人文地理学会大会 研究発表要旨
2006年 人文地理学会大会
選択された号の論文の32件中1~32を表示しています
  • 塚本 章宏, 磯田 弦, 小阪 佳宏, 矢野 桂司, 田中 覚
    セッションID: 102
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    _I_.はじめに 本研究は,京都全域の3次元都市モデルの近世バージョンの作成過程について報告する.近世京都の町並みを3次元で再現するために用いた,史料・地図データの整備とGISデータ化,3次元化の工程を述べる.これにより得られた成果と知見は,絵画史料から得られる情報をGISで管理し,3次元都市モデルを生成するためのパイロットモデルとして役立つと考えられる.そして,近世京都の町並みを考察する際に,これまでの研究では得られなかった視角を提示できると考え,絵画史料の2次元空間と再現された3次元空間との比較も試みた. _II_.2次元情報の整理:GISデータ化への手順 (1)空間基盤の作成 GISを用いて史料を管理・分析するためには,空間基盤を作成する必要がある.そこで,江戸幕府の京都御大工頭の中井家が作成した『寛永後萬治前洛中絵図(以下,洛中絵図)』(京都大学附属図書館所蔵)を用いて空間基盤を整備した. (2)絵画史料の分析と利用  近世初期の京都の町並みに関する情報を得るために,室町時代から江戸時代にかけて描かれた,「洛中洛外図」の作品群のひとつである『紙本金地著色洛中洛外図六曲屏風』(林原美術館所蔵,以下,池田本)を用いた.  洛中洛外図に描かれている町家で判読が可能なものは236軒あった.そのうち、6割以上が二階建の町家であることは注目すべき点である. _III_.3次元モデルの作成:2次元から3次元へ (1)建物 京都の市街地のほとんどを京町家が占めている.洛中絵図中の町地には 「3次元モデル自動生成プログラム」を用いて,町家を配置した.このプログラムは,GISデータから京町家を自動生成するものである. (2)門と塀 「3次元モデル自動生成プログラム」を応用して,GISデータから得た,屋敷地や神社仏閣などの地割りデータをもとに, 門や塀のモデルを自動で配置できるプログラムを作成した. (3)樹木と人物 臨場感を与えるために,樹木と人物を作成・配置した.樹木は,GISで敷地データの内側にポイントデータをランダムで発生させて,そのポイントデータの位置情報をもとに自動的に樹木のモデルが作成されるようにした. 人物は,洛中洛外図の人物の画像を切り取り,ビルボードのように作成したモデルにテクスチャを貼り付けた.そして,四条通りにランダムで配置した.また,山鉾を配置して,当時の祇園祭を再現した. (4)ランドマーク 御所や二条城などの当時の京都において,特別な意味を持っている建物に関しては,詳細に作りこんだモデルを配置した.とくに二条城には,現在では消失している天守閣を中井家の設計図をもとに再現した. _IV_.3次元でみる近世京都の町並み  一対の屏風に描かれた洛中洛外図では、左双に二条城、右双に御所を配置するのが定型となっており、武家と公家という二つの政治勢力を対峙させる、芸術的視点とも解釈できる。しかし、当時の京都を正確に描いた洛中絵図でも、実際に洛中の南西部に武家が、北東部に公家が分布していることが読み取れ、洛中洛外図の描かれ方は当時の都市構造を如実に映し出していることがわかる。 ここで,3次元で復原された京都に目を移すと,京都には低層の建物が多く,非常に統一感が取れた町並みであることがわかる.しかし,二条城や御所は、洛中洛外図に描かれているほどには,大きくないことがわかる.天守閣は,歩行者の目線で見える位置が限られており,町家の屋根に登らないと見ることは困難である.しかし,高層建築物が少ないこの時代の京都においては,洛中洛外図に描かれているような大きさは,当時の人々の心へのインパクトの大きさを反映していると解釈することもできる。 _V_.おわりに 本研究は, GISデータを用いて,絵画史料から情報や材料を整理し,過去の町並み景観を復原する作成過程を報告した.本研究で再現した歴史時代の街並み景観の特徴は,現存する歴史資料に裏付けられたGISデータをもとに作成されている点である.もちろん、データが存在しない部分に関しては、他の時代のデータや、絵画史料から得られる想像力をもって補完する必要がある。本研究で確立した作成手順の利点は、一定の仮説のもとで3次元都市を作成でき、その仮説を可視化できることにある.
