本稿は弥生時代の谷利用について,発掘調査された事例から検討を行い,これまで想定されてきた谷水田が集落を支える安定的・普遍的な生産耕地ではないこと,及び谷を臨む台地・丘陵上の集落は谷水田を耕作したのではないことを,南関東地域をモデルに論証した。
従来の弥生時代の集落研究では,台地・丘陵上にある集落は,眼下の谷及び河川氾濫原に水田を営んで来たと推論してきた。しかし谷水田についてはその実例は少なく,谷部から水田が確認されない事例もあることから,これまで具体的な検討が行われないままの,いわば「想定としての谷水田」として存在していた。
水稲は連作可能であり,他の穀類と比較して多収穫となる特徴をもつが,水を与えれば育つというほど単純なものではない。水稲には独自の植物的生育条件があり,その生育環境によっては収穫量に変動が起きるのである。特に谷水田のような低水温・過水の環境では,それを克服するためのいくつかの工夫と装置が必要であり,これがなければ不稔の確率が高くなる。弥生時代の谷水田には,こうした工夫や装置が存在しない事例があり,相対的に天水田(谷水田)と灌漑水田では前者の収穫量が極端に低いことが知られていることから見て,谷水田からの安定的な生産量は認めがたい。
さらに,低地部の灌漑水田では生産域と居住域が至近の場所にあるが,谷水田に隣接して集落が存在する事例も確認できることから,谷水田の耕作は,台地・丘陵上に居住する集団が行ったとは限らないことが理解できる。
一方台地・集落上の集落構成員は,井戸などの水に関わる谷利用を行っていた事例が確認でき,これが景観上「谷を意識」したと見える集落形態をとる,一つの理由であったと考えた。
本稿の分析によって,特に南関東に顕著な台地・丘陵に集落を構える集団は,谷水田で安定的な生産を上げていなかったことを論証したことによって,他の水田耕地の検証と,水稲以外の生業についての問題が提示された。
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