大災害時の国の役割は、現場のニーズを迅速かつ的確に把握し対応することである。一方、今回の東日本大震災では、医療機関や関係団体等の既存のネットワークによる支援が有効に機能した。今後は、ネットワークによる支援が十分に機能するよう、発災直後から関係団体等と緊密な連携を図り、サポートしていくことも国の重要な役割の一つになろう。 重症児(者)については、人的・物的環境の整った福祉避難所で積極的に受入れていくことが命をつなぐ意味でも重要である。今回の大震災では、日頃通っている特別支援学校や事業所へ自主避難した重症児(者)も少なくない。それらの施設の多くは福祉避難所の指定を受けていない場合が多く、今後は重症児(者)に対応できる福祉避難所を増やしていくことが求められる。一方、福祉避難所の運用上の問題を指摘する声も聞かれる。「福祉避難所設置・運営に関するガイドライン」2)では、まず身近な指定避難所に避難した上で福祉避難所の設置の判断をすることになっており、これが重症児(者)には過度の負担となるという指摘である。しかし、これはあくまでも指針であり、要援護者の状況等が把握できている場合は事前に避難する福祉避難所を特定することも可能である。個々の実情に応じて各自治体の柔軟な運用が求められる。そのために今できることは、災害対策基本法に基づく避難行動要支援者名簿の作成3)を通しながら、顔の見える関係の中で個別の避難計画を検討していくことである。障害の重い人のことから考える災害対策が求められる。
シンポジウム3:地域生活重症心身障害児者本人、家族、きょうだいへの支援
  • 小沢 浩
    2014 年 39 巻 1 号 p. 51-52
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    「この子は私である。あの子も私である。どんなに障害は重くとも、みんな、その福祉を堅く守ってあげなければと、深く心に誓う」 この言葉は、日本で最初の重症心身障害児施設である島田療育園の初代園長小林提樹の言葉である。提樹は1935年(昭和10年)に小児科医となり、この座右の銘のままに生き抜いた。 「生めよ、増やせよ。」 お国のために生きろという戦前戦中の時代の中、障害児を抱えた母親は離縁させられたり、心中したりという悲惨な状態であった。母親は皆、「産んだ責任」を考えながら、生きていかなければならなかった。 戦争が終わり、戦後の混乱の中、人は生きるのに精いっぱいだった。子どもを育てられない人の中には、我が子を捨てるものもいた。「捨て子」の中には、障害児も多かった。 提樹は、その子らを日赤産院に収容していった。 自分たちの食べ物もない、生きるのに必死だった時代…。 「捨て子を育てるとは、どうせ不義の子であるから、不義を助けることになっては、やるべきことではない」 当然、周囲の反対も多かった。 「では、捨て子は見殺しにしますか。生あるものは助けるのが医師の仕事です」 提樹はそう主張し、受け入れを続けた。 そのような中、島田良夫ちゃんのご家族を中心に、 「障害児のための楽園をつくろう」 を合言葉に、島田療育園が1961年(昭和36年)に誕生した。 何もないところから築き上げた島田療育園。誕生するまでも、誕生してからもそれは大変であった。お金がない。職員がいない。そのような中、水上勉が1963年(昭和38年)に中央公論に発表した「拝啓池田総理大臣殿」が社会的反響をよび、少しずつ整備されていったのであった1)。 では、今はどうであろうか。一つ話を紹介する。 「先生、話があるの。」 とある日、A君のお母さんがやってきた。うつむいて憔悴しきった表情であった。 私は診察室にお母さんを案内した。 「なんで私ばっかりこんな不幸な目に合わなきゃなんないのよ!」 バタンとドアが閉まるやいなや、お母さんはそう叫んで泣き崩れた。 それからお母さんはぽつりぽつりと話し出した。 お父さんが突然、 「なんか、俺、やる気が出ない。変なんだ」 と言いだし、病院に行き、「うつ病」と言われ、納得いかないまま自宅に帰った。けれど、突然夜中にけいれんを起こし、救急車で集中治療室に運ばれたことを。 そして、そのままレスピレーター管理になったことを。 診断はウイルス感染による急性脳症であった。 かけてあげる言葉が私には何も浮かばない。泣き声だけが部屋に響く。そのときであった。ふと見るとA君が笑っていた。私はその笑顔に救われた。 「A君が笑っているね」 その一言だけ私はお母さんに告げた。 「そうね、Aが笑っている。Aに笑われている。私が頑張らなきゃ。」 そう言ってお母さんは涙をふいた。以来お母さんは泣かなかった。涙を見せなかった。 しばらくしてお父さんは亡くなった。葬式のとき、A君は島田療育センターに緊急一時入所をした。