住宅営団は,1941年3月に「労務者其ノ他庶民ノ住宅供給ヲ図ル」(住宅営団法第一条)ために設立された特殊法人である.資本金は1億円でその全額が政府出資による公益性の強い企業体であり,1941年度から5か年で30万戸の供給を計画していた. 住宅営団が供給した
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について塩崎らは,戦後の都市化の中で良好な住宅ストックとなり,定住人口増加に寄与するとともに,公共施設や公園整備を促したことなどを評価している(塩崎・中山・矢田2000).また,戦前・戦中期の営団
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は軍需工場の近隣に多く,営団
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の研究は,総力戦体制下の中での地域像を解明するものになろう.さらに,都市形成の歴史地理的な解明としても営団
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の研究は意義を持つものと考えられる. 住宅営団による
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建設・経営の具体的な状況を全国的に把握できる資料として,1943年11月末時点での「一般会計住宅経営状況調書」(以下、「調書」)がある.ただし,営団はこれ以降の戦中も
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を建設し,戦後には戦災復興
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を数多く建設した.これらを含めた全国的動向は不明である. 営団
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の既往研究としては,特定の
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を扱うもののほか,大阪支所管内といった地域を対象に
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の位置や規模を復原・比定するものがある.九州の営団
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については,松尾らの研究がある(松尾・塩崎・堀田2003).ただし,
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19か所の位置を明らかにしたのみで,長崎県内では「調書」記載の5か所中,3か所にとどまる.加えて,営団
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は『新長崎市史』・『佐世保市史』などの地元自治体史でもほとんど取り上げられない.資料に乏しいことがこうした研究の遅れの原因といえるだろう. 本研究では,1941年~1947年の長崎県内で刊行された新聞を可能な限り閲覧し,住宅営団関連記事の収集を行った.合わせて,空中写真や
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図,土地台帳を用い,現地調査を踏まえて,長崎県内における戦前・戦中期の営団
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9か所(表1中の①~⑨,従来知られていなかったもの5か所),営団戦災復興
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4か所(⑪~⑭,同3か所)を明らかにした.
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の位置,規模,残存状況は表1の通りである.住宅営団が供給した
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は,決して優れてはいないが特徴的な市街地として今日の景観に残るとともに,戦後につながるインフラ整備として明瞭なインパクトをもたらしたといえるだろう.
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