  • -「中国」や日本の地図作成を手がかりとして-
    林 春吟
    セッションID: 105
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
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     本報告では、清朝から戦前までの中国や戦後の台湾における中華民国、そして日本の作成した地図の分析を通して、台湾における国境の形成過程を明らかにすることを目的とするものである。
     清朝までに作成された中国の地図の外縁部は実線で表現されることはなく、主に山岳や地名の羅列によって区画され、漠然とした広がりをもつ辺境として図示されていた。また、ほぼ同時代に作成された複数の地図を見てみると、琉球や日本、朝鮮などが辺境として描かれる場合もあれば、そうでない場合もあることがわかる。中国の伝統的な地図が明確な国境をもたなかった要因として、次の2点が挙げられる。第一に、近代的な測量技術が定着しなかったこと、第二に、伝統的な華夷思想に基づく中国の「彊域」・「版図」という領域範囲は、「華」による「夷」の教化によってその境界を限りなく膨張させていく文明圏の広がりとしてイメージされたものであることである。
     清朝初期にフランスイエズス会士を中心とする清朝全域の測量が行われ、その成果に基づいて作成された「皇輿全覧図」の類(康煕図)が中国最初の科学的地図と称される。また、ネルチンスク条約に始まる一連の対ロシア条約で、ロシアとの国境線が画定されていた。しかし、後に作成された地図を検討してみると、清朝初期に西洋から伝来した近代測量技術や、ロシアとの条約で学んだ国境概念を清朝は受け入れていなかったことがわかる。それに対して、船越昭生は日本が「皇輿全覧図」の類(康煕図)の写本を受け入れたことに、地図や地理学における従来のような中国を模範とする姿勢から直接西洋に学ぼうとする姿勢への転換を見ている。
     明治維新以降、日本は近代地図の作成や国境の画定、主権の確立に積極的に取り組んでいった。1874年の台湾事件以降、日本による地図によって台湾西部における清朝の国境線が初めて明示された。その一方で、事件後、清朝は台湾全島の正確な輪郭を清朝の地図に描くようになった。しかし、清朝全土の外縁部は未だに実線で囲まれておらず、国境は表示されていない。
     日清戦争の下関条約によって台湾における日本と清朝の国境が画定され、台湾は大日本帝国の国境の中に組み込まれることとなった。そこから台湾全土における台湾総督府による近代国家の中央集権的支配体制が成立された。一方、日清戦争後、清朝は積極的に日本の技術を取り入れ、1905年以後初めて実線で囲まれた清朝全体の国境が地図に明示された。
     1911年中華民国が成立した。しかし当時の中華民国が主張した国境は、東南アジアや中央アジアの国々などをも含み、1905年以後の清朝や戦後国民党が台湾で主張する中華民国の国境よりも広大なものであった。この中華民国の国境には、国恥とされる「失われた疆域」が含まれており、かつての中華思想に基づく孫文の「王道文化論」が投影されている。これに対して、戦前の日本の中国近代史の権威である京都大学教授矢野仁一は「支那無国境論」を主張した。1930年代に日本が刊行した中国の地図の中には、中国全土を分割した権力乱立の状況が表されている。
     第2次世界大戦後、日本は台湾における主権を喪失した。それ以降、国民党政権は日本が残した支配体制を継承し、台湾とその周囲の島々を含む実質な国境を持つようになった一方で、かつての中華思想に基づいた中華民国の国境を主張している。この中華民国の地図は、戦後から60年間にわたって、現在でも台湾で「中国」というアイデンティティを創出することに貢献しているのである。
  • 有薗 正一郎
    セッションID: 112
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
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    近世に「地域に根ざした農書」を著作した人々が、言及する地域の自然環境をどのように位置付けていたかについて、「環境を意味する用語」「環境は所与のものか」「耕作に適する日の設定法」の3つの指標を設定して、地域差と地域性を見分けつつ、考察した結果を発表する。
  • しなの鉄道を事例として
    山本 匡毅
    セッションID: 201
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
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    第三セクター鉄道は,地域公共交通の維持・発展を目的として作られた制度である.この第三セクター鉄道という方式は,臨海鉄道などの貨物輸送を除けば,初めに岩手県にある三陸鉄道に導入され,赤字ローカル線の黒字経営を実現した.それによって第三セクター鉄道が評価されこととなった. ところがポストバブル期には第三セクター鉄道の経営に厳しさを増した.その結果,鉄道経営における第三セクター方式への疑問も出されたが,整備新幹線の建設に伴う並行在来線の維持のために第三セクター方式が活用されることとなり,このたび再び見直されることになった. 本発表では,長野新幹線の開業によって開業したしなの鉄道を事例としながら並行在来線の第三セクター化を取り上げ,地域社会の持続的発展における影響について考察していくことにする.
