抄録
本報告は,沖縄県のとくに宮古・八重山諸島などに残る,1899(明治32)年頃からの「土地整理事業」で整備された地籍図および土地台帳において,1771年の「明和の大津波」などの自然災害のこん跡がどのように記録されているのかを検討するものである.そして多良間島については,これらの地籍図・土地台帳が,「明和の大津波」の浸水域における計画的な集落構成や,「抱護」林と呼ばれる集落・農地周囲の林帯をもつ集落の構造を示していた.さらに,浸水域の土地所有者の多くは,居住地付近の農地に加えて,居住地から遠く離れた丘陵地にも不自然に農地を維持していたことも確認できる.こうした林帯整備については「防風」機能が,不自然な農地所有については,沖縄独自の集落移動の歴史が背景として挙げられることが多いが,こうした集落構造が「明和の大津波」への記憶と対策により築かれた可能性も想定される.