日本考古学
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10 巻, 16 号
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  • 韓半島南端部・九州北部を中心として
    端野 晋平
    2003 年 10 巻 16 号 p. 1-25
    発行日: 2003/10/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    小稿の目的は,韓半島南端部・九州北部に分布する支石墓を基軸として,弥生時代開始期に韓半島南部から日本に導入される稲作と不可分な文化複合の起源地及びその伝播・拡散の実態を解明することである。
    これまで支石墓は墓制がもつ保守的な性格からみて,稲作と不可分な文化複合の起源地,すなわち弥生文化成立に関わったとされる渡来人の故地を推定する上で重要な要素と位置づけられ,そして渡来人の移住の在り方,在来人との接触についても合せて考察されてきた。しかし,伝播ルートと受容の在り方については諸氏により様々な見解が提示されており,一致をみない。このような見解の相違は,伝播現象に対して依拠する理論的枠組みの違いと,主として祖型とする型式,あるいは重視する属性の差異に起因するようである。また,いずれも韓半島南部における発掘調査例が不十分な60~70年代の成果を基礎に,祖型を仮定した上で論じられた感がある。
    そこで,筆者は,まず韓半島南端部支石墓の分類と型式設定を行った。そして,設定した型式と,日本支石墓の諸特徴との比較によって想定した祖型モデルを念頭に置きつつ,九州北部の墓の構造を属性レベルまで分解した。次に,各属性の変異の分布状況をみてそれらの変化方向を想定し,伝播モデルを構築した。また,出土遺物についても祖型と結びつきの強い渡来系遺物群と縄文系遺物群の分布状況に基づき,九州北部における朝鮮半島南端部との関連性の濃淡を検討した。さらに,以上の分析結果から導いた祖型・伝播モデルを,各属性の出現頻度と数量化III類を用いて統計的に検証した。最後に伝播ルートを考察する一助とするため,韓半島南端部の各地域と済州島,九州北部の上石の形態・規模を比較し,地域間の類似度を検討した。
    以上の分析結果から次の結論を導いた。(1)日本支石墓の祖型は石槨を下部施設とするもので,その内部には木棺が推定される。(2)日本支石墓は他文化要素とともに,朝鮮半島南端部の南江流域に起源する。(3)支石墓が日本へ伝播するにあたって,済州島を経由した可能性は低い。(4)支石墓は他文化要素とともに玄界灘沿岸を中心にまず伝播し,その周辺に拡散する。
  • 橋口 達也
    2003 年 10 巻 16 号 p. 27-44
    発行日: 2003/10/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    先に国立歴史民俗博物館は,AMS法(加速器質量分析法)による高精度炭素14年代測定法によれば弥生時代の開始は紀元前1000年,前期初頭の年代は紀元前800年,前期と中期の境は紀元前400年頃にあると推定した。そして弥生時代の始まる頃の東アジア情勢を殷(商)の滅亡,西周の成立の頃に,前期の始まりも西周の滅亡,春秋の初めの頃となり,認識を根本的に改めねばならない。また前期と中期の境についても仮に紀元前400年頃にあるとすれば,戦国時代のこととなり,朝鮮半島から流入する青銅器についてもこれまでの説明とはちがってくるだろうという問題提起を行った。
    これに対して筆者はまず,曲り田遺跡で早期の住居跡から出土した鉄器片に関連して殷,周,春秋,戦国時代の鉄器について概観し,殷,周時代の鉄は珍奇なものとして玉と同様に用いられた儀器的なものであり,曲り田遺跡の鉄器片は戦国時代のものとすることが妥当であり,このことからも早期の年代を紀元前10~9世紀に遡らせることはできないと考える。次に前期初めの今川遺跡から出土した有茎両翼式銅鏃と遼寧式銅剣の茎を利用した鑿から遼寧式銅剣の問題を取り上げ,たとえ遼寧式銅剣の始まりが周末,春秋初期であったとしても,これらが直接にではなく,その影響を受けて成立した朝鮮半島の遼寧式銅剣が北部九州にもたらされたものと考えるので,前期初頭が紀元前800年頃に遡るとは考えられない。また前期と中期との境が紀元前400年頃にあれば,青銅器の流入についてもこれまでの説明とはちがったものとなるとされた問題については,燕下都辛庄頭30号墓から出土した朝鮮式銅戈,韓国,北部九州出土の細形銅戈との比較からこれらの年代についても取り上げた。
