日本考古学
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8 巻, 12 号
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  • 萩原 博文
    2001 年8 巻12 号 p. 1-20
    発行日: 2001/10/06
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    1960年,長崎県福井洞穴の発掘調査で初めて土器と細石刃の共伴例が確認され,縄文文化の起源に関する問題が提起された。その後40年経過し,特に九州では調査例が増加し,地域性の強い多様な細石刃石器群の存在が明らかとなり,該期研究は成熟しつつある。
    長崎県泉福寺洞穴では第10層から5層にかけて細石刃と土器の共伴が認められ,その分析によって細石刃石器群の編年の見通しが得られた。しかし,縄文草創期は地域性が強く,「神子柴文化」など他地域の文化要素も認められることから,広域編年は極めて困難と言わざるを得ない。
    小稿は泉福寺洞穴の層位的成果を,良好な調査例の多い南九州と比較することにより,縄文草創期の編年を試みたものである。編年の基準としたのは,泉福寺洞穴における福井・泉福寺型細石核や土器の文様構成の変化,尖頭器・石斧・石鏃の形態変化である。この時代の九州には多様な形態の細石核が認められ,強固な地域性を形成するが,両端2面への細石刃剥離作業面形成など細石刃製作技術の要素レベルでの比較によって広域対比が可能である。すなわち,地域集団の石器や土器製作におけるシステムや諸要素を分析することにより,地域間の比較を行うことができるのである。
    縄文草創期には,細石刃以外の狩猟具として尖頭器,石鏃があり,また南九州では植物性食料へ依存した本格的な縄文文化の胎動が認められ,複雑な様相を呈している。「神子柴文化」の影響も認められ,このような九州縄文草創期文化を解き明かすには,検出例の少ない土器のみでは困難であり,細石核を主体に尖頭器,石鏃,石斧の形態変化を通して行うべきである。小稿ではこれらをもとに,縄文草創期の四期(初頭,前葉,中葉,後葉)区分を行った。しかし不明な点も数多く,本州との対比を含めて今後究明すべき課題は多い。
  • 伊豆大島下高洞遺跡D地区検出資料からの検討
    忍澤 成視
    2001 年8 巻12 号 p. 21-34
    発行日: 2001/10/06
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    縄文時代においてオオツタノハガイ製貝輪は,素材とされた貝の生息場所がわが国においてかなり限定されていることからその特殊性が注目され,素材入手先と素材・製品の流通経路を明らかにできる可能性の高い研究材料として,他の貝種の貝輪とは一線を画すかたちで扱われてきた。しかし,生物学においても現生貝の分布が著しく限定される特殊な貝種であることに変わりはなく,現生標本の数が少ないことも手伝ってこの貝種そのものの研究が立ち遅れていることから,考古学にとっては生物学的な情報が得にくい障害の多い研究材料でもある。そこで,従来型の考古資料のみからの研究方法では,この問題の本質にせまることが難しいと考えた筆者は,現生貝の調査データを基礎とした生物学的な視点からの研究を試み,オオツタノハガイの生息地問題・素材貝の入手方法・製作過程の一部を明らかにした(忍澤・戸谷2001)。
    一方,現在までのところ東日本で唯一,オオツタノハガイ製貝輪の未製品が出土しているとされる東京都大島町下高洞遺跡D地区は,この貝をめぐる問題を考える上で最も重要な遺跡の一っと考えられるが,遺物の出土状況や遺物そのものについての詳細は未だ明らかにされていない。そこで筆者は,大島町にわずかに残されている貝層サンプルに目を通し,この中から当該遺物を検出するとともに,細部にわたる観察をおこないこの貝種の貝輪製作方法とオオツタノハガイをめぐる伊豆諸島,特に大島下高洞遺跡の役割について改めて考察を試みた。
  • 大阪平野の弥生時代中期遺跡群を中心に
    若林 邦彦
    2001 年8 巻12 号 p. 35-54
    発行日: 2001/10/06
