日本考古学
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7 巻, 10 号
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  • 小林 謙一
    2000 年 7 巻 10 号 p. 1-24
    発行日: 2000/10/04
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    縄紋土器,特に関東地方縄紋時代中期の土器は,その多彩な文様装飾によって知られている。その中でも,端正な五領ケ台II式,立体的で様々な装飾を華美に重ねる勝坂3式土器,画一化し次第に装飾要素を失っていく加曽利E式土器など,様々な顔を持っている。それらの特徴を捉え型式内容を解明する努力は,土器文化の時空間的整理や系統性を理解する上でも,またそれらの物質文化を生み出した縄紋人の精神性,土器製作の技術,装飾に対する認知を探る上でも,興味深い題材を与えてくれるものであり,現に多くの研究が重ねられてきた。
    本稿では,土器装飾の施文過程を,文様のレイアウトを中心に,模式図的に整理する。特に,割付の施文過程の規則性と実際の施文実行結果の正確さ,または予定された区画数や割付位置との違いとして現れる「ゆらぎ」を,区画数,割付角度,口縁・胴部の一致の度合いなどをみることで検討する。
    その結果,時期ごとに主流となる区画数,割付タイプが存在し,各土器文化における基準が存在することが確認される。同時に,各時期に基準から若干はずれるような割付の狂った土器も製作されている。五領ケ台式土器~勝坂2式土器は,口縁・胴部文様がともに4単位で構成され,比較的正確な割付がなされる割付タイプaが多い。勝坂3式から加曽利E1式土器は,変則的な割付タイプbなどがめだち,区画も2~6区画と多様で,3単位や5単位といった複雑な構成でも比較的正確に割付されるものがある。加曽利E3・4式土器の胴部文様は,ほぼ等間隔に成り行きに施文される割付タイプdが大半を占めるようになり,胴部文様は7~10以上の柱状区画が連ねられる構成となる。
    割付ポイントの角度や区画の長さを測定した結果から,五領ケ台式,勝坂式土器ではトンボ状器具や縄などを用いて等角度に割付を行おうとしている傾向が認められる。勝坂3式の縦位区画土器や抽象文を配する土器では,結果としてはダイナミックな文様構成をとっているが,施文前に等角度に割付のマークを付けているものが認められる。加曽利E3・4式土器の胴部文様は,指にょる人体スケールなどを用いつつ,等間隔に施文していく施文過程が復元される。
    土器割付の検討によって,縄紋土器の施文過程や土器生産システムの復元へとつながるであろう。
  • 異体字銘帯鏡と弥生の王
    西川 寿勝
    2000 年 7 巻 10 号 p. 25-39
    発行日: 2000/10/04
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    弥生時代中期,わが国に漢式鏡が舶載されはじめる。舶載鏡の大半は異体字銘帯鏡と呼ばれる前漢後期の鏡である。この鏡は北部九州の限られた甕棺墓から大量に発見されることもある。卓越した副葬鏡をもつ甕棺墓の被葬者は地域を統率した王と考えられている。しかし,その根拠となる副葬鏡の製作・流通時期や価値観については詳細に評価が定まっていない。また,大陸の前漢式鏡中に位置づけた研究も深化していない。
    著者は,これまでに中国・日本で発見された700面以上の異体字銘帯鏡を再検討し,外縁形態と書体をそれぞれ3区分し,その組み合わせで都合7型式を設定,編年を試みた。あわせて,各型式における鏡の価値観の違いを格付けし,もっとも上位に位置づけられる大型鏡は前漢帝国の王侯・太守階級の墳墓から発見される特別なものであることを確認した。
    大陸での異体字銘帯鏡の様相にもとづき,わが国発見の異体字銘帯鏡を概観した結果,今から約2000年前にあたる紀元前後(弥生時代中期末~後期初頭)に,型式と分布の画期をもとめることができた。その意義について,中期に発展した玄界灘沿岸の勢力が後期になって斜陽となり,西日本各地に新勢力が萌芽する様相がうつしだされたものと考えた。
  • 東海系曲柄鍬の波及と展開
    樋上 昇
    2000 年 7 巻 10 号 p. 41-70
    発行日: 2000/10/04