葬儀が終わるとお母さんはすぐにA君を迎えに来た。病棟のスタッフは、 「大変だからまだ預かるわよ」 と言ったが、お母さんは、 「いや、大丈夫です。」 と言って、すぐに連れて帰った。そのやりとりを病棟で聞いていて、私にはお母さんの気持ちがわかる気がした。お母さんにとって、あのときはA君が必要だったのである。 私がその話を伝えたいと外来でお願いしたときに、そのときだけお母さんは泣いた。 「いきなり何を言ってるのよ、先生」 って。それから泣きながら教えてくれた。 「実は私、Aが生まれたとき、一緒に死のうと思ったの。そしたらお父さんが、『俺がお前たちを幸せにする。一生守ってやるから、絶対におまえたちを死なせない』って言ってくれた。だから生きていこうと思った。そのお父さんは死んじゃったけど、まさかAに助けられるとはね。Aは一家の大黒柱よ。」 「産んだ責任」 障害という個性を持った子どもを産んだとき、母親は誰もが考えるという。それは昔も今も変わらない。 「生まれてくれてありがとう」 お母さんが、お父さんが、おばあちゃんが、おじいちゃんが、お姉ちゃんが、お兄ちゃんが、おばちゃんが、おじちゃんが、みんな思ってくれる。 そんな時代を築くために、われわれは今、何をしたらいいのだろうか。 このシンポジウムは、すべての子どもたちが、そしてその家族が、明るく楽しく過ごす。そんな社会を作っていくきっかけとなるシンポジウムを目ざしている。
  • 髙橋 昭彦
    2014 年 39 巻 1 号 p. 53-54
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    人工呼吸器、経管栄養、痰の吸引などの医療的ケアが必要な子どもを支える社会資源は限られ、家族の負担は大きい。ひばりクリニック(以下、当院)は、無床の在宅療養支援診療所である。2008年度より、日中の数時間、医療的ケアの必要な子どもを預かるレスパイトケア(日中一時支援事業)を行っている。レスパイトケアのニーズは高いが、経営面、送迎、人材育成など課題は少なくない。事業収入と助成金、寄付を集めれば経営的に成り立つビジネスモデルを目指しているところである。
  • 鈴木 亜矢子
    2014 年 39 巻 1 号 p. 55-56
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.はじめに 小児医療における診断・治療技術の進歩と医療体制の整備により、重度の健康問題を持つ子どもの命が救われるようになった。その反面、特殊な医療技術を要するケアを継続しなければ生命を維持できない子どもは増加する傾向にあると言われている1)。 入院期間の短縮化に伴い医療的ケアを必要とする子どもたちが地域で生活することは珍しくない。しかし、小児の在宅生活を支える社会資源は十分ではない現状がある。そのような中、安定した在宅生活を継続するためには、 ① 病状の安定 ② がんばらない育児 ③ 本人・家族みんなが満足できる生活 の3つの要素が必要と考えた。事例を振り返り、検討した結果をここに報告する。 Ⅱ.倫理的配慮 対象者家族に事例をまとめることの趣旨、発表する際に個人が特定されないようにすること、同意しないことで不利益がないことを説明し同意を得た。 Ⅲ.事例紹介 1.病状の安定 1)ケース紹介 10代 男児 脳性麻痺(痙性四肢麻痺) 重度精神発達遅滞 慢性呼吸不全 嚥下機能低下に伴う誤嚥性肺炎で、入退院を繰り返す。母親の医療不信が強く、定期受診はしていなかった。病院からの退院条件で訪問看護導入となった。 2)活動の実際 ・母親は訪問看護に対して拒否的であったが、状態の把握に努め、呼吸理学療法や腹臥位を導入した。 ・ 日々の呼吸状態の変化を経皮的動脈血酸素飽和度(SpO2)値など実際の数値を用いて母親に説明した。 ・主治医や各関連機関との連携を図った。 3)考察 徹底した予防により、呼吸状態も安定し入院回数も減少。母親との信頼関係も徐々に構築され訪問看護に対する母親の心理も変化した。自宅で病気を予防し状態を安定させるためには、家族の力だけではなく、専門的介入が必要なことも多いのではないだろうか。 2.がんばらない育児 1)ケース紹介 2歳 男児 低酸素性脳症、脳性麻痺、気管切開し人工呼吸管理 両親の相互協力が出来ている3人家族。 退院時カンファレンスで父親は「(母親は)この子のことに関しては、なんでもわかるしできるから」と、地域の往診医や訪問看護に対しての支援を積極的には望んでいない様子が窺えた。 2)活動の実際 ・全身状態の把握・医療的ケア・呼吸機器の管理。 ・外出機会の少ない母親へのレスパイトケア。 