  • 中村 努
    セッションID: 204
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
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     はじめに
    戦後、メーカーの系列下で配送業務のみを担当していた医薬品卸は、1992年に仕切価制度が導入されて以来、自ら価格設定を行う必要に迫られた。また同年、薬価算定基準が改定されたことによって、薬価差が縮小している。
     一方、医薬品流通の川上に位置し、新薬の研究開発費を捻出したい製薬企業は、医薬品に高い仕切価を設定しようとする。他方、川下に位置する医療機関や薬局も、診療報酬における包括支払い制度の導入や、医薬分業の進展によって、医薬品へのコスト意識が高まっており、値引きと高頻度の配送を要請している。
     医薬品卸は1990年代後半以降、合併再編や淘汰、業務提携を繰り返して4グループに集約されつつある。さらに、製薬企業の物流代行や医療機関の在庫管理など、従来の配送業務にとどまらない情報サービスを提供することで、顧客との取引を維持、拡大しようとしている。
     本発表では、再編が進む医薬品卸売業の経営戦略と新たな情報サービス機能の実態を把握して、医薬品卸が日本の医薬品流通において果たす役割を検証する。

     4大卸グループによる全国ネットワークの形成
     まず、連結売上高における規模の大きい順に、各医薬品卸グループの経営戦略の特徴を整理する(第1表)。
     連結売上高1位のA社は、2005年4月に日用品卸と合併したことによって、医薬品に加えて、化粧品や日用品を一括して納入できる配送体制を構築した。商圏は子会社を中心とした沖縄を除く地域となっている。また同社は、商社と提携して院内物品管理(SPD)の共同事業を進めるとともに、中国への進出も検討している。
     B社は2005年10月、北海道と九州地方以外の販路を確立した。2005年4月以降、女性配送員による多頻度配送を実施して、保険薬局に対する市場シェアを高めている。さらに情報提供会社による医療機関に対する情報提供、医療材料の仕入れ集中化によるSPDの強化、医薬品製造子会社を活用した医薬品の開発、製造などを行っている。
     C社は2005年10月、九州4県を商圏とする医薬品卸と業務提携を締結したことによって、その商圏は全国をカバーするにいたった。同社は医薬品製造子会社と医療機器製造子会社を活用して、医療関連製品の開発、販売している。
     D社は地方の医薬品卸と提携するグループを、複数形成している。具体的な共同事業を実施していないグループの商圏を除くと、D社の商圏は滋賀、京都、和歌山、沖縄以外の43都道府県である。同社の特徴は、顧客への付加価値を高めるための情報サービス機能を強化していることである。保険薬局や病院、診療所向けの医薬品の発注端末、保険薬局向けの分割販売や在庫処理システム、病院、診療所向けの診療自動予約システムや処方せん送信システムを、それぞれ自社開発したうえで有償で提供している(第1図)。さらに、医療材料を扱う商社と提携することで、SPDを強化している。
     このように、医薬品卸4社はいずれも、他の医薬品卸との合併や提携を通じて、全国的な営業網を形成している。また、医薬品市場におけるシェアの大幅な拡大が見込めない中で、他分野への事業に商社など他業種と連携して取り組んでいる。しかし、医薬品卸の経営戦略によって、強化しようとするサービスの内容には違いがみられる。

     D社による情報サービス機能の強化
     D社は4グループのうち、顧客支援のためのサービスにもっとも積極的に取り組んでいる医薬品卸である。同社は、不採算品目の除外を含めた価格改定交渉を進めて取引の正常化を図るとともに、顧客支援システムの導入を拡大している。特に同社の保険薬局向けの有料会員システムは、1998年9月に販売を開始して以来、導入先件数を2006年3月現在で9,800件まで拡大しており、その中心となる分割販売サービスを黒字化した。
     しかし、病院向け在庫管理システムの導入先は地域の中核病院である国公立の病床数200床以上の大病院に多い一方、中小病院や診療所向けの販路は少ない。その理由として、大規模病院は情報システム投資余力が大きいうえに、取扱品目数が多いために在庫コスト削減の効果が大きいことが考えられる。

     医薬品卸が採りうる経営戦略の方向性