    さらに前期と中期の境を紀元前400年頃とする根拠として使われた年輪年代と考古学的方法から導かれた推定年代との問題点,直接的には今回の炭素14年代とは関係ないが,貨泉を年代決定の根拠として用いることへの危惧について述べた。
    以上のことから結論を言えば,筆者がいままでに作り上げてきた弥生時代の年代論は大筋では間違っていないことを強調しておきたい。
  • 小林 正史, 久世 建二, 北野 博司
    2003 年 10 巻 16 号 p. 45-69
    発行日: 2003/10/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    一連の野焼き実験と土器作り民族誌の比較研究により焼成浪跡の形成過程を解明し、それをもとに弥生土器の黒斑を観察した。その結果、野焼き方法について以下の点が明らかになった。
    1.弥生土器の覆い型野焼きは、(1)主熱源の薪を地面全体に敷かず、土器の周囲のみに並べる、(2)土器の内面に薪を差し入れない、(3)弥生中・後期では側面・上面・接地面付近に薪を置かない、などの点で薪燃料節約型といえる。ただし、弥生早・前期土器やそのルーツである韓国無文土器は、弥生中・後期土器よりも薪燃料を多用する。
    2.薪燃料節約型の覆い型野焼きでは地面側の火回りを良くするために、「横倒しにした時の接地面積が大きい土器ほど、支えなどを用いて立ち気味に置く」という工夫をしている。一方、(1)球胴に近いため横倒しに置いても下側の火回りが十分確保できる土器、(2)台付き土器(高杯を含む)、(3)側面・上面・接地面付近に多くの薪燃料が置かれる土器(弥生早・前期や箱清水式)、では支えを用いず横倒しか「やや立ち気味」に置かれる。
    3.弥生早・前期土器は、弥生中・後期土器に比べて、(1)側面・上面や接地面付近により多くの薪を置く点で薪燃料多用志向である、(2)接地面付近により多くの薪が置かれるため、甕では「横倒し」に置かれる頻度がより高い、(3)甕は口の開きが大きいため、口縁に薪を立て掛ける頻度が低い、という特徴を示す。これらの特徴は韓国の中期無文土器と共通することから、弥生早・前期から中・後期へと弥生土器の独自性が強まるといえる。
    4.弥生時代になると東北地方を除いて開放型から覆い型に野焼き方法が変化した理由として(1)集落立地の変化に伴い薪燃料が貴重になった、(2)彩色手法が「黒色(褐色)化した器面に焼成後赤彩する方法」から「均等で良好な火回りが必要なスリップ赤彩」に変化した、(3)縄文から弥生へと素地の砂含有量が少ない貯蔵用・盛りつけ用土器の比率が増加した、の3点があげられる。これら3点は各々、(1)薪燃料節約型である、(2)イネ科草燃料の覆いのため火回りが均等で良好である、(3)覆いの密閉度(イネ科草燃料の上にかける被覆材の種類と関連)を調整することにより昇温速度と焼成時間を自由にコントロールできる、という弥生土器の覆い型野焼きの特徴と対応している。
  • 北関東の弥生・古墳時代の地域間交流
    友廣 哲也
    2003 年 10 巻 16 号 p. 71-91
    発行日: 2003/10/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    群馬県域の遺跡からは弥生時代終末から古墳時代前期にかけて多数の外来土器が出土する。このため群馬県域における古墳時代の成立は外からのインパクト・圧力によるところが大きいとされている。1952年群馬県太田市石田川改修工事で偶然発見された土師器の中に,当時は出自が分からなかったS字状口縁台付甕が含まれていた。発見当初より群馬県内の土師器は,どこかから分からないが人が土器を持って移動してきたと考えられてきた。