3)考察 緊急時の判断も冷静にできる自信を持った母親であったが「子どもにとってのお母さん」は1人しかいないということを理解してもらう必要性があると思われた。本人・家族のお互いの心身の安定はとても大切なことである。長い在宅生活継続のためには、ときには子どもから離れ、母親自身が自分の時間を持つことも必要である。 3.本人・家族みんなが満足できる生活 1)ケース紹介 18トリソミー・心不全・呼吸障害を持つ3兄弟末子の男児、Aくん。 出生直後に余命半年の宣告。 生後48日目に退院し、半年と24日間自宅で過ごし天国へと旅立った。 2)活動の実際 ・ 家事や不安定なAくんの育児で疲労と不安でいっぱいだった母親へのレスパイトケア。 ・兄弟にも母親が目を向けられるように、行事に合わせ変則的な訪問日程の調整や外出支援。 ・NICU主治医への報告と連携。 ・亡くなって数日後の訪問。母親は「自宅で家族と過ごすことが出来てよかった。心の支えになっていたのは、自分の気持ちを理解してもらったこと。」と感謝の気持ちを話した。 3)考察 家族は最期のそのときまで、各々が普段通りに自分の役割をこなしながらAくんを囲んで生活をした。Aくんは家族が集まる居間の真ん中で、最期のそのときまで、けんかをする兄たちの声、大好きな両親の声、家事など日常の音を聞き、家族を感じることが出来ていたのではないだろうか。 Ⅳ.総合考察 重度の健康問題を抱える子どもが退院する場合、「家庭で一緒に暮らす」という子どもと家族の基本的ニーズが叶うと同時にケアの負担が伴う1)と言われている。しかしそれが家族にとって負担や特別なことにならないような支援が必要である。そして家族で大切な時間を過ごすためには、①~③のどれも不可欠な要素なのである。 家族が一緒に自宅で過ごすということは一見当たり前のことのように思われる。しかしその当たり前の日常が、障害児者本人・家族にとって貴重な時間なのである。 Ⅴ.おわりに  小児の在宅医療に関する支援体制は未だ十分ではない。今後はあらゆるニーズにも対応できる訪問看護師のスキルアップを目指すとともに、病院と地域の連携が小児の在宅医療の向上につながっていくのではないだろうか。
  • −花の郷で大切にしていること−
    関根 まき子
    2014 年 39 巻 1 号 p. 57-58
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.はじめに ご本人が家族の一員としての役割を果たし、豊かに地域生活を過ごす・・そのために、「ご本人が通いたい通所施設」として大切にしている5つのことと、課題について報告する。 Ⅱ.送迎保障 施設送迎はほとんどの利用者が希望をする。介護の担い手はほとんどが母親であり、母親は家事や育児、介護を行い、夜間まとまった睡眠がとれていない生活が現状である。家族が送迎できないと通所ができないのは不利益である。花の郷では吸引が必要な利用者には、吸引ができる職員を増やし、100%施設送迎ができるようになった。送迎保障は通所保障の1つである。 Ⅲ.形態食の提供 食事は常食の他に初期食・中期食・後期食・注入食を提供している。経管栄養では、口から味見をしてから注入をする。「1人1人の食べる力」に合わせて、写真で個別マニュアルを作成し、家庭で簡単に作れる形態食や食品の注入について、家族にも情報提供をしている。毎日継続したい脱感作法やバンゲード法は通所中に行う。行事や外出などでも再調理をして食べたいものを食べるようにしている。 Ⅳ.豊富な活動 「何故、通所施設で花の郷を選んだのか」ということがあったら、それは「利用者に自分らしく楽しく過ごせるからだ」と言ってもらいたい。午前・午後と施設全体で最低9つプログラムを用意し、作業や療育的活動を豊富にしている。利用者の多くは療育的活動を選択する。まずは利用者が自分のために通所をして、そこで何がしたいのかを利用者・家族・支援職員と考える。活動見学会を行い、家族に利用者の様子を直接見ていただくこともある。その他スイミング、季節行事、レクレーション、外出がある。 Ⅴ.医療的ケア 2004年の開所時は、医療的ケアが必要な利用者は家族が付添いをしていた。施設で何をすればいいか答えははっきりしていた。現在は多くの支援職員が医療的ケアを実施している。医療的ケアは支援の正規職員に限らずパート職員も実施している。家族以外に、利用者を理解する人が実施することが大切と考える。なぜなら、利用者は寄り添う人に行ってほしいからである。退院指導や訪問医療があっても、医療的ケアに慣れないうちは、日々の生活不安があるのが家族の現状である。家族が行う医療的ケアに立ち会いや相談を受けることがある。 Ⅵ.連携 安心・安全に施設で過ごすには指導医の存在は欠かせない。