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    弥生時代中~後期の大規模集落については,拠点集落・城砦集落・都市など様々な名称が与えられてきた。特に,大阪府池上曽根遺跡の調査成果を初端とした弥生都市論は注目を集めている。本稿では,大規模集落の実態を分析し,複雑化した集落遺跡に関する新たな位置づけを試みた。
    分析対象地域としては,大阪平野中部を取り上げ,このうち弥生時代中期に連続的に集落遺跡が形成される,河内湖南岸遺跡群,平野川・長瀬川流域遺跡群・河内湖東岸遺跡群の3領域について,各時期の居住域・墓域の平面分布の変化を検討した。その結果,大規模集落・拠点集落と言われてきた領域では,径100~200m程度の平面規模の居住域に方形周溝墓群が付随した構造が複数近接存在し,小規模集落といわれていた部分はそのセットの粗分布域と認識できた。
    この居住域は竪穴住居・建物が20~50棟程度の規模と推測され,単位集団・世帯共同体論で想定された集団の数倍以上となる。本稿では,これを「基礎集団」と仮称した。基礎集団は,小児棺を含む複数埋葬という家族墓的属性をもつ方形周溝墓群形成の母体と推定されることから,血縁関係を結合原理としていたと考えられる。また,この集団は水田域形成の基盤ともみられる。本稿では,基礎集団を,集落占地・耕作・利害調整上の重要な機能を果たす人間集団と位置づけた。
    基礎集団概念にもとづけば大規模集落はその複合体と考えられ,近畿地方平野部において環濠と呼ばれている大溝群も集落全体を囲むものとは考えられない。また,大規模集落内では,近接する基礎集団間関係が複雑化し,それが方形周溝墓群内外にみられる不均等傾向をもたらしたと考えられる。さらに,池上曽根遺跡における既往の分析によれば,近接する各基礎集団間には一定程度の機能分化傾向も読み取れ,大規模集落内外に基礎集団相互の経済的依存関係が醸成されていたことが注目される。また,同様の特徴は西日本における他地域の大規模集落にも認められる。
    以上の特徴を前提とすれば,大規模集落に対し,経済的外部依存率の低い自給的農村としての城砦集落と定義するのは難しい。また,基礎集団が血縁集団的性格をもつことは,都市と定義づけるにはそぐわない居住原理の内在を大規模集落に想定せざるを得ない。このことから,本稿では弥生時代の大規模集落を農村でも都市でもない「複合型集落」という概念でとらえ,社会複雑化のプロセスを考察することを提案する。
  • 八木 光則
    2001 年8 巻12 号 p. 55-68
    発行日: 2001/10/06
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    古代東北の城柵は7世紀中葉から9世紀初頭まで,東北政策の変換点にあたる4つの時期に集中して造営された。まず650~660年前後の渟足・磐舟柵は阿倍臣の北征ともからみ,北方交易や大陸からの玄関口としての機能も求められたものと想定される。7世紀末の郡山II期官衙は地域支配の中心行政府として造営された。
    第2段階の720~730年前後は奥羽両国の国府(級)として多賀城や秋田城が,またいわゆる天平の五柵が大崎平野に造営された。大崎平野への城柵集中は,郡評制施行地域の北縁に防衛ラインを形成し,移民の保護や支援,夷俘と移民との間に予想される軋轢防止が目的であった。そして夷俘対応の城柵と公民対応の郡家とを共存させるきめ細かな二元支配が行われていた。
    第3段階の760年前後は桃生城・雄勝城・伊治城が造営され,建郡と直接移民の管理保護が目的であった。このとき同時に多賀城や秋田城も改修工事がおこなわれている。
    第4段階は800年前後で,胆沢城・志波城・払田・城輪の新城柵造営,奥羽両国府の整備改造,桃生城や伊治城など旧来の城柵の統廃合という大規模な城柵の再編が行われた。奥羽支配の中でもっとも積極的な延暦期の版図拡大政策によるものであった。
    その後徳政相論による行政改革にともなって,9世紀半ばには多賀城・宮沢(玉造柵)・胆沢城・城輪(出羽国府)・払田(第二次雄勝城)・秋田城の6城柵に集約されるようになる。