その後S字状口縁台付甕が東海に出自を持つことが分かってからは,東海地方の人々が集団で移動してきたとされるようになった。これが現在県内では大多数の支持を受けている入植民説である。そして最初の入植の候補地には,東海様式にいち早く変換したことを理由に,高崎市井野川流域が比定されている。入植民説に従えば東海の人々はなぜ群馬県域を目指したのか,どのくらいの人が来たのか,入植民と在地の人々との軋轢は無かったのか,さらに当時の群馬に住んでいた人々の社会・文化は壊滅・崩壊したのか等々の問題を解決しなければならない。しかし,一方外来土器の出土することを人の移動に連動させないする解釈もある。交易や交流によって様々な地方の土器が行き来した結果と考える解釈である。外来土器が出土する現象は,弥生時代終末期から古墳時代前期に限った特徴では無く,たとえば沖縄の貝が九州や北海道でも確認される事例や,古墳時代後期の土器が他地域で確認される例もあり,時代を限らず交易や交流の存在を指摘されるものも少なくない。したがって筆者は外来土器の出土が即ち人の移動に連動するという理解では無く,交流があったとの視点で理解したいと考えている。群馬県内では弥生時代中期の遺跡から多くの外来土器が出土する。そのような遺跡は低湿地に占地し,水田耕作を開始したと考えられる遺跡である。その中には弥生時代中期から古墳時代へと途切れることなく継続する遺跡も少なくない。そうなれば入植民説では説明できない。そこで筆者は外来土器が出土することは,外来の文化との接触・交流があったとの視点に立ち,再度弥生時代終末から古墳時代前期にかけての遺跡を検討したいと考えている。
    井野川流域には東海からの入植地とされ東海の土器様式を持つとされる多くの遺跡がある。その中で弥生時代中期に始まり古墳時代へと継続した新保遺跡(大量の土器・木器・骨角器を出土している)を取り上げ交流の視点から検討をしたい。
  • 二枚橋式波及期における噴火湾岸の土器様相
    松田 宏介, 青野 友哉
    2003 年 10 巻 16 号 p. 93-110
    発行日: 2003/10/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    礼文華遺跡は北海道南部噴火湾北岸に位置し、続縄文時代前半の恵山文化の貝塚遺跡として著名である。この遺跡は1960年代および1990年代に数次にわたる調査がなされ、土器・石器・骨角器をはじめ動物遺存体・人骨といった考古学・人類学研究にとって貴重な資料を提供してきた。
    しかし、1960年代の調査報告書は刊行されておらず、断片的に資料が紹介されるのみであった。今日の恵山文化の研究においても、本遺跡の資料は恵山文化成立期の噴火湾岸の様相の把握や、広域土器編年の確立という点で、重要な意味を持っている。そのため、礼文華遺跡出土資料を公表し、再検討を加えることは意義のあることと考え、その手始めに出土土器群について資料紹介することとした。
    検討の結果、東北地方北部からの二枚橋式の波及による恵山式の成立後も、在地系統の土器群が構成上一定の割合を占めること、さらには二枚橋式と在地の両系統の要素をあわせ持つ土器群が存在することの2点が明らかになった。そしてそれら相互の編年的関係と、土器群の構成について見通しを提示し、本遺跡における土器群の構成が周辺の遺跡に比べ、やや特異な様相を示す可能性を指摘した。
  • 小笠原 好彦
    2003 年 10 巻 16 号 p. 111-127
    発行日: 2003/10/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    藤原宮は本格的な条坊をもつ最初の古代都城として,また初めて宮城の大垣や殿舎に屋瓦を葺いたことでよく知られる。宮城の大垣や主要な建物に瓦葺するには,短期間に古代寺院の数10倍に及ぶ多量の屋瓦を生産することを必要としたことになる。
    藤原宮から出土した屋瓦は,製作技法と胎土の違いから15グループに分けられており,これらは大和盆地内では,日高山瓦窯,高台・峰寺瓦窯,内山・西田中瓦窯,安養寺瓦窯,また大和盆地外では,近江,讃岐西部の宗吉瓦窯,讃岐東部,淡路の土生寺窯,和泉地域で生産して供給されたことが知られている。これらの屋瓦の生産に伴う製作技術では,大和盆地外では粘土板桶巻き技法,また大和盆地内では粘土紐桶巻き技法が採用され,顕著な違いがあったことも明らかになっている。