医師の考えや意見、指示によって利用者の思いを生活の中で形にしていく作業が大きく変わる。病院や在宅で行われる機能訓練や理学療法士に誰でも行える体のとりくみについて指導を受けている。心理相談は支援方法にとどまらず、支援者のあり方を学べる。摂食支援経験者の言語聴覚士からは摂食支援の大切さから利用者を知ろうとする気持ちが職員に定着した。職員の研修は業者などにも依頼をする。その専門家に習うことは、内容などがわかりやすい。そして、ボランティアの存在は、様々な社会経験をしている方の力として利用者の世界を広げ、職員の学びとなる。 Ⅶ.課題 施設レスパイトの多くは医療的ケアが必要な利用者である。家族の事情で緊急に、休日夜間に家庭で過ごせなくなったら誰が利用者に寄り添うのか。このようなケースを何度も経験している。通所施設だからこそ通所時間外の利用者の生活で課題が見えることもある。利用者が、今より充実した地域生活ができるためには、通所施設だけでは限界があるし、ピンポイントで家庭に入る支援でも利用者の生活に隙間が生じる。利用者を取り巻く関係性を通所生活の視点から、地域に向けて構築しなければ、本当の意味での安心した地域生活とはならない。そして、利用者、家族を支えることにはならないのだと思う。その構築と関係づくりが課題である。
  • 稲森 絵美子
    2014 年 39 巻 1 号 p. 59-60
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    重症心身障害をもつ4名の児の母親に、子どもとのコミュニケーションについてインタビューを行った。一般にその子の気持ちや意図を読み取ることが困難だと思われる重症心身障害児であっても、その微細な反応を敏感に察知することを通して、養育者との間にコミュニケーションが拓かれうることが確かめられた。また、子どもに係わる周囲の人々が、共に子どもの気持ちを読み取っていこうとすることが重要であると考えられた。
重症心身障害児(者)のファッションショー
  • −色と装いを楽しむ−
    多屋 淑子, 成田 千恵, 水沼 千枝
    2014 年 39 巻 1 号 p. 61-65
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    第39回日本重症心身障害学会学術集会において、国際医療福祉リハビリテーションセンターなす療育園、のざわ特別支援学校高等部の協力を得て、「色と装いを楽しむ」をテーマにファッションショーを行った。今年度は、衣服が重症心身障害児(者)の生きる力の向上に及ぼす影響に着目し、機能的で美しく、生活に活力を与える衣服を検討した。モデルは本人と家族の了承を得た重症心身障害児(者)であり、衣服製作に際しては着用者の希望を取り入れ、心身共に着心地の良い着脱が容易で美しい衣服を製作した。さらに、気管切開患者用のスタイ(よだれかけ)の役割を持ち襟元のアクセントにもなる取り外し可能な襟も考案した。これらの衣服は、障害者の生きる力に影響を与え、障害者や介護者の生活のQOL向上のために有用であることが確認できた。
  • −ファッションショーを終えて−
    鈴木 利子
    2014 年 39 巻 1 号 p. 67-72
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    Ⅰ.はじめに まばゆいスポットライト、大勢のお客様、そして万雷の拍手。リハーサルなしのぶっつけ本番、健常者でも尻ごみするほどの舞台で初めてづくしのファッションショーが行われた。 舞台袖ではあれほど緊張していた織り作家達がまるで別人のようにステージで躍動し、会場を沸かせていた。それぞれがまさに自由に思い思いのポーズで。不安な要素は数え上げればきりがなかったが、どこか私には大丈夫と確信めいたものがあった。それは振り返れば昔の遠い記憶と符合するものであった。 Ⅱ.息子が生まれた時代 長男が生まれた1963年頃は、知的障害者は学校で勉強する機会も与えられていなかった。保護することが子にも親にも最良の方法と考えられていた。 人里離れた所に収容施設が点在していた。知的障害者は在宅して家族が面倒を見るか、施設に入所するかの二者択一しか生きてゆく方法が無かった。 Ⅲ.かくされた何か 私には忘れられない出来事が一つある。息子が6歳、小学校1年生になるときのことだった。教育委員会から一通の通知が届いた。その通知は「精神薄弱児のため小学校の入学を猶予する。」という内容の通知であった。それまでもどこの幼稚園も保育園も受け入れてもらえなかった。これで息子が社会から切り捨てられてしまったとの思いが強く、ひどく落胆した。 