ジェンダー史学
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13 巻
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論文
  • ――「戦後民主主義」の限界と可能性に関するジェンダー史的考察――
    千葉 慶
    2017 年 13 巻 p. 5-19
    発行日: 2017/10/20
    公開日: 2018/11/01
    ジャーナル フリー

    現在、「戦後民主主義」は危機に瀕しているが、わたしたちはまだ、「戦後民主主義」とは何なのか、何を受け継いでいくべきかを適切に検討できてはいないのではないか。

    本稿は、以上の問題意識に立ち、「戦後民主主義」表象の中でも、もっとも影響力を持った表象の一つである『青い山脈』を取り上げ、そこに何が「戦後民主主義」の要素として刻まれたのかを抽出し、同作品のリメイクおよび同一作者原作映画の中にその要素がどのように時代を経て、変容を伴いながら受け継がれていったのかを考察することによって、「戦後民主主義」の受容形態の一端を確認し、かつ、今何を「戦後民主主義」の遺産として継承すべきなのかを考える契機とするものである。

    『青い山脈』が、「戦後民主主義」のエッセンスとして描いたのは、第一に「自己決定権の尊重」であり、第二に「対話の精神」「暴力否定」である。前者は、1980年代に至るまで一貫して描かれてきた。他方、後者には1960年代以降、疑義が唱えられるようになり、特に「暴力否定」についてはほぼ描かれることはなくなってしまった。ただ、これをもって「戦後民主主義」が衰退したとすべきではない。この推移は、「対話の精神」を突き詰め、より時代に見合った民主主義の作法を模索した結果ともいえるからである。

    また、ジェンダー史的観点からすると、今回取り上げた作品群には、一様に男性優位、女性劣位のジェンダー構造に固執した表現が目についた。ただし、すべてがこのような限界性に囚われているとするのは早計である。なぜならば、作品群の精査によってそれらの中に、暴力性を拒絶する男性像や、男性優位の構造を内破しようとする女性像の描写を見つけることができたからである。今、わたしたちがすべきことは、「戦後民主主義」を時代遅れのものとして捨て去ることではなく、長い年月の中ではぐくまれてきたその可能性を見出し、受け継いでいくことではないだろうか。

  • 吉良 智子
    2017 年 13 巻 p. 21-36
    発行日: 2017/10/20
    公開日: 2018/11/01
    ジャーナル フリー

    本稿は、1941年太平洋戦争勃発の契機となった日本海軍による真珠湾攻撃によって、沈没したアメリカ戦艦アリゾナを記念する「アリゾナ記念碑」とその付属博物館施設における日本の表象を、シンポジウムの趣旨である日米関係の中の「戦後民主主義再考」という観点から、「平和」と「暴力」のイメージに着目しつつ、歴史的変遷をたどりながら考察を行なった。

    第二次世界大戦終了後、戦艦アリゾナの遺構をめぐるアメリカの世論は必ずしも一致しなかった。しかし、戦没者の慰霊という本来の目的を超えて、ハワイ州の観光産業振興、ベトナム戦争によって失墜した軍の威信回復など、複数の利害関係者による交渉の末、過去の軍事的失敗への戒めとして、アリゾナ記念碑は建立された。

    人気観光スポットとなったアリゾナ記念碑における見学者の待ち時間対策として、後に建設された付属博物館ビジターセンターでは、当初「野蛮な」敵としての日本軍のイメージを打ち出していたが、施設のリニューアル後は日米関係の歴史を世界史的な視点から丹念に追い、以前は敬遠された戦時におけるハワイの日系人男女の表象も取り入れている。特に、これまでは忌避された原爆のイメージの展示として、《原爆の子の像》のモデルである佐々木禎子による折鶴が採用された。本来治癒祈願として制作された禎子の折鶴は、その物語が繰り返し語られるなかで、平和のナラティヴとしての「サダコ・ストーリー」へと転化した。また、アメリカに保護される戦災孤児、無力化された天皇とマッカーサーの会見写真の展示など、徹底した日本の女性化が試みられる。

    アリゾナ記念碑が史上初めての軍事的な失敗による男性性喪失から回復を遂げるアメリカの表象であるのに対し、戦後日本は「平和を願う少女」などの女性化されたメタファーで表象された。あらゆる暴力の否定を前提に日本を「女性化」=「平和化」しなければ、「日本」の展示は不可能だったと考えられる。

    アメリカが、「力による支配」によって維持される「本物の民主主義」を体現する国家であるのに対し、日本は「あらゆる暴力の否定」の上に成立する、「偽物の民主主義国家」であるという日米間のジェンダーポリティクスが立ち現れているといえよう。

  • ――「解放」後の濁酒闘争からみるジェンダー――
    李 杏理
    2017 年 13 巻 p. 37-53
    発行日: 2017/10/20
    公開日: 2018/11/01
    ジャーナル フリー

    本稿は、在日朝鮮人による濁酒闘争について、1930-40年代の史的・政策的背景を踏まえてそのジェンダー要因を探る。

    在日朝鮮人女性の存在形態は、植民地期から6割を超える不就学と9割を超える非識字により底辺の労働にしか就けない条件下にあった。日本の協和会体制下では日常にも帝国権力が入り込み濁酒を含む生活文化が否定された。それでも朝鮮人女性が濁酒を「密造」したという個別の記録があり、小さな抵抗は積み重ねられてきた。