    6城柵体制は,広域各地の課題に分担対応することが目的のひとつであり,また国府直轄下より北では郡家にかわる広域支配を行うのも大きな役割であった。これは国家側の積極的な軍事・移民政策が転換,中止を余儀なくされ,令制郡施行の貫徹が放棄された結果であり,城柵が衰退する10世紀中葉まで奥羽支配の基本構造をなしたのである。
  • 吉澤 悟
    2001 年8 巻12 号 p. 69-92
    発行日: 2001/10/06
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    火葬された遺骨を収める容器(骨蔵器)には,しばしば人為的な孔が開けられていることがある。本稿では,この穿孔の意味や背景を考えることから,奈良・平安時代(8~10世紀代)の人々が火葬墓を作る時にどのような思いを抱いてたのか理解しようとするものである。全国の穿孔のある骨蔵器86事例を集成し,その分布や時期別数量,使用器種,穿孔位置,大きさなどの傾向を検討した。さらに,これまでの研究で指摘されている穿孔の排水機能や信仰的用途について,一定の基準を設けて分別し,傾向をまとめた。結果,8世紀段階の穿孔は,比較的小さく排水機能に適したものが多く,9世紀前半を境にそれ以降は,孔が大きく多様な位置に穿孔したものが多くなり,信仰的な意味合いで穿孔されるようになる様子が捉えられた。つまり,穿孔は実用性から非実用性へと変化していたのであり,墓造りの意識自体それに伴って変化していたと推察された。
    この変化の背景を探るため,信仰的な遺物(鉄板,銭貨,呪砂など)と穿孔の共存関係を調べたところ,9世紀前半以降,墓における仏教的な儀礼の影響がみられ,それが非実用的な穿孔が増加させる原因であるとの推測を得ることができた。また,穿孔という行為が,一つの集団にどのように受け継がれて行くか,その流れを九州の池の上墳墓群を例にして調べてみた。結果,この墓地では,実用から非実用へと変化する全国的動向とは正反対に,最初の段階から非実用的な穿孔が行われ,後に実用化していた。また,穿孔をもたない一群とも有機的な関係が窺え,骨蔵器になにがしかの手を加える意識が伝承されていた様子を知り得た。これらから,骨壺への穿孔は,厳格な規範として行われたものではなく,加工行為自体を,集団が独自の伝承に基づいて行っていたと考えた。総じて,火葬墓の造営は,遺骨を保護する意識から遺骨を収める際の儀礼を重視する意識へと変化しており,それは,前時代(古墳時代)の遺体保護の観念が薄れ,後の時代(平安時代後期)の墓以外の場所で魂や霊の供養が行われるようになる,過渡的な段階を表象するものと推察した。
  • 荻野 繁春
    2001 年8 巻12 号 p. 93-107
    発行日: 2001/10/06
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    ローマ時代の食文化を彩った擂鉢文化は,ローマ帝国の拡大と文化の深層を探る上でも重要な要素である。その擂鉢文化を構成する中心がモルタリアあるいは擂鉢と呼んでいるローマ陶器であるが,時代によってはこうした容器の意味するところに違いがあり,共和政期ではむしろモルタリア文化としてみる方が時代性をよく反映し,その上モルタリア文化の存在は,帝政期の擂鉢文化の存在をも明らかにする。
    まず共和政期のモルタリア文化を文献から明らかにした。つまりモルタリアが登場する最古のラテン語論文,大カトの『デ・アグリ・クルトゥラ(De Agri Cultura)』(紀元前2世紀初頭頃の作品か)に描き出されているモルタリアを抽出し,モルタリアがどのような場面でどのような使われ方をしているか明らかにした。それによると,一概に擂鉢のような「擂る」道具としてだけではなく,パンやケーキの生地を「練る」容器として使われている場面がいくつかある。この点で,擂鉢としてではなくモルタリアとして多様な用途を考えた方がよい時代でもあり容器であることがわかった。さらにエトルリアの壁画を資料としてあげながら,モルタリアがどのように使われていたかを指摘した。
