社会学評論
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国家・道徳・主体
17世紀後半の民衆物語にみる自己抑制的主体の登場
川田 耕
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2001 年 52 巻 2 号 p. 233-249

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抄録

集権化された強力な国家の出現は個々の人間が自己抑制的になることに連動していくとエリアスは主張しているが, 日本の17世紀後半の浄瑠璃などの民衆的な諸物語にみられるプロットの内在的な発展の中にもこの連動を読みとることができる.
中世以来の伝統的な物語にたいして, 17世紀半ばに人気のでた金平浄瑠璃が描いたものは「国家」であった.そこでは, 国家の力を一身に体現する想像的・人格的な形象=〈父〉が描かれ, 主人公たちがこの〈父〉に情動的に同一化して非国家的な勢力にたいして攻撃的態勢を取ることで, 国家と自己との肯定的な関係が想像された.
しかし17世紀半ばをすぎるとこうした空想的な物語は廃れ始め, 近松の浄瑠璃をはじめ新種の物語が生まれはじめる.卓越した力をもつ〈父〉そのものへの同一化と外部への攻撃性の発散ではなく, 力を失った〈父〉の教える道徳を自己犠牲を厭わずいかに見事に実践するのか, ということがその主題となった.国家の力としての〈父〉は道徳としての〈父〉に変化して, 個々の主体の内面へ取り込まれていったのである.この時, 外部に向けられえなくなった攻撃性は個々の主体の内部へと方向をかえ, 自殺などの自己懲罰的な行為が主題化されるほどに, 自己抑制的な人間像が繰り返し描かれる.
このような物語の中の主体のありようの変遷から, 集権的な国家の出現にともなう自己抑制的主体の日本社会での誕生を窺い知ることができよう.

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