気力を失いかけたときに大学の付属小学校の一室を借りて養護学校の前身である学級をスタートさせるというニュースを知った。重い障害の子どもも受け入れるということで申込者が大勢いたが、親子面接で11名が入学することになり、息子もその中の1人となった。「自閉的傾向強く、情緒不安定、IQ測定不能」これが学校の診断だった。息子はずっと学校に馴染むことが出来ずにいた。秋の運動会は付属小と一緒に行うことになり、入学早々から少しずつ練習が始まっていた。息子を含め、数名の児童は全く無関心で教室から出て来なかったり、逃げ回ったりという状況であった。 やがて運動会当日を迎え、付属小の1年生が走った後に息子たちの学級の子どもたちの走る番が来た。子どもたちが一生懸命走っているあまりの意外さに、走れたことへの喜びの気持ちが湧くまでに間があったことを今でも覚えている。「どうしてみんなでちゃんと走れたのだろう」「何が息子たちを奮い立たせたのだろう」そのとき、普段の息子たちから読み取ることが出来ない何かがかくされているのではないか、どうしたらその何かを引き出すことができるのだろうと疑問が湧きあがってきた。それ以来その何かを探すために手探りでの模索が始まった。 Ⅳ.さをり織りとの出会い 息子が作業所に通い出して10年ほど経っていた頃のことである。保護者の一人から、障害者が織れる織物の講習会があると誘いを受けた。その当時、障害者ができる仕事は今よりさらに少なく、どの作業所でも仕事探しに苦労していた。簡単にできるのなら仕事になるかもしれないと、軽い気持ちで参加した。不器用な私でも織れそうなので3カ月大宮の教室に通い、織りを習うことにした。息子も一緒にやって欲しいとの願望もあり、織り機を自宅に2台購入した。作業所にも器用な人がいるので教えてみようと考えながら、息子とも一緒に織れたら幸せだと思っていた。 翌年大阪で「さをり織り20周年記念祭」があり、息子と参加することになった。創始者の城先生の記念講演で私は大きな衝撃を受けた。先生のおっしゃるには、人には「体力」「知力」「感力」という3つの力があり、知力体力は個人差がある。感力だけは障害者、健常者の区別なく全員が持って生まれている。健常者は様々なことを習得していく過程で感力が鈍っていく。幸いなことに知的障害者はそういったことが少ないため感力が温存されている。その感力を引き出すことが出来れば優れた才能を発揮するというのだ。そして「芽が出るのを待つ。いじれば壊れる。」とも。 我が身を振り返れば、息子に対して真逆のことをしていた。出来ない所だけが目につき、直そうとやっきになっていた。芽を摘み、壊していたのかと愕然とした。どのようにしたら芽が出るのを待てるのか、先生にお聞きしなければと強く思った。会場から出てくる先生を待ち構え、疑問をぶつけた。「悪い所を見つけて治すのが名医だよ」しかし、「良い所を見つけて伸ばす」これがさをり織りの極意だと教えてくれた。長い間探し求めていたものはこれかもしれないと思った。さらに先生は「感力を引き出す織りを媒体として人育て」をしようとしているのではないかとも思った。先生の理念を私も目指してみたいという思いが強く湧いていた。先生の熱意を全身で感じようと息子を連れて各地で開催される講演会に何度も出席した。 Ⅴ.ファイバーアーティスト カズ・スズキ誕生 息子は先生の講演会では何時間でも静かに聞いてはいるが、織りには全く興味を示さず、織り機に触れようともしなかった。そんな状況が続き、工房をつくろうと活動を始めて4年が経過していた。息子には向いていないのかとあきらめかけたとき「ぼくもおる」と突然彼が言い出した。私は天にも昇る気持ちで息子のために用意してあった織り機を準備した。 息子はものすごい勢いで織り始めた。織るというよりむしろ織り機と格闘しているかのようだった。通常織り機で行う足の踏み替えを彼はしないため、結果的に織り機にセットされている縦糸に糸をひたすら巻き付けている状況となる。しだいにぐるぐる巻きにした横糸の圧力で縦糸が次々に切れていった。 織り物とはとても言える状況ではないと思ったが4年待たされた状況では嬉しさしかなかった。その第一号の作品が、後にデパートに展示され、なんと別荘の壁に飾りたいとお金を払ってでも欲しいという人が現れた。織りたいように織ればよい。出来あがったものを生かす工夫は後からすれば良い。息子から教わったことだ。以来どんな人でも受け入れることが出来た。 Ⅵ.ファッションショー ショー出演のお話を頂いたときに、喜んで引き受けさせて頂いた。「ゆめはパリコレ」とファッションの世界に一石を投じられるような織り作家になることを目指して精進してきたその成果を見て頂く良い機会と捉えたからだ。 