    次に共和政期のモルタリアについて,イタリア半島のモルタリアと東地中海のモルタリアとを考古学的に比較検討した。そしてヘレニズム後期のモルタリア文化を明らかにした。大カト時代と同時代のイタリア半島におけるモルタリアとして,型式学的にエトルリアのロセト型を設定した。帝国時代の陶器研究においては,この種のモルタリアがwall-sided rim type(筆者の複合口縁部タイプ)と称されているものであるとした。そして紀元前4世紀後半から紀元前2世紀前半にかけての編年を明らかにするなかで,大カトの論文に登場するモルタリアの特徴とロセト型の形態的特徴が合致するとの結論に達した。ヘレニズム後期の東地中海地域におけるモルタリアとの比較では,イスラエルのテル・アナファ遺跡出土のモルタリアを分析して,ヘレニズム期から帝政期初期にかけてのモルタリアの変遷を明らかにし,特に高台の特徴にロセト型との類似を指摘した。
  • 利部 修
    2001 年8 巻12 号 p. 109-121
    発行日: 2001/10/06
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    東北・北海道を除く日本列島の長頸瓶には,7世紀から8世紀にかけてフラスコ形・有衝形・球胴形・釣り鐘形等様々な形態があり,それをA類からJ類まで分類し北日本(東北・北海道)の様相と比較した。これらは,大局的に8世紀後葉以降球胴形で高台をもつ形態に統一されていく。ところが,主として北日本の9世紀から10世紀にかけては,胴部と頸部に環状凸帯の付く環状凸帯付長頸瓶が広範囲に分布する。
    一方,城柵設置地域を含む秋田・岩手県から青森県・北海道西岸にかけての北域では,胴部調整にロクロを用いない東北北部型長頸瓶が濃厚に分布し,秋田・岩手県の城柵設置地域を含む郡制施行地域以南のロクロを用いる手法と対峙する。環状凸帯付長頸瓶を,前者のR1類・後者のR3類・両者併用のR2類に分けると,分布の大局は福島県域のR1類と,青森県・北海道西岸のR3類とが対峙し,城柵設置地域ではR1・R2・R3類が併存する。
    北日本の環状凸帯付長頸瓶は,9世紀前葉に会津大戸窯跡で発生し,城柵設置地域まで広がる。そして,城柵設置地域から北域にかけて東北北部型長頸瓶の特徴を備えながら更に分布域を拡大し,五所川原窯跡ではR3類が量産される。本来,蝦夷政策で採用された希少価値の高いR1類環状凸帯付長頸瓶が,形骸化して装飾性の痕跡を留めたR3類に変質したとみられる。
  • 天正九年段階戦国大名(宗像氏貞)の軍事体勢の一側面
    中村 修身
    2001 年8 巻12 号 p. 123-134
    発行日: 2001/10/06
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    近年,福岡県内の中世山城の実態調査が進み諸々のことが分かってきた。沖縄県で開催された日本考古学協会1998年度大会において「北部九州の中世山城」について発表する機会をえた。その時の論旨は中世山城に戦術的山城,里城(居館),戦略的山城,本城など各種の形態があることを述べ,それらが領国支配と深くかかわって変化することを述べた。
    戦略的山城,本城については,都市の発達,城郭縄張りなど極めて多くの研究がなされ大きな成果を挙げている。一方,戦術的山城,里城(居館)が取り扱われることは極めて少ないように思える。里城(居館)の調査も早急に取り組まなければと思うが未だに資料の蓄積が十分でない。ここでは,戦術的山城と位置付けられる砦,端城,切寄せ,保障などと呼ばれ簡素で小規模な山城の果たした役割について明かにすることを目的とする。
    織田信長,豊臣秀吉が在地領主層の家臣団化と常備軍化に成功していた時代の北部九州の実態を宗像氏支配下の福岡県若宮盆地の山城分布および縄張り調査の成果と天正9年立花勢と宗像勢が若宮盆地で戦った合戦いわゆる小金原合戦の文献をもとに,在地支配と戦術的山城の意義と山城と軍編成と言う視点から検証すると,天正9年段階では福岡県若宮盆地に所在する20余箇所の山城の管理運営は領主宗像氏ではなく各村落がそれぞれの山城に深く関わり,山城を中心とした軍事力は小規模在地勢力(村落)の手に掌握されていたと,見ることができる。
  • 寒川 旭, 森岡 秀人, 竹村 忠洋
    2001 年8 巻12 号 p. 135-146
    発行日: 2001/10/06
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    兵庫県南東部に位置する西摂地域は,古代白鳳文化期に遡る寺院跡の少ない地域で,芦屋市西山町・三条町一帯に遺存する芦屋廃寺跡はその一つとして貴重な存在である。
