ジェンダー史学
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9 巻
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特集
  • 宋 連玉
    2013 年 9 巻 p. 5-22
    発行日: 2013年
    公開日: 2015/12/29
    ジャーナル フリー
     朴正煕独裁体制の崩壊には70年代の女性労働者の闘いが大きな役割を果たした。1980年代には70年代の民主化運動の潮流を受けて、知識人を中心とした女性運動が幅広く展開され、民主化運動の一翼を担った。
     1987年の民主化宣言と同時に、女性諸団体を統括する韓国女性団体連合が結成され、男女雇用平等法の実現にこぎつけた。
     1990年代に入るとさらに制度的民主主義が進捗、ジェンダー政策においても、北京の世界女性会議の精神を受け継ぎ、性差別撤廃のシステム作りを推進した。
     1987年に民主的な憲法が採択され、5年ごとの直接大統領選挙が決まると、女性たちは大統領選挙を活用して、候補者に女性政策を選挙公約に掲げるように圧力を加えた。
     それが功を奏し、金泳三政権(1993~1997)では女性発展基本法の制定、金大中政権(1998~2002)では女性政策を主管する女性部が創設され、第1代、第2代長官に女性運動のアクティビストが抜擢された。また2000年には女性議員数のクォーター制が導入され、5.9%から2012年には15.7%にまで女性議員比率が伸びた。同じく女性公務員もクォーター制導入により飛躍的に伸びた。
     1962年から展開されてきた家族法改正運動も民主化以後に大幅改正され、2005年には遂に戸主制撤廃にこぎつけた。女性の再婚禁止期間の廃止など、日本の家族法より先行する内容も盛り込まれた。
     2004年には性売買に関連する二法が制定され、性売買が不法であるという認識を確立した。
     ジェンダー主流化のための制度的保障はある程度なされたが、残された課題も多い。IMF経済危機を克服するために進めた構造改革は結果的に貧富の格差を大きくし、とりわけ女性間の格差を拡大し、非正規雇用の女性たちに負担を強いている。
     また、南北分断による徴兵制の維持が、性差別是正の妨げとなっている。兵役義務を果たした男性に公務員試験受験で加算点を与える制度は1991年に廃止されたが、保守政権のもとで再びこれを復活する動きがある。
  • 土佐 桂子
    2013 年 9 巻 p. 23-38
    発行日: 2013年
    公開日: 2015/12/29
    ジャーナル フリー
     本稿は、ミャンマーの民主化運動を1988年の民主化運動勃発から現在に至るまで続く民主化プロセスととらえ、この一連のプロセスを、ジェンダー視点からとらえなおすことが目的である。民主化運動勃発時期には、まず一党独裁政権をいかに止めるか、民主主義をいかに育てていくかに重点が置かれ、特にジェンダーに関する議論は生じていない。ただし、ジェンダー視点が重要でないわけでなく、軍事政権時代に入り政府はミャンマー母子福祉協会、ミャンマー国家女性問題委員会等の女性組織を作り、重職に軍人の妻たちを配置した。これはアウンサンスーチーをはじめ国民民主連盟(NLD)らの女性動員力を意識し、その取り込みが図られていたことを示す。一方、NLDはスーチーの自宅軟禁や党員の逮捕など厳しい弾圧のなかで、情報発信や影響力は限られたものとなりがちであった。これを補っていたのが、亡命した民主化運動家、元学生たちが海外で作った女性団体と考えられる。彼らは出稼ぎや国内から逃れてきた女性を支援しつつ、国際社会と国内に情報と見解を発信してきた。2000年代に入ると、こうしたディアスポラによる外部団体や国際NGOとの連携で、ススヌェという村落女性が政府関係者を告訴し、政府への法的な抵抗が行われた。また、国内でも仏教を核とする福祉協会など、草の根レベルからのNGOや緩やかなネットワークが形成され、軍事政権下で手薄になったとされる福祉政策、特に女性、子供、貧困者や災害被害者等弱者支援を補完したと考えられる。一方、テインセイン大統領に率いられる現政権は次々に改革を行い、検閲制度が撤廃され、言論の自由も相当確保された。また、補欠選挙にNLDが参加し、アウンサンスーチーをはじめ女性議員が増加し、女性閣僚も誕生した。今後、スーチーが参加の意向を示す次期大統領選の行方はジェンダーという観点から極めて重要である。また、前掲草の根レベルのネットワークやディアスポラによる女性団体の活動を、今後国内のジェンダー政策がどれほど組み込めるかも課題となろう。