まず織り作家の親たちの意識を高める意味合いもあり、知り合いの服飾専門学校の東京でのファッションショーを見に行くことにした。スタイルの良いモデルの卵のような生徒たちが独創的な服を着て颯爽と登場する素晴らしいショーであった。それを見ながら、しかし逆に、私たちにしか出来ないショーをするべきではないかとの思いが私の頭を巡っていった。そして、日常着られる服で長く愛用できるものを作家自身がモデルになって作家自身と作品をアピールしようと決めた。 次にそれぞれの服のデザインや仕立の問題に直面したが、地元の洋裁の先生のアドバイスを頂いて親たちが仕立てる方向に決まった。舞台進行も知り合いのイベント企画の方のアドバイスを頂いたりと多くの方々の支援を受け、手作りで何度も手直しをしながら作り上げていった。 皆それぞれがファッションショーを成功させようという意気込みが当日の結果につながっていったと感じている。そして遠い昔に付属小学校で障害を持った子どもたちが全力で走ったように、いやそれ以上に彼ら織り作家のみんなは素晴らしいパフォーマンスを大舞台で示してくれた。 そして今回のテーマとして挙げさせて頂いた、「喜績織りを通じて障害を持った織り作家も輝き、それを身につける方々、そしてその双方を取り巻く方々も輝くことでお互いを生かし生かされる社会の実現につなげていく」ことの一端がまさに実現した瞬間ではなかったかと感じている。 Ⅶ.親は子に育てられる 健常者の方でも子離れが出来ない方もおられるが、子に障害があるとなおさら親は子離れが出来ずにいる。常に身近にいるために近視眼的な見方をしてしまいがちになる。今回は登場する織り作家それぞれにエスコートをする人をお願いしたが、基本的に親たちではなく、工房の生徒さん方を中心に出演頂いた。親たちには客席から我が子の晴れの舞台を見て頂くことにした。皆の努力が結集した舞台、会場の反応を肌で感じながら、観客として子どもたちを見たときに今までとは違ったたくさんのメッセージを受け取るのではないかとの思いがあった。実際に親たちはファッションショーのあの感動をしっかりと受け止め、彼らのために何をすべきかを考え、動き始めている。城先生の理念はここに生きていると感じている。 喜績織 喜びをつむぐ その生きて来た軌跡 これから起こす奇跡 そして今ここに、もうひとつ意味を加えたい。彼ら一人ひとりがキラキラと輝く貴石である と。 以下に会場の雰囲気を少しでも感じて頂くためにファッションショーの写真を掲載する。掲載に際してはそれぞれご本人および保護者の皆様からのご承諾を頂いている。
原著
  • 水戸 敬
    2014 年 39 巻 1 号 p. 73-78
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    これまで重症心身障害児(者)通園事業の目指すべき目標の一つとして、“どれくらいの人口・地域面積当たりに通園事業所が1カ所必要なのかの答えを得てそれを実現する”に置き、目指してきた。今回、その一環として、兵庫県下における実態を検討するために、神戸市内の6カ所、神戸市を除く兵庫県下の6カ所の重症心身障害児(者)通園事業所にアンケート調査を行った。神戸市内は全市的にシステム化され、18歳以上の対象者の通園希望の現時点の需要にほぼ応えていた。一方、神戸市以外の県下ではその地域の需要に応えている所、応えられていない所、事業者がない所に分かれた。そこで、今回、神戸市における現状(人口15,000人に一人の割り、片道送迎1時間以内)を基準にして兵庫県下を14地域に分け、各地域での今後の対応策について考察した。行政のさらなる協力を得ながら、各地域での通園システムを確立するべき時期に来ていると思われる。
  • 第Ⅲ報:日常生活活動
    三田 勝己, 三上 史哲, 三田 岳彦, 岡田 喜篤, 末光 茂, 江草 安彦
    2014 年 39 巻 1 号 p. 79-92
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    本研究は「個人チェックリスト」の日常生活活動(排泄6項目と食事6項目)を取り上げ、大島の分類1~4に属する定義上の重症心身障害児(者)を対象として、排泄および食事の機能障害、活動制限、環境因子の横断的な実態と経年変化を解明することを目的とした。排泄では、尿意・便意がない人たちが30%、明確でない人たちが50%存在した。排泄の知らせが困難な人たちは約80%を占め、それは尿意・便意の機能障害に因るのみならず、尿意・便意を伝える表出技能に困難があるためと推察した。排泄の介助は多数が全介助を必要とし、その割合は経年的に増加した。食事の摂食機能では口の開閉、咀嚼、嚥下の困難な人たちがそれぞれ約50%、75%、60%にみられた。摂食方法は25%の人たちがスプーンを使って何とか食べることが可能であったが、70%弱は自分で食事ができない人たちであった。食事の介助は75%の人たちが全介助であり、なんらかの介助を含めるとほぼ全員に必要であった。食の形態は30%余りの人たちがきざみ食であり、経管栄養食、ミキサー食、軟飯軟菜、普通食もそれぞれ約15%の人たちに提供されていた。また、経管栄養食の人たちが経年的に増加する傾向がみられた。本研究結果は、重症心身障害児(者)の障害が運動機能や知的機能のみならず、排泄、食事の機能障害や活動制限にも及んでいる実態を明らかにした。