     今後、日本の医薬品卸が採りうるビジネスモデルは、1) 欧米の卸が採用する物流特化型、2) 顧客の付加価値を高めるために情報を加工する情報サービス型の2タイプがあろう。医薬品卸は医薬品の配送業務のみでは利益を拡大しにいことから、後者で利益を確保するため、営業マンの削減と情報化投資を並行して進めている。医薬品卸はこのビジネスモデルを確立するため、営業マンを育成すると同時に、システム開発コストを適正な価格に反映させ、医療機関や薬局が有償サービスを付加価値として認識させる必要があろう。
  • 広告メディアミックスの空間的重層性に着目して
    近藤 暁夫
    セッションID: 206
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
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     これまで地理学では企業およびその空間的拠点である事業所が各媒体の広告をどのような範囲に展開させ、取引の成立を促しているかについて広範な検討はされていない。事業所が立地したのち、立地した土地に定着していくプロセスを把握するためには、そこに介在する事業所側からの周囲に働きかける活動を検討する必要があろう。そこで、本報告では中京大都市圏の事業所を例として、事業所による広告活動が、どのような空間的な広がりをもってなされるのかを示したい。  使用するデータは中京大都市圏西部において屋外広告の掲出が確認された事業所4,000件に対して行なった広告活動のアンケート調査である。回収数260件(第1図)。媒体ごとの年間広告費・広告出稿数・広告内容・広告に期待する効果・広告の空間的な到達範囲について尋ねている。回答者の業種は医療関係が最も多く、次いで買回り品の小売店、製造業である。  それぞれの広告媒体には、媒体特有の活用法と空間的な到達範囲・投入範囲が存在する。単独で事業所が目指す取引の成立に十分な効果をもたらす広告媒体はないと考えてよい。事業所としては、これらの媒体を使い分け、また組み合わせて総体としての広告プロモーションを行ない、取引の成立を促すことになる。  事業所の広告活動は、以下のように展開される。事業所にとり、広告の達成目標は、基本的に顧客が事業所に到達し、取引が成立することである。そのため、広告は、事業所の存在、事業内容、位置を顧客に周知してもらい、事業所までの到達を促すために出される。アンケート結果をもとにモデル化すると、事業所による広告展開は以下のように4段階の重層性をもってなされる(第3図)。  第1段階:自分自身についての広告展開――事業所を中心に東海エリアの範囲にテレビまたはラジオ広告を展開。事業所(企業)の存在の広範な認知と、事業所への好感形成を目的としている。広告は事業所名など、存在自体のPRに重点が置かれ、受け手の情緒面に訴える内容が多い。年間広告費は140万円前後である。  第2段階:自身の内容についての広告展開――近隣市町村~県内には、新聞・雑誌広告を展開する。これは、事業所の存在認知に加え、事業所の業務内容や商品についての知識形成を狙い、第1段階に比して説得的・説明的な内容の広告となる。年間広告費は10~50万円程度である。  第3段階:自身の特徴および変化についての広告展開――隣接市町村~事業所の属する市町村には、チラシ広告を展開させ、イベント情報などの時事的情報を集中的に投入し、より具体的・日常的な情報伝達と来店を促す。年間広告費は約50万円である。  第4段階:自身の位置とアクセスについての広告展開――最終的な来店を促すため、事業所の位置の提示と誘導を目的に屋外広告を展開させる。最も事業所からの広告到達範囲が狭く、事業所から5km程度の範囲に収まる。最も多く広告が掲出されるのは事業所から約800mの位置である。年間広告費は約20万円。  事業所の広告展開は、遠距離においてはイメージ構築を重視した広く浅い宣伝であり、近距離になるほど具体的・説得的な情報を織り交ぜ、質量ともに集中的に情報を投入する。以上の粗放的-集約的な各段階の空間的な重層性を有する広告展開によって事業所について周知を図り、取引の成立を促す。  なお、事業所の活動内容によって、必要となる広告展開の程度は異なる。このため、すべての広告主が上記の段階すべてを踏まえるわけではなく、回答者の9割は第1段階の広告展開を、4割は第2段階目までの広告展開を行なっていない。業種ごとの広告展開の傾向でいえば、製造業は紙媒体を中心とした広範だが薄い宣伝、買回り品小売店は広告の展開範囲を絞ってきめの細かい広告投入を行なう。広範かつ多様に広告を展開させるのは不動産業、観光産業であり、最寄品小売店は広告展開に積極的でない。
  • 磯部 作
    セッションID: 207
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