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    東海系曲柄鍬は,弥生V期後半~廻間I式期に伊勢湾地方に出現した伊勢湾型曲柄鍬を祖形として,廻間II式期以降,近畿地方から東北中部にかけての広範な地域に伝播していく。小論では各地で出土する東海系曲柄鍬の広域編年作業と,平面形態・製作技法の検討をおこない,いくつかの地域差をあきらかにした。まず,伊勢湾地方と静岡県中・東部では刃部整形技法が異なり,南関東・東北中部は静岡県,長野県北部・北関東・近畿地方は伊勢湾地方の影響を強く受けていることがわかった。刃部の平面形態や軸部の形態を比較すると,伊勢湾地方と北関東・近畿地方,南関東と東北中部がそれぞれ酷似している。また,長野県北部は東海系曲柄鍬からナスビ形曲柄鍬への変化が他地域よりも早い。これらさまざまな要因を重ね合わせると,東海系曲柄鍬の伝播は一様ではなく,S字状口縁台付甕などの伝播で説明されるような,人的移動だけでは必ずしも解釈できないことが判明した。すなわち,伊勢湾地方からのまとまった人の移動にともなう伝播類型とともに,直接的な人的移動によらず,東海系曲柄鍬の形態といった情報のみが伝播した類型の存在が判明した。
    伊勢湾型曲柄鍬が出現した弥生V期後半~廻間I式期,伊勢湾地方では沖積低地において,大溝の掘削・河川の改修・大規模な水田の造成がさかんにおこなわれたことが近年あきらかとなってきた。伊勢湾型曲柄鍬はこういった大規模な開発行為のために,この地方の首長層によって生み出され,大量に製作・使用された土木具であった。その系譜を引く東海系曲柄鍬の伝播には上記の開発技術がともなっており,むしろそのような技術こそが各地で沖積低地の再開発をおこなう在地首長層に必要とされたために,伊勢湾地方から直接的あるいは二次的・三次的に伝播していった可能性が高い。その意味で東海系曲柄鍬には,水田耕作を主たる機能とする直柄鍬とは異なる,高度な政治性が付与されていた。それは,伊勢湾型曲柄鍬の出現とほぼ同時期に近畿地方・北陸地方に伝播して,それぞれに定型化したナスビ形曲柄鍬も同様であり,これら曲柄鍬はおのおのの勢力範囲を争うかのように広範囲に伝播し,各地に定着していったのである。
  • 紀氏の造営寺院
    小笠原 好彦
    2000 年 7 巻 10 号 p. 71-85
    発行日: 2000/10/04
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    尼寺廃寺は大和の北西部に所在する古代寺院である。この廃寺は片岡尼寺とも呼ばれ,早くから現在の般若院付近とその北の白山姫神社の東方にある塔基壇付近とが対象にされ,いずれも同一の軒瓦が採集される寺院として知られている。これまで尼寺廃寺は般若寺に想定する考えがだされてきたが,近年は2つの地区の調査が行われ,北地区で塔跡が発掘され,ここから心柱と添柱の柱座を穿った巨大な心礎と舎利荘厳具が出土した。そこで,あらためてこの寺院の存在が注目されるところとなり,新たに葛城尼寺を想定する考えや調査関係者によって,飛鳥の坂田寺に葺かれた坂田寺式軒丸瓦と同笵の軒瓦が葺かれたことを重視し,敏達天皇の後裔王族によって建立されたとする考えがだされている。
    しかし,この廃寺が敏達天皇の後裔王族によって造営されたとすると,その後,この寺院に川原寺式軒瓦が葺かれてほぼ完成をみることになった造営経過との関連がほとんど知りえないことになる。また,造営者の具体的な活動もよく知りえないなどの難点が残ることになる。
    尼寺廃寺の造営氏族を検討するには,北地区と南地区との関連が十分に明らかでないという制約があるが,創建時に葺かれた坂田寺式軒丸瓦の同笵瓦に加えて同形式軒丸瓦の分布も踏まえて検討すると,この同形式軒瓦が紀ノ川流域で造営された西国分廃寺,最上廃寺,北山廃寺など初期寺院に集中して葺かれていることが注目される。そして,これらの紀ノ川流域の3寺院の造営氏族と尼寺廃寺の造営氏族との間に同族関係があった可能性がきわめて高い。そこで,そのような関連を認めうるとすると,尼寺廃寺は紀ノ川流域に氏寺を建立した氏族との関係からみて,大和に本拠地をもっ紀氏を想定しうる可能性が高い。尼寺廃寺の周辺には三里古墳のように,紀ノ川流域の横穴式石室に顕著にみる石棚をもつ後期古墳が知られ,式内社の平群坐紀氏神社が鎮座する。さらに紀氏系図に記された平群氏と紀氏との関係などからみると,ここに6世紀以降に紀氏一族が本拠地として居住していたことと深く関連する氏寺であったと推測される。また,この廃寺を紀氏の氏寺に想定すると,飛鳥に所在する紀寺を新たに検討すべき課題が生まれることになるのである。