  • 佐藤 朝美, 小倉 邦子, 濵邉 富美子
    2014 年 39 巻 1 号 p. 93-98
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    本研究は、在宅重症心身障害児(者)の「医療処置(気管切開・胃瘻・人工呼吸器を実施・導入すること)」を決断した母親が、その決断をどのように評価しているかを明らかにすることを目的とした。研究方法は、障害児(者)施設に通院・通所、および訪問看護ステーションを利用している重症心身障害児(者)のうち、医療処置を実施して1年以降の母親12名に面接法を用い、質的帰納的に分析を行った。その結果、母親は医療処置の決断の評価を「良かった」と意味づける一方で、医療処置後の子ども自身の反応や、状態の変化などに直面すると、決断の評価が揺らぐことが明らかになった。また、母親の中には、決断を肯定的に意味づけた者もみられ、それは子どもの頑張りを実感できたことがきっかけとなっていた。以上の結果から、母親が医療処置の決断を評価するときは、普段から子どもの経過をよく知っている医療者が支援にあたる必要性が示唆された。
  • 佐藤 朝美, 小倉 邦子, 濵邉 富美子
    2014 年 39 巻 1 号 p. 99-104
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    本研究は、在宅重症心身障害児(者)(以下、重症児(者))の「医療処置(気管切開・胃瘻・人工呼吸器を実施・導入すること)」を決断した母親が、「医療処置」を決断するときとその後にわたり、医療者にどのような支援を求めているかを明らかにすることを目的とした。研究方法は、「医療処置」を決断した経験を持つ、あるいは、実施予定のある在宅重症児(者)の母親6名に、フォーカスグループインタビュー法を用いた。その結果、母親は決断時に「相談できる人や場の提供」を必要としており、決断を支える人として訪問看護師、ピアサポーター、セカンドオピニオンを挙げ、その活用への支援を医療者に期待していた。さらに医療処置に関する「学習会」を、家族を含めて行うことを求めていた。
症例報告
  • 岡崎 哲也, 齋藤 貴志, 斎藤 義朗, 小牧 宏文, 中川 栄二, 須貝 研司, 佐々木 征行
    2014 年 39 巻 1 号 p. 105-111
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    Ceftriaxone(以下、CTRX)の投与後、一過性に胆嚢内に胆石様物質(偽胆石)が出現することが知られている。通常、数日程度で無症状のまま消失するが、われわれは、CTRX投与による偽胆石により胆石発作様の症状が出現し、さらに投与中止後長期間偽胆石が残存した症例を経験した。低酸素性虚血性脳症後遺症の大島分類1、常時人工呼吸器管理中の19歳女性で、5回の感染機会にCTRX投与を行った。CTRX投与から1カ月半後の腹部CTで胆嚢内に偽胆石を多量に認め、その後胆石発作様の症状が出現した。その後は無症状で経過したが、最終投与から4カ月後も、胆嚢内に多量の偽胆石を認めた。胆石発作様の症状が出現したこと、偽胆石が長期間残存したことの原因として、経管栄養により胆汁排泄能が低下していたこと、広範な中枢神経障害から、胆汁排泄に関する神経性調節の障害を有する可能性が考えられた。重症心身障害児(者)では、通常は無症状で改善する偽胆石でも症状を来す可能性があり、CTRXを使用する際には注意を要する。
  • −歯石誤嚥の1例および気管チューブ気管内脱落の1例−
    鈴木 啓子, 斉藤 剛, 岩佐 諭美, 鳥井 貴恵子, 徳光 亜矢, 林 時仲, 楠 祐一, 平元 東
    2014 年 39 巻 1 号 p. 113-118
