1 はじめに
高度経済成長期以降、現在に至るまで一貫して農村人口は減少を続けている。農業・農村の担い手の減少は、地域資源の経営管理の主体の減少や地域生活機能の低下をもたらし、農業のみならず農村の存立基盤を大きく揺るがしている。現在では、「担い手」をいかに確保するかという課題に加えて、その「担い手」が農業と農村とをともに「担う」形で根付くことができるのかという課題に直面している。 営農団地は、農業・農村の担い手を確保するための手段の一つとして、1970年代に系統農協によって構想され、全国に設置された。当初、営農団地は生産から販売までを一貫して行うための仕組みとして期待されていた。これまでの営農団地に関する研究は、パイロット事業の事例評価や構想当時に農協が農業団地を批判したものが主であり、設置した地域との関わりについての研究は少ない。 本研究は、広島県
神石高原町
豊松地区にあるトマト団地を対象にして、団地造成がトマト産地維持にどのように貢献したのかを、団地入植者と地元農家の関係から明らかにする。
2 方法
調査対象は広島県神石郡
神石高原町
豊松地区(旧豊松村)に位置するトマト団地である。豊松地区は、広島県の東端に位置し、人口1361人、面積52.35㎢、総土地面積の80.1%を森林が占める条件不利地域である。主産業は農業であり、県内屈指のトマトとコンニャクの生産地である。 本研究では、2015年9月−11月の間に1週間、トマト団地入植者および地元農家への聞き取り調査を実施した。また、同期間中に団地造成当時の様子を知るため、元村議会議員、農業公社、JA、当時造成に携わった役場職員に対する聞き取り調査と資料収集を行った。
3 結果と考察
豊松地区のトマト産地としての発展過程は主に4つの時期(①1960年代から1970年代初頭にかけて②1970年代後半から1980年代にかけて③1990年代初頭④1994年から現在にかけて)に区分された。豊松地区におけるトマト栽培は1950年代後半に地元農家有志20数名によって開始され、1980年代に産地としての全盛期を迎えている。しかし、1990年代に入ると生産者の高齢化により生産量は衰退した。その衰退に歯止めをかけるために村が打ち出した政策が、団地化構想であった。 団地には現在11名が入植している。団地入植者によるトマト生産量は、町内全体の半分以上を占めており、農業の主要な担い手となっている。 団地入植者の特徴として、Iターン者(新規就農者)と地元農家(トマト栽培経験者)が混在していることが挙げられる。団地内の社会関係においてはあくまでも個人経営者の集まりであることが強調されるが、入植者間では技術や知識を補完し合うことが出来ている。 団地と地元農家との関係をみると、団地造成当初、地元農家からは「団地ばかり優遇を受けている」といった批判的な意見があった。しかし、団地内の技術が向上を始めると、批判的な意見は少なくなった。そして、町内全てのトマト生産者が集う「勉強会」が実施され、団地内の技術が地元農家にも共有された。 以上より、トマト団地は営農のための仕組みとして機能しただけでなく、団地入植者(外部移住者)と地元農家(受け入れ地域)を融合させる「仕掛け」として機能し、その結果として産地維持に貢献したと言える。
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