人文地理学会大会 研究発表要旨
2004年 人文地理学会大会 研究発表要旨
選択された号の論文の53件中51~53を表示しています
  • 京都・鴨川の「寛文新堤」を例に
    吉越 昭久
    セッションID: P03
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    寛文10(1670)年に、京都の鴨川に建設された「寛文新堤」は、一部が石積、一部が土積になった鴨川では初の本格的な堤防であった。しかし、この建設以降も、洪水が多発して、洪水防御に関しては効果を発揮しなかった。 この原因として、気候変化の他に、「寛文新堤」がもつ規模・機能と、それ以降に引き起こされた諸変化があると考える。具体的には、川幅を狭めたために、河川水の疎通能力が落ち、さらに土砂の堆積が著しく進んだ。また、新しく形成された堤内地に遊興的な性格をもった新地ができ、被害を受ける対象が増加したこともその原因であると考える。
  • 幕末から明治中期の伯耆国日野川流域の事例
    徳安 浩明
    セッションID: P04
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    タタラ製鉄の核心地域であった近世_から_近代の中国地方では、砂鉄採取法である鉄穴流しを一因とする水害がしばしば発生した。そのため、濁水紛争とよばれる鉱害にともなう相論も繰り返し起こった。 本発表では、鉄穴流しの稼業状況と水害の実態を把握した上で、流域住人の対応とその変容を検討した。具体的には、鳥取県日野川流域を事例として、近世末期と明治中期の水害を軸として、水害発生の社会的側面としての鉄穴流しと河床変動、各種治水対策とその費用負担、為政者や流域住人のさまざまな対応などについて検討した。 その結果、藩政期には、藩主導による堤川除普請と鉄穴流しの稼業制限、日野郡の負担による川浚えなどが実施されていた。しかし、明治期には、主だった治水事業の進展を確認できなくなる。そのような中、1886年の水害後に米子町治水会が成立し、内務省への鉄穴流し停止の請願を実現させたことなどが明らかになった。
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    小林 茂, 渡辺 理絵, 鳴海 邦匡
    セッションID: P12
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/11/12
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    旧日本軍が第2次世界大戦終了時までアジア太平洋地域で作製した「外邦図」のなかには、空中写真によって作製されたものがかなり含まれ、その多くは「空中写真要図」と称されている。本発表は、こうした空中写真へのアプローチにむけて東北大学・京都大学・大阪大学の「外邦図」所蔵目録および国土交通省国土地理院所蔵の『国外地図目録』、『国外地図一覧図』を利用して、空中写真によって作られたことが明らかな図群のリストを作製し、その図示範囲を検討する。  上記所蔵機関の各目録と空中写真要図群の関係をみてみると、ひとつの地図群が複数の目録に記載されている場合はむしろ少ない。京大や阪大が所蔵する図で、『国外地図目録』、『国外地図一覧図』に記載がない場合もある。さらにセット関係にある『国外地図目録』と『国外地図一覧図』の記載内容が一致しないと考えられる例もあり、現物との対比が求められる。 つぎに縮尺をみると、2.5万分の1から5万分の1が多く、空中写真から作製された図は、比較的大縮尺の図である。作製時期は第2次世界大戦中がほとんどであるが、それ以前のものもみとめられる。空中写真による外邦図の作製の開始は、1928年の山東出兵にともなう膠濟鉄道沿線の2.5万分の1と言われ、本目録でもこのことが明確である。第2次大戦(太平洋戦争)開始までの空中写真による地図作製は、中国地域を主体とするが、開始後は東南アジア・太平洋地域に大きく展開する。ただし旧オランダ領東インド(現インドネシア)主要部のように既成図が存在する場合にはこれを入手し、一部改変して印刷しており、空中写真による地図作製はそうした地域以外で広くおこなわれた。 今後はお茶の水女子大所蔵外邦図目録の完成を待ってさらに目録を整備するとともに、満州航空による空中写真撮影なども視野にいれていきたい。
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