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    近年、「水産業・漁村の多面的機能」が重視され、「交流などの『場』」を利用した体験漁業などが行われている。「水産業・漁村の多面的機能」とは、食糧資源供給に加え、自然環境保全、地域社会形成維持、居住や交流の「場」の提供する役割などがある。漁村は水産業が基本であるが、他産業も存在していることなどのため、「漁村地域」として捉え、その多面的機能も地域性を踏まえることが重要である。  水産業・漁村地域体験は、多面的機能の「交流などの『場』」を利用して、食糧資源供給や、自然環境保全、地域社会形成維持などの役割を体験することであり、それらを有機的に結合することが重要である。  2003年調査の第11次漁業センサスによると、全国の全漁業地区2,177のうち漁業体験が行われた漁業地区は31.2%であり、漁村体験が行われたのは8.0%である。それを都道府県別にみると、千葉県や和歌山県などの大都市周辺や、九州・沖縄などが多い。また、漁業・漁村体験の実施主体は漁協や市町村が多い。  沖縄県は全国でも有数の漁業・漁村体験が行われている。漁業地区でみても、沖縄本島中部の読谷村と恩納村が全国12位にランクされており、沖縄県内各地で水産業・漁村地域体験が行われていて、行政も水産業・漁村地域体験を推進している。沖縄県では、地域の漁業や伝統漁法を活かすとともに、亜熱帯の気候や、サンゴ礁やマングローブなど、地域の環境を活かした水産業・漁村地域体験が行われている。東シナ海に面していて沿岸海域にはサンゴ礁がある読谷村では、水産業・漁村地域体験として、役場と漁協などにより、漁業の中心である大型定置網、サンゴ礁でのアンブシ漁、モズク採り、魚の裁き方、漁具作りなどの体験が行われている。沖縄県では周年にわたって水産業・漁村地域体験をすることが可能であるが、修学旅行は5月や10月などが多い。また、修学旅行でも、小学校は沖縄県内から、中・高は沖縄県外からが多い。  佐賀県鹿島市七浦は漁業体験回数が全国第3位で、地先には有明海の広大な軟泥干潟があり、地区の全戸が加入する「七浦地区振興会」が結成され、300人以上の地区民が出資して会社を作り、干潟体験や、干潟物産館、干潟レストラン、直売市などを経営している。干潟体験は、潟スキーや潟上綱引きなどのミニ・ガタリンピックを行うもので、干潟環境教室なども行われている。2004年度では、九州を中心に、関西などからの小中学生の修学旅行生など15,941人が干潟体験をしていて、1,346万円の売り上げをあげており、直売市やレストラン、物産館などを含めて、全体で約2億円を売り上げている。  水産業・漁村地域体験は、水産業や漁村地域がなければ成り立たない。このため、水産業をはじめとして、漁村地域の環境や風俗・文化などを存続させることがなによりも重要である。また、体験漁業などを行い、体験資源などを解説できる人材の育成も必要である。水産業・漁村地域体験のメニュー開発などにあたっては、地域の自然環境や漁法などの地域性を活かすことが重要であり、漁法や集客の季節性、大都市などからの時間距離なども考慮しなければならない。  水産業・漁村地域体験は、まだ十分とは言えない場合もあるが体験料収入などをもたらし、水産業・漁村地域に付加価値をつけるとともに、体験漁業は少量の漁獲でも成立するため、過度の漁獲努力や乱獲を回避することができるうえ、体験者が地域内に宿泊することなどにより地域振興にも寄与する。さらに、体験者は水産業や漁村地域への理解が深まり、魚食文化の普及などに繋がる。このため、水産業・漁村地域の多面的機能を活用して、水産業・漁村地域体験を行うことは重要で、地域性などを十分考慮した取り組みが求められている。    
  • 大橋 めぐみ, 永田 淳嗣
    セッションID: 209
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
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    1.分析方法
    放牧適性と赤身肉に特徴のある日本短角種の牛肉(以下、短角牛肉)は,日本食肉格付協会による評価(霜降りを重視)に基づく市場取引では飼養方式や赤肉の旨み等が評価されにくく,産地では,産直形態での流通が模索されてきた.
    本研究では,岩手県産短角牛肉の流通システムを,生産段階から販売先と契約を結んでいる「契約型」,岩手畜産流通センター(以下,岩畜)が委託販売を行っている「岩畜型」,産地JA等が出荷した牛を持ち帰ったり,地元の肉屋が農家から直接牛を購入し販売する「生産地型」の3つに類型化して分析を行った.近年,県外では,直営牧場を所有するなど,垂直的統合を行う企業直営型の流通も現れているが,上記の3類型では,小・中規模のアクターが併存し,ゆるやかに連携や調整を行っている.