  • メソポタミアの初期王朝時代~イスラム時代遺跡における新発見
    アル・カイシ ラビサーミ
    2000 年 7 巻 10 号 p. 87-96
    発行日: 2000/10/04
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
  • 沖 憲明
    2000 年 7 巻 10 号 p. 97-105
    発行日: 2000/10/04
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    冠遺跡群は西中国山地の中央部にある小盆地・通称冠高原と,その縁辺部の丘陵上に所在する。後期旧石器時代前半期から縄文時代前期にかけての石器類が丘陵頂上部から山裾の微高地にかけて多量に分布しており,それらの石器類の素材となっている安山岩等の原石も高原内やその南北の丘陵上に,転礫の状態で分布している。
    この遺跡群は1960年に存在が確認されて以来,長い調査・研究史をもつ。本稿ではその調査・研究史を概観するとともに,広島県教育委員会が現在実施している,この遺跡群の発掘調査事業の成果の一部を紹介する。
    この事業は,冠遺跡群の範囲と内容を確認し保存対策を講じる目的で,1991年度から実施されている。これまで高原内及びその周辺で小規模の発掘調査を繰り返してきたが,1998年度に発掘調査を実施した仮称・第56グリッドにおいて,後期旧石器時代前半期の古い段階に属する,石器石材の採取から石器製作までを行ったと推定される場所を確認した。
    石器群は姶良丹沢火山灰の下位層から出土しており,台形様石器などを含む。また,この場所には石器類が残された当時,一辺1m近い大型の安山岩礫が点々と露頭していたと推定され,それらのうちの一つを地表に引きずり出して使用したと推定される,縦・横約80cm,厚さ約60cm,重さ約108kgの石器接合資料も確認された。
    この接合資料と,その出土状況の検討によって,冠遺跡群の中での石器石材採取場所を初めて特定することができ,後期旧石器時代の石器石材採取の方法や,その場所での作業内容が解明されると予想される。また,冠遺跡群の中にも,石器やその素材の確保に重点を置く地点とそうでない地点,例えばいわゆる「管理的」石器'curated tool'の再加工やその他の道具類の製作,食事や寝泊まりなどの生活に重点を置く場所が存在することが予想され,原産地遺跡の内容解明に大きな資料を提供すると思われる。
  • 大型掘立柱建物の検出
    豆谷 和之
    2000 年 7 巻 10 号 p. 107-116
    発行日: 2000/10/04
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    唐古・鍵遺跡は,奈良盆地のほぼ中央,奈良県磯城郡田原本町に所在する弥生時代の代表的な環濠集落である。多重に巡る環濠は東西,南北ともに長さ約600mにおよぶ。遺跡の占有面積が,約30万m2の日本最大級の弥生集落である。1999年1月27日には,国史跡に指定された。発掘調査は,1936年の第1次から今日の第78次におよぶ。特に第1次は,唐古池の池底より多数の木製農耕具が出土し,弥生時代が初期農耕文化であることを証明した学史的に名高い調査である。今回報告する第74次調査は,遺跡を東西に分断する国道24号線の西側,鍵集落内で1999年7月14日から同年12月25日まで,田原本町教育委員会が実施した。遺物包含層は認められず,同一検出面で弥生時代前期から庄内期,中世および近世の遺構を検出した。唐古・鍵遺跡内部としては遺構の分布密度が低い。柱穴は少なく,木器貯蔵穴や井戸といった大型の土坑が遺構の大半を占める。このなかで,特筆されるのが大型掘立柱建物である。南北棟で独立棟持柱をもち,梁行2間(7.0m),桁行5間以上(11.4m以上)の規模である。また,掘立柱建物の内部となる中央棟通りにも柱穴があることから,総柱型になると考えられる。残存する柱根の直径は約60cmであった。柱底面と柱穴底には間があり,木片層あるいは棒材が敷き詰められていた。木片には加工痕があり,木柱加工時のチップを利用したものと考えられる。この大型掘立柱建物の年代は,遺構の切り合い関係や出土土器から,弥生時代中期初頭に位置づけられる。その年代は,独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物としても総柱型としても最も古いものである。弥生時代中期初頭の唐古・鍵遺跡は,大環濠を巡らす以前で,北・南・西の三居住区に分かれていたと想定されている。第74次調査地は,その西地区の中央付近にあたる。西地区は,遺跡内でも比較的古い前期弥生土器が遺構に伴って見つかっており,いち早く集住が進んだ地区と考えられている。おそらく,大環濠成立以前の唐古・鍵遺跡における中枢的役割をもっていたのだろう。その西地区中央部で,大環濠成立以前の大型掘立柱建物が検出されたことは意義深い。