    摂津国菟原郡管下唯一の古代寺院であり,その創建は7世紀末と推定され,周辺は葦屋駅が存在して山陽道が通過し,官衙域を形成するとともに,日本で2番目に古い干支年銘木簡「三 壬子年」などが出土している。
    発掘調査や確認調査は1967年以降,70数次におよぶ実績があるが,工事立会程度の小調査も多く,既に市街地と化しているため,伽藍配置はもちろんのこと,正確な寺域も判明せぬまま現在に至っている。今般,芦屋市教育委員会が実施した第62地点の発掘調査では,伽藍中枢と関わる遺構が初見された他,堅く築成された基壇面を大きく貫く地震遺構(地割れ)が確認され,この寺院と自然災害とのかかわりを示す類例ないものとして「地震考古学」の面で脚光を浴びた。
    調査地は,表六甲山系の標高30m前後を測る芦屋川の扇状地面上に立地し,大阪湾を臨む見晴らしの良さと高燥な土地条件に恵まれている。1999年度に共同住宅建設に伴い発掘調査が実施され,少なくとも3度にわたる基壇形成の地業面が検出されている。3枚の整地面の時期は,築成土出土土器に基づき,下からIII(7世紀後半)→II(13世紀以前)→I(13世紀以降)と変遷することが判明し,整地面Iには礎石を伴っていた。
    本稿で紹介・考証しようとする地震痕跡は,上記したI面の基壇相当面までを貫く大規模な地割れ跡であり,最大幅1.1mで長さ6.5m以上にわたって確認された。地割れ内に陥入した遺物と被覆層中の遺物との年代対比から,この地震痕跡は1596年に発生した慶長伏見地震によることが確証でき,さらに堆積層の検討から地震直後の環境変化も把握され,特筆すべきこととして,地震の状況を記した文献史料との対比まで可能であることが明らかとなった。芦屋廃寺は中世末期にこの地震被害により,法灯の断絶を余儀なくされたと考えられる。
  • 斎藤 義弘
    2001 年8 巻12 号 p. 147-155
    発行日: 2001/10/06
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    宮畑遺跡は,古くより縄文土器の散布地として知られていた遺跡であるが,1997年度に実施した福島工業団地造成に伴う発掘調査で,柱痕の直径が約90cmを測る縄文時代晩期の掘立柱建物跡や数多くの縄文時代中期の焼失住居跡が発見された。1998~2000年度に福島市教育委員会が実施した確認調査で,縄文時代晩期の掘立柱建物跡と埋甕で構成される集落に加え,縄文時代後期及び中期の集落跡がほぼ同じ区域に存在することが明らかになり,各時期の捨て場も集落の西端に形成されていることが確認された。
    縄文時代晩期の集落は,大洞BC式から大洞C2式を中心とし,掘立柱建物跡が環状に巡り,その外側に埋甕群が伴う。掘立柱建物跡は建て替えが行われ,掘形は1m以上を越える深いものが多い。竪穴住居跡は掘立柱建物跡に比べて少なく,墓坑の位置は確認されていない。
    縄文時代後期の集落は,後期前葉から後期後葉まで確認されているが,後期後葉の集落様相は現時点では明確でない。縄文時代後期前葉には敷石住居跡を伴う集落が形成され,竪穴住居跡及び土坑群が遺跡の南半で確認されているが,配石墓は確認されていない。縄文時代後期中葉には,後期前葉より広い範囲に集落が展開しており,墓坑の可能性がある土坑が竪穴住居跡に近接して確認されている。
    縄文時代中期の集落構成は明確につかめていないが,大木9式~10式の竪穴住居跡が確認されている。竪穴住居跡に占める焼失住居跡の比率が高く,焼失は廃屋儀礼等の当時の風習に起因する可能性が高い。焼土と炭化材の検出状況から,屋根構造は土屋根であったと考えられるが,焼土がブロックで厚く堆積するなど,これまでの調査で報告されている焼失住居跡とは異なる燃焼状況があったと考えられる。
    宮畑遺跡は,縄文時代晩期の集落形態や縄文時代後期前葉における敷石住居跡の受容,それに縄文時代中期の竪穴住居の構造と風習など,縄文時代の社会構造を考える上で貴重な情報をもたらす遺跡であるといえる。
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