ジェンダー史学
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8 巻
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論文
  • ─「60年代嫁世代」の経験を中心にして─
    秋津 元輝
    2012 年 8 巻 p. 5-20
    発行日: 2012年
    公開日: 2013/11/30
    ジャーナル フリー
    本論の課題は、日本の小経営の典型ともいえる農業経営分野において、第二次大戦後に女性たちがどのような社会的地位を経験してきたかについて、「60年代嫁世代」というコーホートに注目しながら、概説的に振り返ることにある。農村女性についての研究はすでに戦前から存在するが、研究が活気づくのは、1990年代になってからである。そこでは農家女性労働の評価をめぐる経済的議論から出発するとともに、当時勃興してきた農村女性起業にも研究の目が向けられた。農村女性起業に代表される女性の活躍情況をさして、かつて筆者は「犠牲者」と「救世主」という農村女性への表裏一体的評価として表現した。本論の課題はこの表裏一体的情況が生まれ出る前史を探り、より深く理解することでもある。
    「60年代嫁世代」とは、1960年代に農家の若“嫁”であった世代をさし、生年でいうとおおよそ1926年生まれから1945年生まれとなる。この世代は1990年代に農村女性グループ起業を牽引した世代と重なっている。
    戦後の農業労働力に関する統計資料ならびに1960年代前後に実施された2つの生活時間調査を再度検討した結果、「60年代嫁世代」の特徴として、農業労働をまとまった量として担う最後の“嫁”世代であることが明らかとなった。つまり、上の世代からは“嫁”として扱われながらも、農業を離れてしまった下の世代を“嫁”として扱えないという歴史を歩んできた。その板挟みの情況が彼女たちのエネルギーを外部に向かわせて、生活改善グループ活動などで培った同じ境遇の仲間とのつながりと、食品加工における技術蓄積をもとに、1990年代の農村女性起業の興隆を帰結したことを示した。農村女性起業における「犠牲者」と「救世主」という表裏一体性=両面性は、外部に現れた経済的局面だけでなく、それを担った女性たちの個人史的かつ内面的局面においても成り立つのであり、今後の農村女性研究においてこうした両面性に焦点を当てることの意義を示唆した。
  • ─産婆・岩崎直子にみる天皇家と産婆職─
    木村 尚子
    2012 年 8 巻 p. 21-35
    発行日: 2012年
    公開日: 2013/11/30
    ジャーナル フリー
    岩崎直子(1868-1950)は、明治政府による新しい産婆教育のもとで養成された産婆として、はじめて天皇家にかかわった産婆である。彼女は、のちの大正天皇の子四人の出生介助にあたり、これによって産婆界内外で特異な地位を手に入れる。1910年代から1920年代は産婆職の興隆期であり、また正常産に介入する医師との間に競合が増す時期である。本稿は、岩崎という一人の産婆の著述を軸に、産婆が、天皇家とのかかわりを強調することで自らの権威を高めようとする経緯を明らかにする。
    岩崎は、その持ち前の熱意に加え、幼い子どもと夫を相次いで失ったことから産婆職に情熱を傾け、妊産婦に啓蒙を図るほか、産婆団体においても指導的立場に立つ。この時期、衛生行政からの要請と大正デモクラシーを背景に産婆の職能集団が形成され、さらに産婆たち自身が、その職の権益を守り業務の独自性を主張して産師法(産婆法)制定運動と呼ばれる運動を展開しはじめる。岩崎はこの運動において天皇家との関係を精神的支柱とし、さらにそれは、その後の戦時下人口管理体制のもとに産婆・助産婦を集結するにあたり大きな効果を及ぼしていく。
    天皇を「生ましました」産婆・岩崎は、1910年代半ばの新中間層に天皇家の母に象徴される「母性」への関心を「生まし」、また続く1920年代には、天皇を頂点とする国家に「御奉公」する産婆やその職能団体を「生ましました」産婆であった。岩崎にとって産婆職は生計を立てる手段という以上の大きな意味をもち、天皇家に関与したことは彼女の誇りや自信であった。同様の努力、あるいは総体としての産婆職の資質向上を、岩崎が必須と感じたのは無理からぬことであった。岩崎が主導した産婆の運動は男性医師や衛生官僚に対抗する女性の権利確立を目指すものであったが、同時に彼女の主張は、その職を通じて天皇家を支え、そのことによって産婆や妊産婦らに天皇家の存在意義を強く印象づける役割を果たしたのである。
  • ─生活改良普及員のジェンダー規範に着目して─
    岩島 史
    2012 年 8 巻 p. 37-53
    発行日: 2012年
    公開日: 2013/11/30
    ジャーナル フリー
    本稿は、戦後の民主化政策の一環として行われた生活改善普及事業を「農村女性政策」ととらえ、その政策展開の特徴を生活改良普及員のジェンダー規範を通して明らかにすることを目的とする。本稿の課題は、1950~60年代に農林省が発行した生活改良普及員の事例集の分析から、普及員が働きかける対象領域の設定にみられるジェンダー規範と、その領域設定の背後にある女性の役割に対する規範を明らかにすることである。
