サインポエトリーはろう者自身の体内に沸き起こるポエジーを、ろう者自身の言葉である手話で「詩」のかたちで表出したものである。その定義を改めて振り返り、海外と日本のサインポエトリーの現状を踏まえ、ろう者自身によるサインポエトリーの振興の必要性について考える。
誰でも表現者になれるようになった現代社会。手話の世界も例外ではなであり、マイナーな言語であるために、様々な要素や社会的関係が複雑の関係が手話にはつねに発生する。そのような境遇において、手話を使ということを考えざるをえない。ここでは、手話による芸術表現をとお性を批評的に考察してみたい。
本論文は、日本での手話歌をめぐる対立の背景にある音楽に関する問題領域、すなわち「聾者にとって歌とは何か」「それは聴者とどのように異なるのか」という問いについて、聾者カテゴリー内の多様性(先天性/中途失聴/難聴)も踏まえながら理論的に論じるものである。本稿で注目するのは、手話における身体運動のラインである。文化人類学者ティム・インゴルドによるラインと知覚に関する議論を参照し、彼の「全感覚的な知覚経験の中で環境と呼応するライン生成過程」という視座を導入することで、聾歌を「身体運動ライン生成過程そのもの志向」としてとらえる可能性を提示する。そしてこうしたライン生成への視点の欠如こそが手話歌の音楽的問題を招いていると結論づける。
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