抄録
【はじめに】 痛みは国際疼痛学会の定義において「不快な感覚的情動体験である」と述べられるように、明らかな組織損傷がない場合においても主観的な現象として痛みが生ずるとされている。これは脳の可塑的変化によって’’痛みを感じる’’という近年の痛みの神経機構の一連の研究成果によってもたらされたものである。また、Melzackのニューロマトリックス理論やHarris、MaCabeらの報告から「痛みは脳内における知覚運動情報の不一致によって生じる」可能性が示唆されている。本発表では、このような痛みの認知プロセスの改変を試みることにより有効な転機を取った症例について報告する。【方法】 30代女性。階段で転倒し左足関節捻挫を受傷。免荷、装具固定の後に理学療法が開始されるも受傷2ヶ月後に痛みと腫脹が増悪、痺れや異常知覚を認め、左下腿は暗紫色となった。当院紹介されCRPStype1と診断された。初診時、患者の左下腿は暗紫色に腫れ上がり著明な浮腫を認めた。足関節可動域はPF/DF:10°/5°で筋力は疼痛(NRS:8~10)のため測定できなかったが、わずかに運動できる程度であった。患肢の皮膚温は低下し、X線上で骨萎縮を認めた。左足底は意識的に床に接触する事は可能だが「足の裏を剣山で刺されるよう」と記述した。閉眼では下肢について「膝から下がわかりにくく、足首から先はアニマルスリッパをはいたような、すりガラスの向こうにあるような感じがする」「左足が小さい」と記述し、同一肢や対側肢での関節の位置関係を問うと「鉛筆で書いた足の絵を失敗してぐちゃぐちゃに塗りつぶしたような感じでわからない」と記述した。足関節の運動は「太いウィンナーを曲げている様」と記述し、運動軸を認識できず、足底や大腿部では圧の強弱を識別することができなかった。本人の職業上、解剖学的な知識があり運動イメージの生成に有利であり健側である特定の感覚情報をしっかりと記憶させたのち、その情報を患側で予期させると疼痛を一部制御し、適切な感覚情報を知覚する事ができた。患側下肢の捉え方は擬人的で「この子が言う事を聞かない」「いっそ切り落とした方が楽かな」と痛みのある身体に対してマイナスの情動反応を示した。本患者の治療の主軸は痛みの認知プロセスへの介入であり、患側下肢で正しく同種・異種の感覚情報処理を行わせることにより身体帰属感を再構築すること、および患側下肢に抱いているネガティブな価値観を転換させることを中心とした。前者については当初患側に触れることができなかったため、健側下肢での体性感覚情報の知覚を学習する課題から開始した。そして、正しい知覚情報を予期させる課題や、視覚と体性感覚の一致を求める課題から身体帰属感の改善を目指した。また後者については患側下肢の呼称を必ず「左」「こっち」と呼称し「患側」「痛い方」という固定観念を生成しないようにすると共に、左下肢が本人にとってプラスの役割を担っているということを教育する事により価値観の転換を図った。【倫理的配慮、説明と同意】 本人に対して、本報告の趣旨について説明し同意を得た。【結果】 日常生活動作中の疼痛は消失し就業可能となった。歩行スピードが正常化し、階段昇降や本人の希望であった砂浜での歩行も可能となった。過負荷による運動後の不快感が残存している。【考察】 本患者は足関節捻挫による強い急性疼痛と装具固定により足底、足関節からの求心性情報が途絶した結果、身体表象が変質するとともに左大腿~足部から正常な体性感覚情報を構築する事が困難になった。そして患肢の無視症状(neglect-like symptom)を認め患側下肢を自分の体として認識できなかった。これは体性感覚情報処理の異常が上下頭頂小葉での身体帰属感の構築を障害し脳内での情報の不一致が生じたものと考え、耐え難い痛みが生じた要因であると考えた。Moseleyらによると身体帰属感の喪失は皮膚温の低下を生じるとされており先行研究と一致する。かつ、強い痛みと焦りはマイナスの情動反応を惹起し、自己身体を擬人化しストレスを表出したと考える。このような難治性疼痛に対する治療方略として、身体の知覚運動協応を学習によって再構築するSumitaniらのプリズム順応課題やMoseleyらの運動イメージプログラムなどにより有効性が支持されており、本症例においても痛みの認知プロセスの改変が痛みの改善に寄与したと考える。【理学療法学研究としての意義】 痛みの認知プロセスの改変が疼痛を改善させるという先行研究を支持する臨床例であり、難治性疼痛に対する理学療法の介入方法をさらに多様化させる可能性を示している。