論文
  • ──上毛野滋子を素材として──
    伊集院 葉子
    2013 年 9 巻 p. 39-51
    発行日: 2013年
    公開日: 2015/12/29
    ジャーナル フリー
     日本の律令女官制度は、男女ともに王権への仕奉(奉仕)を担った律令制以前(7世紀以前)の遺制を踏襲し、天皇の意思伝達・政務運営・日常生活への奉仕を中心的な役割として出発した。しかし、平安初期の9世紀には、律令女官制度は大きな変容を遂げた。氏を基盤とし、男女ともに仕奉するべきだという理念を根幹に据えた女性の出仕形態が失われ、国政に関わる職掌を男官に取って代わられるとともに、皇后を頂点とする後宮制度の確立によって、天皇に奉仕する存在から後宮の階層性のなかに位置づけられる存在へと変化していったのである。
     この律令女官の後退の時期に出現するのが、「女房」である。女房は、天皇に仕える「上の女房」、貴族の家に仕える「家の女房」、后妃に仕える「キサキの女房」があるが、このうち「キサキの女房」の出現は、9世紀の後宮の確立にともなうキサキの内裏居住と不可分のものであった。
     キサキの女房は、本来はキサキに仕える私的存在にすぎない。ところが、キサキが后位にのぼり、後宮のトップの地位を獲得すると、仕える女性たちの地位にも変化が生まれた。女官として公的存在に転化するのである。文徳朝における天皇と母后・藤原順子の「同居」に続き、初の幼帝・清和天皇(在位858-876)の即位によって天皇と母后・藤原明子の内裏内居住が実現し、それをテコにした皇太后の後宮支配が確立した清和朝には、母后の「家人」であった上毛野朝臣滋子が後宮に進出し、最終的には典侍正三位にまで昇った。幼帝即位による皇太后の「皇権代行権能」の発揮が、母后の私的使用人であったキサキの女房を「公的存在」に転化させる契機となったのである。
     上毛野滋子を素材に、キサキの女房が女官という公的存在に転化する具体例を検討し、女性の出仕が、氏を基盤とするあり方から、権門勢家とのつながりに依拠する形態へと変容していく転換点を考察するのが、本稿の目的である。
  • ──アマチュアとジェンダーの関係からみる20世紀初頭イギリス音楽界の一断面──
    西阪 多恵子
    2013 年 9 巻 p. 53-66
    発行日: 2013年
    公開日: 2015/12/29
    ジャーナル フリー
     本稿は、女性音楽家の相互協力を主目的として1911年に設立されたイギリスの女性音楽家協会(The Society of Women Musicians)と、その男性準会員であり、イギリス室内楽の振興に努めたアマチュア音楽家W.W.コベット(Walter Willson Cobbett, 1847-1937)との協働を中心とする関わりを、アマチュアとジェンダーの関係を軸に考察するものである。
     18世紀以降、音楽家がプロとしての社会的地位を獲得するにつれ、アマチュアの音楽は中流上層階級の女性の嗜みとみなされるようになった。アマチュアが女性及び女性性と結びつけられ、プロに劣るとされる中で、女性音楽家協会ではアマチュアとプロが区別なく活動しつつ、会員のプロ意識と社会的認知の高揚が図られた。一方コベットはプロの音楽界に関わりつつ、アマチュアの視点を主張し続けた。両者が協働した室内楽というジャンルは、比較的ジェンダー中立的でアマチュアとプロとの交流の機会が多い。協働による二つの事業、すなわちイギリス室内楽の楽譜ライブラリーと四重奏の演奏コンテストは、アマチュアや一般音楽愛好家を主眼としながら、プロの音楽家にとっても有意義なものであった。
     パトロンとしてのコベットが特定の音楽家ではなく無名のアマチュアを含む諸組織に目を向けたことは、女性音楽家に対する支援にがった。また、コベットと同協会の個々の会員との協働は、女性の活動への注目を通じて、大作曲家作品に集中しがちな男性・プロ中心の音楽界に視野の拡大を促した。一方、女性音楽家協会は男性に対して終始開かれた姿勢をとった。とくに作曲への関心は同協会、コベット及び男性・プロ中心の音楽界を結ぶ接点となった。女性音楽家協会とコベットとの関わりは、アマチュアと女性及び女性性、プロと男性性、という結びつきを相対化し、音楽界をアマチュア、プロ、女性、男性を含む全体として捉える視座を高めたといえよう。
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