    流通業者間,流通と生産者間などの各アクター間には,牛肉や生産資材などの物質,情報(価格,格付け,肉の味や飼養基準など)の流れがある.情報の流れは,各アクターの購買行動や飼養方式の変化などを通じて,物質の流れを規定する.こうした各システムの特徴について,アクターの特徴をふまえ,外部環境からの影響,物質の流れ,情報の流れ,試行錯誤の容易さ等に注目して分析を行った.
    2.契約型
    このタイプは外部環境からの影響を最も緩和でき,一定価格が長期間維持されてきた.ただし,近年は品質を反映する価格水準の基準の改定に伴い,枝肉価格も変動している.また,生産段階では,独自の方針が補給金制度や飼料補助と矛盾する面もあり,外部環境を変えていく活動の負担は重い. 消費者への啓蒙やPRも頻繁に行われており,会や店への信頼の厚い固定客を形成し,高値販売を実現した.ただし,宅配iでは,会員の牛肉購買率は12.3%と低めで高所得者層に偏る面や,放牧については理解を得にくい面もあった.JA,生産者,流通が共通した消費者観をもっており,大規模な投資や,長期的な取組が可能であり,繁殖センターの設立や,国産飼料での飼養方式などを発展させ,他のシステムにも影響を与えてきた
    3.岩畜型
    この型では,価格決定にJA,行政が関与しているが,市場相場の影響が大きく不安定であった.手頃な和牛として地域ブランド化を行い,一部で固定客を形成しているものの,安心感は漠然とした感覚に基づくものが多い.また,生産段階への直接の関与は行われず,品質の改善はJAや協議会による認証制度等が担ってきた.一時は歩留まり悪化や品質のバラツキが問題とされたが,現在はNONGMO飼料への統一や,デントコーンでの肥育の取組も行われている.繁殖牛の減少やF1生産の増加,県外肥育業者の需要増などから,短角種の素牛価格が上昇していることが大きな課題である.評価購買方式などの頭数は限られ,繁殖センターの設立などの要望もあるものの,大きな初期投資は困難な状況にある.
    4.生産地型
    このタイプでは,生産サイドの事情が優先され,子牛価格の上昇に応じて枝肉価格も上昇するなど,外部環境の影響がある程度緩和されている.産地で部分肉流通を行っていることから,近年は地元客だけでなく,外食への個別の対応も可能となった.ただし,部分肉流通は,低需要部位を自社で消費できる規模に限られるため,頭数増加は難しい.
    販促等による地元の固定客形成に加え,取材対応やマスコミを利用したPRも増加し,需要も急増している.産地の事情を消費者に理解してもらう働きかけを行い,カット方法の工夫や顧客の新規開拓など,独自の方向性の追求が行われている.しかし,頭数が少ないため,農家側への要望は困難であり,供給の不安定さが大きな課題である.

    <参考文献>大橋めぐみ・永田淳嗣2006.小売・飲食店における日本短角種牛肉利用の実態とニーズの分析.東京大学人文地理学研究17.1-34.