    大和盆地外で生産されたもののうち,近江の花摘寺廃寺,国昌寺から出土したものは,それらの位置からみると周辺に須恵器生産地が所在し,しかも藤原宮に水運しうる琵琶湖岸,瀬田川岸にあった国家的な所領(官有地)に瓦窯を設けて屋瓦生産が行われたように推測される。
    また,その他の大和盆地外の讃岐西部の宗吉瓦窯,讃岐東部,淡路の土生寺窯,和泉地域で藤原宮の屋瓦を生産した各地域を検討すると,その屋瓦生産にあたっては,ほぼ近江と同じような条件をもつ国家的所領で造瓦組織を編成し,藤原宮へ水運したものとみなされる。
    一方,大和盆地内の日高山瓦窯,高台・峰寺瓦窯,内山・西田中瓦窯,安養寺瓦窯のうち,日高山瓦窯は藤原宮のすぐ南の丘陵,高台・峰寺瓦窯は飛鳥から少し離れた巨勢路沿いに設けられ,いずれも国家的な所領で屋瓦が生産されたものと想定される。さらに内山・西田中瓦窯は富雄川流域,安養寺瓦窯は竜田川流域に所在した同様の地で生産したものと推測される。
    このように,藤原宮の造営にともなう国家的な屋瓦生産では,大和盆地外の地域では海路を漕運するのに適し,付近に須恵器生産地が近い国家の所領において,大和盆地内は,藤原宮周辺と河川によって水運しうる国家的な官有地に官営工房を設置して量産がはかられたことがわかる。
  • 亀井 明徳
    2003 年 10 巻 16 号 p. 129-155
    発行日: 2003/10/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    本稿は,日本出土の鉛釉陶について,個々の出土品と遺跡の性格,唐三彩陶に関してわが国出土品の特徴,入手経緯とその将来者などについて考察したものである。
    (1)唐代鉛釉陶のわが国出土遺跡数は,2003年1月現在,40個所(内,盛唐以前の三彩陶は35個所),遺構数は52である。
    (2)盛唐以前の三彩陶(唐三彩陶と表記する)は,a.寺院跡・11,b.古墓・祭祀遺跡・3,c.官衙跡・9,d.住居跡・12の各遺跡から検出され,1遺跡1片程度が大部分を占めており,これらは貿易陶瓷ではなく,将来陶瓷であることを示している。
    (3)その器種は限定されており,陶枕・碗(杯)の小型品が多く,三足炉・長頸瓶などの中型品は主に寺院跡から発見されている。この他に,晩唐・五代期の三彩・二彩釉陶の小型品が検出されている。
    (3)唐三彩陶の生産開始時期は,紀年銘共伴資料では670年代であるが,白瓷竜耳瓶など隋代から連続する器種の編年から考えると,遅くとも650年代,おそらくそれを遡上する7世紀第2四半期に出現した可能性がある。
    (4)わが国への唐三彩陶の将来は,7世紀後半に廃棄された遺構が確認できるので,生産開始時期からほど遠くない時期に始まり,遣唐使節構成員によってもたらされた蓋然性がもっとも高い。
    (5)寺院講堂跡付近などから三足炉の出土が多く,長頸瓶・火舎とともに寺の必需品であり,遣唐使関係者によって,意識的に将来されている。大安寺の大量の陶枕も目的的に将来されたものである。
    (6)わが国出土品のうちで多くを占める陶枕・杯などの小型品は,1遺跡1点程度と少なく,唐三彩陶は偶然的・非目的的・単発的な要素が強く,単に「珍奇」・「珍異」な唐物であるにすぎない。
    (7)郡衙など官衙跡の出土は,政庁域の周辺部の居住域からが多く,唐三彩陶が公的な所有物とは考えがたく,農山漁村の住居跡出土品と同様に私的な所有物とおもわれる。
    (8)西国および東国に多い郡衙周辺の竪穴住居跡などの出土品は,水手・射手など,遣唐使節構成員のなかでの下級者が揚州などの市場において,土産物の一つとして購入したものと推測する。
    (9)都城域の出土品については,盤など上層貴族への寄贈品と,小型品は史生・画師・けん従など遣唐使節の下級者の将来と考える。
  • “トビニタイ文化”集落における居住者の出自と世帯構成
    大西 秀之
    2003 年 10 巻 16 号 p. 157-177