    「解放」を迎えた朝鮮人女性たちは、いち早く女性運動を組織し、ドメスティック・バイオレンスの解決や識字学級、脱皇民化・脱植民地の新たな生を歩み始めた。ようやく自由に朝鮮語や歴史を学び、自分たちが置かれてきた境遇を知ることが可能となった。

    しかし、日本の敗戦と「解放」は在日朝鮮人にとって失職を意味し、恒常的な食糧難と貧困をもたらした。日本の民衆だれもがヤミに関わって生きるなか朝鮮人に対していっそう取り締まりが強化された。

    在日朝鮮人が濁酒をつくる背景には、①朝鮮人の貧窮と生計手段の少なさ、②朝鮮人にとっての酒造文化と植民地「解放」のインパクト、③検察・警察による朝鮮人の標的化、④ジェンダー要因があった。

    在日朝鮮人運動の男性リーダーは、「解放民族として」濁酒をやめるべきだとした。それでも女性たちは濁酒をつくり続け、生きる術とした。女性たちが濁酒闘争の先頭にたち、女性運動団体は交渉現場にともに立った。地域によって警察に謝罪を表明させたり、職場を要求し斡旋の約束を取り付けたりもした。

    濁酒闘争は、植民地「解放」のインパクトの中で、民族差別とジェンダー差別を生み出す旧帝国日本の権力に異議申し立てをし、生活の現実とジェンダー差を明るみにしたという意味で、「脱帝国のフェミニズム」を思考/ 志向する上での重要な参照項となりうる。

  • ――「女子特別衛生」が意味したもの――
    斉藤 利彦
    2017 年 13 巻 p. 55-65
    発行日: 2017/10/20
    公開日: 2018/11/01
    ジャーナル フリー

    近代日本における「衛生」の導入が、国民国家の形成にいかなる役割をはたしたのか、そしてそれがどのように身体への管理に結びついていったのかについては、すでに様々な視点からの研究が蓄積されている。

    ところで、戦前期の高等女学校や女子師範学校で行なわれていた「女子特別衛生」は、これまでの先行研究では全く取りあげられてこなかった。その対象は女学校という発達段階の特性から、特に「月経」に焦点化されていたが、具体的にどのような実態をもち、いかなる背景と論理をもって生み出されたものであったのか。それは、女生徒の身体への管理ととらえられるべきものなのか、あるいは月経時の女生徒の身体への保護を目的とした正当で必要な配慮というべきものなのかが明らかにされなければならない。

    その際、この「女子特別衛生」が、個々の高等女学校で個別的に案出されたものではなく、明治30年代における国家による月経への着目という事態の中で成立したものであったということが重要である。

    本稿では、1900(明治33)年の文部省訓令第六号による月経への取扱方を分析し、それが各地の高等女学校での「特別衛生心得」の制定へと具体化されていった実態を明らかにする。そこに現れていたのは、「良妻賢母主義」の身体的具体化であり、「 衛生」の啓蒙と脅迫的なトーン、そして月経時の過剰な指導であった。

    さらに、1919(大正8)年の文部省による全国調査「月経に関する心得方指導、月経時に於ける生徒の取扱」の検討を行う。そこでは、国家的規模での詳細な月経への調査が実施され、教師による日常的な観察を通して、何が「正常」な月経で、何が「異常」なのかを国家と学校が規定する、いわば他律的な「規格化」が行なわれていたのである。

    はじめに

    近代日本における「衛生」の導入が、国民国家の形成にいかなる役割をはたしたのか、そしてそれがどのように身体への管理に結びついていったのかについては、すでに様々な視点からの研究が蓄積されている。

海外の新潮流
  • ──サハラ以南アフリカの事例──
    富永 智津子
    2017 年 13 巻 p. 79-90
    発行日: 2017/10/20
    公開日: 2018/11/01
    ジャーナル フリー

    サハラ以南のアフリカ地域を対象とした女性史 / ジェンダー史研究は、「女性と開発」という研究領域の広がりの中で1970年代に産声をあげた。経済的に重要な役割を果たしてきた農村女性が注目され、それが引き金となって、無視されてきた歴史の中の女性に光があてられるようになったのである。

    浮上したテーマは、1970年代の「忘れられたヒロインたち」(王母、大商人、霊媒師、解放運動や抵抗運動のリーダーなど)から、1980年代は「下層階級の女性たち」(売春婦、奴隷、家事労働者など)に重心が移行し、1990年代から2000年代初頭には、客体としての女性像から、歴史主体(エージェンシー)としての女性像へのアプローチの転換があった。こうした女性史の再構築の時期を経て、2010年前後には、ジェンダーの視点から植民地時代と独立後の歴史を読み直す作業が展開する一方、HIV / エイズの大流行とも響き合って、同性愛や男性性といった従来の歴史学の対象からは排除されていたテーマが浮上している。もちろん、こうしたテーマやアプローチは、時期的にオーヴァーラップしていることはいうまでもない(バーガー& ホワイト2004)。

    ここでは、以上のような大きな研究史の流れを念頭に、植民地史(近代史)と現代史、およびテーマそのものがジェンダーにかかわる「同性愛」と「男性性」に関する2000 年代以降の文献を中心に紹介しながら、アフリカ女性史 / ジェンダー史研究の新潮流を探ってみたい。

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