    事例集において、1950年代に最も多くとりあげられた「問題」は農村の「古さ」や女性の過労であったが、生活改善課題として最もとりくまれたのはかまど・台所改善と料理講習であり、食・台所の領域に偏っていた。これは普及員にとって台所が女性の苦難の象徴であったこと、そして普及員が女性であったために男性優位の農村のジェンダー秩序の中で口を出せる領域が限られていたためと考えられる。1960年代には主婦の労働時間の長さが「問題」とされたが、同時に家事をしないこと、子どもに気を配らないことも「問題」とされた。兼業化の進展によって農村女性は農業生産の主要な担い手となっていたが、普及員は主婦を「家庭管理の責任者」と位置づけた。これは、農業のみならず社会や家族関係の近代化を目標とする基本法農政と、人口学的に女性の「主婦化」が進んでいた時代背景とに起因すると考えられる。
    生活改善普及事業の展開の特徴として、1950年代は家事労働の効率化、無駄の排除、農繁期の生活調整が農林省の設定した目標であるが、女性である普及員を介在することで農村のジェンダー秩序が政策理念を制限した。1960年代には、農林省は健康維持、生活の合理化、育児と家庭教育、家族関係の民主化を改善目標として設定し、個々の農家の範囲を超えて地域社会での生活改善がめざされたが、家庭管理に重点をおく普及員のジェンダー規範によって政策理念は転換されたといえる。
  • ─麗ら舎の〈おなご〉たちのライフストーリーから─
    柳原 恵
    2012 年 8 巻 p. 55-73
    発行日: 2012年
    公開日: 2013/11/30
    ジャーナル フリー
    本稿では岩手に「内発」したリブの存在とその思想の内実について、当事者のライフストーリーを中心として考察する。
    岩手の農村部において性差別への批判的視座を持ち活動してきた人物の一人としてまず、女性達の読書・学習サークル「麗ら舎読書会」を主宰する詩人・小原麗子(1935-)を取り上げ、麗ら舎設立までの経緯をライフストーリーから追う。小原は経済的に自立し、読み書きできる時間と場所を持つことを指す「自活」を目指してきた。小原らの活動の舞台となる麗ら舎は、小原の「自活」が実現できる場として設立された。
    小原と活動を共にしてきた読書会会員・石川純子(1942-2008)は、民主的な家庭の中にあるジェンダー構造を問題化した。岩手は封建的「家」と近代的「家庭」が並存している地域であり、こうした地域性がリブ思想を醸成する契機ともなった。石川と小原は「家」と「近代家族」の連続性を看破し、共通する問題からの解放を模索していった。
    石川は女性の身体とセクシャリティをめぐる問題にも取り組んだ。「孕み」と「お産」を通じて自分を東北の「農婦」であると認識し、疎外された〈女〉の経験と身体性を取り戻そうとする。その思想は、都市部のリブとも通じるが、決定的な差異は取り戻す対象として「東北」という場所性が含まれることである。
    麗ら舎読書会の主軸の一つに、戦没農民兵士とその母を弔う千三忌がある。千三忌は性差別・植民地主義などの複合差別の様相を認識し、それを乗り越えようとする小原の思想を背景として開催されている。
    以上、小原と石川は〈女〉であることを起点とし、民主的「家庭」が内包する抑圧性を批判し、女の身体性と母性を問い直し、複合差別への抵抗を実践してきた。近代が作り上げてきたジェンダー構造を疑問視し、問い直していく彼女らの思索と活動は岩手におけるリブであると評価できる。
研究ノート
  • ─占領下のマスキュリニティーズ─
    内田 雅克
    2012 年 8 巻 p. 75-84
    発行日: 2012年
    公開日: 2013/11/30
    ジャーナル フリー
    アジア・太平洋戦争期、『少年倶楽部』はジェンダー・イデオロギー生産装置として機能し、軍人を男のモデルとして「男らしさ」を連呼し、「少年」をウィークネス・フォビアの包囲網に囲み、そして戦場に送り続けた。やがて敗戦とともに、『少年倶楽部』は、その薄い冊子に平和と希望を語り始めた。だが、その厚さと同様、戦前のあの勢いは全く見られなかった。
    少年には希望や平和・反戦が語られるなか、戦前に野球を愛した男たちは早くも動き出し、GHQの後押しを受けながら次々と野球の復活を実現した。GHQの軍人、日系アメリカ人、プロ野球や学生野球を導く男たちには、それぞれの野球に対する思いがあった。そして野球復活のプロセスのなかで、精神野球のイデオローグ飛田穂洲を中心に、野球少年の美しさ、純情、さらに国家の再建を彼らに託す声が聞こえ始めた。
    やがて少年向けの野球雑誌が誕生し、飛田をはじめ野球に「少年」が学ぶべき「男らしさ」を見出す男たちは、戦い・団結・仇討の精神を、そしてそこに映る至極の少年美を語った。再開した高校野球の球児は、かつて夭折へと導かれた少年兵とその姿を重ねた。少年雑誌が見せたのは、「軍人的男性性」の復活といえよう。戦闘的な「男らしさ」は、一見平和を象徴する野球というスポーツを媒体とし、『野球少年』のような少年雑誌のなかで再びその姿を見せ始めたのだった。
    もちろん、少年雑誌が見せた復古的なマスキュリニティがかつてのヘゲモニックな地位に返り咲いた訳ではない。ジェンダーの境界線が揺さぶられ、決定的な男性モデルが喪失した占領下という時代は、複数のマスキュリニティーズの出現を可能にしていた。歴史的文脈において、それらを読み解いてゆくのが本研究のテーマであり、本稿はその第一章である。
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