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    気道異物は反復性の肺炎や無気肺の原因となり、ときに致死的な状況にもなりうるため、早期の診断と摘出が望ましい。今回われわれは、気道異物の2例を経験した。1例目は、肺炎を契機として、歯石が左主気管支に誤嚥されていることを発見し、気管支鏡での摘出を試みたが、処置中に歯石が崩れて肺野の末梢に移動してしまい、摘出できなかった。その後、抗生剤投与によって肺炎の再発は無く経過した。歯石の誤嚥については、われわれの調べえた範囲では現在までに1例しか報告がない。不十分な口腔のケアは、口腔内細菌叢の悪化に伴う誤嚥性肺炎のリスク増加とともに、本例のような歯石誤嚥のリスクとなりうると考えられた。2例目は、永久気管孔に使用していた気管チューブが気管内に脱落し、約4カ月後に咳とともに排出されたが、この間明らかな症状を認めなかった。気管チューブが管空構造であり、気道を閉塞しなかったことが、無症状であった原因と考えられた。
  • 水野 勇司, 古川 牧緒, 松﨑 義和, 宮﨑 信義
    2014 年 39 巻 1 号 p. 119-123
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    反芻症状を長年示してきた3例の動く重症心身障害者に対し、上部消化管内視鏡検査を実施した。36歳女性は、上部消化管出血症状を呈し、逆流性喉頭炎、食道裂孔ヘルニア、逆流性食道炎の所見を認めたため、プロトンポンプ阻害剤を開始した。43歳男性例では、上部消化管出血症状があり、逆流性食道炎の所見を認め、プロトンポンプ阻害剤を開始した。26歳男性例は、反芻症状しかなかったが、食道裂孔ヘルニア疑いの所見を認めた。長年反芻と考えられていたが、内視鏡検査の結果、3例とも、胃食道逆流によると思われる器質的異常を認めた。 重度の知的障害者の6~10%が反芻を呈するとされており、決して頻度の少なくない問題行動であるが、その背景には器質的異常が潜んでいる可能性があり、積極的に消化管内視鏡などで原因検査を行い、対応を図ることが必要である。
  • 大森 啓充, 福原 崇之, 山﨑 雅美, 村田 芳夫, 福場 浩正, 竹本 将彦, 池田 政宣, 松本 信夫, 田中 彰一, 住元 了
    2014 年 39 巻 1 号 p. 125-130
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    慢性膵炎は、膵内部に不規則な線維化、細胞浸潤、実質の脱落、肉芽組織などの慢性変化が生じ、腹痛などの臨床症状、膵内・外分泌機能不全による臨床症候を伴うものが典型的であるが、無症候性の症例も存在する。 一方、重症心身障害児(者)では、てんかん合併の頻度は、約40−60%と高く、治療に抵抗性の難治性であることが多い。今回、脳性麻痺、最重度精神発達遅滞、難治性てんかんで長期入院中であった重症心身障害児(者)に、著明な膵石灰化を伴う慢性膵炎を合併した一例を経験した。 臨床的には、腹痛などの消化器症状はなく、無症候性で、血液検査では、膵内・外分泌機能はほぼ保たれていた。本症例では、難治性てんかんでバルプロ酸ナトリウム(VPA)を含む多剤療法を幼小児期から長期にわたって行われており、慢性膵炎 の原因として、薬剤性が強く示唆された。てんかんを合併し、特にVPAを含む多剤併用療法をせざるを得ない重症心身障害児 (者)では、慢性膵炎にも十分注意する必要があると思われた。
資料
その他・実践報告
  • 岩本 陽子, 芳野 正昭
    2014 年 39 巻 1 号 p. 137-142
    発行日: 2014年
    公開日: 2021/08/25
    ジャーナル フリー
    特別支援学校に在籍する、動きの微弱な超重症児(A児、6歳10カ月)に対して、以下の(1)(2)の対処からなるコミュニケーション支援を実行した。すなわち、(1)A児が好むと考えられた活動を授業内容の中心的活動として、A児の意思に沿った活動展開になるよう努める。(2)PICDCサイクルと名付けた一連の行為(①A児に見られた身体の動きを取り上げる(Pick up)、②その動きの意味を解釈する(Interpret)、③A児の視覚障害に配慮し、取り上げた身体部位に触れて確認する(Confirm)、④解釈に沿った活動を展開する(Develop)、⑤展開に対するA児の反応の様子から解釈の妥当性を評価する(Check))を丁寧に繰り返す。その結果、A児の身体の動きの活発化と意思表出の促進が認識され、コミュニケーションの成立が起こり始めた。この結果から、超重症児に対するコミュニケーション支援を目的とする授業の在り方を考察した。
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