抄録
1.はじめに
阿蘇山という名の山はなく、阿蘇山とは噴煙を上げる中岳を中心とした中央火口丘から周囲128kmにおよぶ世界最大級のカルデラ(東西約18km、南北25km)と、これをとりまく外輪山全体の総称である。阿蘇地域には壮大な草原生態系が広がることからそこに生息する稀少な草原性動植物のジーンバンクともなっており、昭和9年にはわが国初の国立公園にも選ばれている。合併前の旧阿蘇郡12町村の面積は約1,200平方キロメートル、人口は約8万人であり、主な産業は農林牧畜業と観光業である。
年間およそ2,000万人の観光客を魅了する阿蘇の大草原だが、しかしそれが人間の営みによる二次的生態系だということはあまり知られていない。阿蘇の草原は、阿蘇で畜産農業を営む地元農民とその牛馬たちが、長い年月をかけて阿蘇の自然環境と関わり続けたことにより生成された文化生態系である。それが昨今、牛肉自由化やBSE問題、農畜産業の構造変化などにより、畜産農業のフィールドとしての牧野(草原)の需要が変化し、今後この草原を
維持保全すべきかどうかが大きな社会的問題となっている。これが阿蘇地域における草原問題である。
本論では、阿蘇地域が人間の手が入らない自然ではなく、人間の手が入ったことにより生成された稀少な自然であるという地理的情報を、如何に社会に普及教育することが効果的であり、また可能なのかを、フランスで考案されたエコミュージアム(エコミュゼ)の理論を用いて実践検証することを目的とする。
2.方法と成果
阿蘇地域の草原問題に関する地理的情報を収集保存し、調査研究し、普及教育するためのシステムとして、阿蘇地域全体を博物館とするエコミュージアムを立ち上げ、学芸員をおく。学芸員は地域社会の中で参与観察にあたり、地域の人びとと共に草原を維持管理するための作業(野焼き・放牧・採草)を担いながら調査研究を進め、地域にとって必要な地理的情報の普及教育をはかる。
具体的には博物館法にのっとり、博物館の主要な機能として常設展・企画展・特別展をおく。常設展では、阿蘇地域を訪れる人びとにフィールドで直接案内することにより、阿蘇の草原がおかれている社会的・環境的状況について普及教育する。企画展では、阿蘇の草原に関する企画展示を実施。人形ジオラマを用いた草原物語のストーリー展示を作成し、物産館など公的な場所で公開してその普及をはかる。特別展では、全国から阿蘇地域を訪れる修学旅行生たちに、実際に牛馬を飼育する畜産農家を直接紹介することにより、その交流を通して生きた地理的情報を子どもたちに普及教育すると共に、学校教育と社会教育の融合(いわゆる学社融合)を模索した。いずれも学校教育関係者には好評を得、その効果が期待されたが、なかでも特別展の取り組みはこれを始めた2001年度には岐阜県からの1校のみだったものが、2003年度には7校、2004年度には9校、2005年度には10校、2006年度には12校と年を経るにつれて増加している。また、博物館の活動を応援する友の会会員の数も年々増加傾向にある。
3.考察と課題
本論における問題点を整理すれば、次の2点があげられる。1つは、草原保全という思想そのものの是非に関する議論で、阿蘇地域の草原をこのまま維持保全すべきか否かについて、伝える側の地理学者がその哲学を明確にしなければ如何なる普及教育も効果は望めない。次に、その普及教育の手段としてのエコミュージアムが果たして妥当かどうかの判断がある。日本ではエコミュージアムは博物館ではなく地域づくりの目的として捉えられることが一般的であるため、この看板に固執して社会的環境問題を解決しようとすることは
得策ではないとも感じられた。いずれにせよ、自然および文化の総体に関する地理的情報を今後社会にどう還元していくかは、これからも大きな地理学上の課題であろうと思われる。