    発行日: 2003/10/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    “トビニタイ文化”とは,形質的・遺伝的に系統を異にするオホーツク文化集団と擦文文化集団が,北海道東部地域において接触・融合し形成された文化コンプレックスである。そこでの異系統集団の接触・融合は,単に考古資料のレベルのみならず,まさに個人の遺伝レベルにおいても生起していたことが明らかにされている。しかし,これまで,どれくらいの規模の擦文文化集団が“トビニタイ文化”の集落に入り込み,そこでどのような社会的関係を取り結んでいたのか,という問いに対する十全な回答は提起されてこなかった。
    そのような課題を踏まえ,本稿では,“トビニタイ文化”における異系統集団の多層的な社会関係へのアプローチを試みる。こうした目的の下,本稿では,土器群の組成について検討をおこなった上で,“トビニタイ文化”の住居址の属性分析を加える。まず,土器群の組成からは,時期的・地域的に差異を示しつつも,搬入品や模倣品を含めた“擦文式土器”の割合が増加する反面,土器群に占めるトビニタイ土器の割合が低下し,一次接触地帯では土器群の主体がトビニタイ土器から“擦文式土器”に移行してしまう,という傾向が捉えられる。しかし反面,住居址の属性分析からは,その多くがオホーツク文化の系譜に位置づけられるものであり,また擦文文化的な属性はトビニタイ土器製作集団の側が主体的に受容したものである,という結論が導びかれる。
    以上の結果を是認する限り,“トビニタイ文化”の主要な担い手は,あくまでもオホーツク文化の末裔たるトビニタイ土器製作集団であると想定せざるをえない。さらに,住居址から想定される居住形態に依拠するならば,“トビニタイ文化”の集落における擦文文化集団は,常態として,彼等が単独で世帯を形成することなく,トビニタイ土器製作集団を主体とする世帯のなかに同居していたとの推論が成り立つ。最後に,そうした擦文文化出自の人物の同居は,ひとつの可能性として「婚入」によって生起したという仮説を提起する。
  • 上総国山辺郡に所在する鉢ケ谷遺跡の評価
    青木 幸一
    2003 年 10 巻 16 号 p. 179-198
    発行日: 2003/10/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    古代の上総国山辺郡は,郡の規模では「下郡」に属する。地方においては,この下郡が多くを占めており,郡衙関連の推定地を含めると相当量の調査が行われた。それに対する論考も数多く発表され,考古学に限らず,文献史学からも有効な資料として注目されているといえる。だが「郷」関連と考えられる考古資料に関しては,性格等の位置づけに限界が認められることから十分な研究成果を得ていると言い難い状況である。
    今回,本稿で取り扱う遺跡は周辺の調査実例から,かなり山辺郡内の「郷」レベルの実態を示しうる遣跡と考えられる。とくに掘立柱建物跡の分析から,建物の特徴を少なからず指摘できたと思う。また文献史料との比較から「郷」に別置した「館」,執務優先の官舎,正倉別院をより拡充した「郷正倉院」などの想定を試み検討を行った。さらに出挙の機能である勧農と収奪は「村」に及ぼす影響が大きく,それを概観することで従来の共同体に対する変質が少なからず起こったことがうかがえた。
    郡レベルの支配を受けながらも一般農民層を直接支配し,真に「律令制収奪」機構の末端を担っていたのは「郷長」・「村落首長」あるいは「富豪層」といっても過言ではない。これらは郡レベルの支配者層を上位クランと想定した場合,一般農民層を対象にした下位クランの支配者層でもあろう。やがて9世紀代には,これらの階層が勢力を伸ばし,律令制社会の変質をもたらした主要な要因であろうことが理解された。
  • 2003 年 10 巻 16 号 p. 201
    発行日: 2003年
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
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