  • 徳島県藍住町におけるニンジン生産
    豊田 哲也, 田中 耕市
    セッションID: 211
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
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     徳島市の北西に隣接する藍住町は,全国有数の春夏ニンジンの産地である。この地域は温暖な気候や吉野川が運んだ肥沃な沖積土壌に恵まれ,江戸時代には藍作がさかんであった。戦後はダイコンやシロウリなど漬物用野菜の生産を経て,1960年代後半からトンネル栽培による集約的なニンジンの冬作が普及した。その一方,徳島市の郊外住宅都市として同町の人口増加は著しい。1970年に約1万人であった人口は,2000年時点で3万人を超えた。これは四国4県166市町村の中でも異例の急増ぶりである。土地利用の競合という面から考えると一見両立しがたい二つの社会経済現象が,この地域でなぜ同時に進行しえたのだろうか。

     藍住町では,1975年に全町域が都市計画区域に指定されたが,戦略的意図から区域区分はおこなわれず,全域が「未線引き白地地域」のままである。その結果,規制の弱い同町ではスプロール的な開発が虫食い状に進み,農地と住宅地が混在する市街地が形成された。この間の都市化圧力により農地の転用が進んだが,土地を譲渡または賃借した農家は,兼業化や不動産経営にシフトするグループと,他から農地を借り入れて規模拡大を図るグループに分かれた。1980年代以降の農業政策転換にともなう農地流動化は,こうした分極化を後押しした。また,転用期待の高まりや活発な土地取引は,不動産価格の上昇を通じて農家に含み資産をもたらし,経営の拡大や機械化に寄与した面も指摘できる。

     このように,急激な都市化の進展と集約的な特産地の形成は,限られた土地の利用をめぐって競合関係にあると同時に,土地市場における不動産資本の動きを通じ相互に促進しあう関係にあると言える。
  • 阪野 祐介
    セッションID: 302
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
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    _I_ はじめに 第二次世界大戦敗戦から約4年後の1949年6月,日本において,キリスト教の聖人の一人であり,日本にキリスト教を伝来させた人物として知られる聖フランシスコ・ザビエルの渡来400年を記念する行事が行なわれた。
     1949年当時の日本は,言うまでもなくGHQによる占領期であった。カトリックはGHQ統治という社会的状況のもと,宗教界のおいて非常に優位な立場にあったことが推測される。そして,1949年にザビエル渡来400年祭が全国的規模で催行され,世界各国からの巡礼団の来日や,皇室関係者の参列などもみられ,当時の日本の宗教的・社会的背景の一端を垣間見ることができる。
     こうした文脈において,本発表では,戦後日本という時間・空間の中で,カトリックの社会的位置づけの変容や,この宗教的行事が持つ意味を検討することが目的となる。また,このザビエル渡来400年祭を通して,非継続的・一時的な宗教行事と場所の関係に注目し,宗教儀礼の場という非日常的空間が,日常の空間において現れたことが当時の社会の中にあっていかなる意味を持ち,人々の間で捉えられたかを明らかにしたい。特に,この一連の行事のなかでも,西宮で行なわれた荘厳ミサを中心として考察を進める。

    _II_ ザビエル渡来400年祭の概要 ザビエル渡来400年祭は, 1949年5月29日~6月12日までの二週間にわたり、日本各地で公式式典が執り行われた。この式典に際し,世界各国のカトリック教会から司教レベルの聖職者等からなる巡礼団が来日した。巡礼団の内訳は,オーストラリア・シドニー大司教ノーマン・ギルローイ枢機卿をローマ教皇特使として任命し,巡礼団の団長とした。スペインからは,33名の使節団が,聖フランシスコ・ザビエルの聖腕とともに来日したほか,米国やフィリピン,インドからも使節団が日本に集結した。
     公式式典にともなう巡礼団の行程は,長崎浦上天主堂廃墟前での荘厳ミサを皮切りに,鹿児島,大分,山口,広島,西宮(荘厳ミサ),高槻,名古屋,横浜,東京・麹町イグナチオ教会とめぐり,6月12日の明治神宮外苑での荘厳ミサで日程を終えた。ただし,公式式典終了後も,聖フランシスコ・ザビエルの聖腕は,「六月二四日…札幌で崇敬され、函館、青森、盛岡、仙台、福島、山形、秋田、鶴岡、新潟、金沢の各市を三週間にわたって歴訪」し,「訪問することのできなかった町においても信者は駅へ来て列車の中の聖腕を崇敬したこともあった。そして七月下旬に…静岡、岡山、松江、米子、高松、高知、姫路などで聖腕を数多くの信者に顕示し、各地で熱心な祈りの集まりが行なわれた」ことが記されている。

    _III_ 西宮球場とメディア・イベント ザビエル渡来400年祭は,以上のように日本各地をめぐり,なかでも,長崎,西宮,東京においては荘厳ミサが行なわれた。そのなかで,西宮で行われた荘厳ミサに注目すると,会場となった西宮球場では,1937年に球場が完成して以来,様々なイベントが開催されていた。