  • 伊藤 博幸
    2000 年 7 巻 10 号 p. 117-126
    発行日: 2000/10/04
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    鎮守府胆沢城跡の第77次発掘調査で,政庁南門跡の南30mのところから政庁南門を塞ぐかたちで門跡SB1250建物跡が発見された。その位置は,胆沢城の南北中軸線上に南面する主要殿舎の一つとして配され,規模は,瓦葺建物である外郭南門,政庁正殿,同東脇殿に準ずる格式として造営されているが,掘立柱建物単層,非瓦葺建物という構造的格差も認められる。この建物跡の成立時期は,胆沢城II期以降であり,それは胆沢城全体のなかでも大きな画期に属する段階である。この建物跡は城内では「殿門」と呼称されたことが推定でき,その成立と出現の背景を探ると,9世紀中葉以降における陸奥北半部の城柵の再編成により,蝦夷支配体制が胆沢城一極に集中した結果と解される。このため鎮守府では,政庁機能の一部を分離させ,政庁南面広場に本来の政庁機能の一部を担った新たな施設を設けることを図った。これが殿舎の門「殿門」である。また,機能の分離により城内では,政庁周辺の官衙群の変質を含む官衙の再編も行われた。
    以後,この建物は国府多賀城とは別個の鎮守府独特の施設と機構として整備され,蝦夷支配体制の象徴として機能していったのである。
  • 伊藤 武士
    2000 年 7 巻 10 号 p. 127-137
    発行日: 2000/10/04
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    秋田県秋田市に所在する秋田城跡は,古代日本最北の城柵官衙遺跡である。
    律令国家により天平五年(733)に出羽柵として創建され,その後秋田城と改称された。8世紀前半から10世紀にかけて律令国家体制下における出羽国の行政及び軍事の拠点として蝦夷や移民の支配と統治を行った。奈良時代には出羽国府が置かれていたとされ,また近年は,日本海を通じた大陸の渤海国や北方地域との外交と交流の拠点としての役割も注目されている。
    秋田城跡では1972年以降秋田市教育委員会による継続調査が実施され,外郭区画施設及び政庁などの主要施設や実務官衙などの所在と変遷が確認され,城内外の利用状況も明らかになりつつある。
    近年の調査では,外交交流,行政,軍事などの面において,秋田城が城柵として果たした役割やその特質に関わる重要な成果があがっている。
    第63次調査では,鵜ノ木地区から上屋と優れた施設を伴う8世紀後半の水洗便所遺構が検出されている。便所遺構の寄生虫卵の分析から,ブタを常食とする大陸からの外来者が使用した可能性が指摘され,奈良時代に出羽に来航した渤海使や,外交拠点として秋田城が果たした役割との関連性が注目されている。
    第72次調査では,画期的内容の行政文書が漆紙文書として多数出土している。それらは,移民や蝦夷などの住民の把握と律令的支配を行うための死亡帳,戸籍,計帳様文書などであり,古代律令国家の城柵設置地域における地方行政制度や住民の構成と生活実態を知るうえで重要な成果となっている。また,第72次調査では,9世紀前半の非鉄製小札甲も出土している。平安時代前期の非鉄製小札甲の出土例や伝世品はなく,日本古代の甲の変遷を考えるうえで重要な成果となっている。
    漆紙文書や小札甲の出土は,秋田城が平安時代に行政と軍事の枢要機関として果たした役割を示唆している。
    秋田城跡の調査においては,今後も行政や軍事といった城柵としての基本的機能や役割を追究すると共に,最北の城柵としての特質についても解明していく必要がある。
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