     ザビエル渡来400年祭が行なわれた翌年の1950年には,アメリカ博覧会が大々的に開かれた。この博覧会は,朝日新聞社主催,外務省,通産省,建設省,文部省,日本国有鉄道,西宮後援となっているが,事実上は,GHQの全面的なバックアップによって開催された。そして,200万人という大衆動員を成功させたとされている。そこで,重要な役割を果たしたのが,朝日新聞社の積極的宣伝であったことも見逃せない。その前年に催されたザビエル渡来400年祭も同様に,メディア・イベントとして捉えることができる。ザビエル渡来400年祭は,カトリックの聖人を記念する宗教的行事であるが,先述のとおり,GHQが深く関わっており,まさに,「国家や国際機関が主催の場合にも,それが受容されていく過程では,メディアが決定的な役割を果たしていくイベント」として捉えることができよう。

    _IV_ おわりに 以上のように,日本の社会状況が敗戦後の連合軍統治下,日本各地を尋ねた巡礼団の足跡をも含めると、当時の統治者であるGHQの政治的思惑としてのキリスト教化とカトリックの宣教・布教の欲求の合致がみられる。それは,この宗教的行事が,聖フランシスコ・ザビエルの功績を讃える意味とは別に,「平和・復興の祈り」という意味がこめられている点にも読み取ることができよう。
  • 岡山県の郷土玩具・泥天神を事例に
    岡本 憲幸
    セッションID: 306
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    地域文化は社会的・政治的文脈によって構築され,「伝統」や「真正性」といった概念が付随する。このような地域文化をとらえる視点として,「フォークロリズム」や「文化の消費」などが挙げられる。このように,地域文化は様々な要因によって流用され,再文脈化されるが,研究対象とされる地域文化は成功している事例が多く,維持困難な事例を採り上げる必要がある。本発表では,維持困難な地域文化として「郷土玩具」を採り上げる。郷土玩具概念は,明治期に失われていく江戸文化への再評価の過程で登場したもので,愛好家のまなざしによって構築されたものである。郷土玩具の研究は,主に愛好家を中心に行われており,概念形成を論じた民俗学の研究も見られるが,地理学においてはこけしの地場産業研究が行われるぐらいであり,本発表は郷土玩具を文化的側面から捉えたい。対象とする郷土玩具は,岡山県美作地方に伝わる泥天神を事例とする。この地方には,津山,久米,勝央の各泥天神が集積しており,地域全体の郷土玩具が捉えられる。また,この地方の泥天神は,天神である菅原道真とゆかりがある点,戦前までは雛節供の際に男児に泥天神を贈る風習が存在していた点が特徴として挙げられる。戦後,製作中断から再興し,自治体などの指定や表彰を受けた泥天神もあるが,風習の衰退などにより,維持が困難な状態にある。泥天神の文脈に欠くことのできない風習に対して,製作者たちは泥天神と風習とのつながりが希薄なことを認識し,風習の文脈に「伝統」を感じていない。そして,風習が衰退した美作地方から,製作者は泥天神の販路を地域外へと拡大させている。また,泥天神の大きさを小型化したり素材を変えたりもしている。製作者たちはかつての泥天神を維持することに「伝統」を感じておらず,様々な変化は容認しつつも現在に泥天神を継承していることに「伝統」を感じている。こうした製作者の意識は,かつての泥天神の文脈から分離し,新に創出された「伝統」へと再文脈化したものといえる。製作者たちは,自治体による泥天神への指定の影響から,泥天神を「郷土」に遺す努力をしている。一方,自治体のほうは,泥天神の保存を製作者と地域住民に託しており,また地域住民のほうは,風習が衰退して泥天神に関わる機会が少ないことから,泥天神の保存に対して積極的ではない。このような状況で,製作者が「郷土」に感じている点は,1つ目に泥天神が同じ「郷土」で製作される必要性,2つ目に同じ「郷土」で製作されているから,継承の断絶があっても「真正性」が失われないという2点である。このことから,「郷土」は泥天神の「伝統」の再文脈化を保証する役割を担っている。
  • 塩川 太郎
    セッションID: 307
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
     近年,先進国を中心に急速に進む少子化は,各国で大きな社会的問題となっている.台湾では経済成長に伴い,少子化傾向に陥ったが,出生率は,2.0を少し下回る範囲で推移していた.ところが,近年,急激な出生率の低下が起こり始め,現在台湾は,韓国と同様に世界で最も低い出生率の地域となった.
     このままのペースで少子化が進めば,10年後には台湾の人口がマイナス成長となり,さらに40年後には若者1人で老人2人を養わなくてはいけない深刻な状況になると言われている.このように近いうちに高齢化社会が訪れ,現役世代の負担が増え,社会システムを揺るがす大問題となっていくのは間違いない.
     少子化が進行すると,最も早く影響を受けるのは教育の世界であろう.子供が減れば,当然学生数も少なくなり,学校経営に大きなダメージを与えることになる.すでに保育園では児童獲得の競争が起こり,閉園へ追い込まれたケースも増えてきた.また,学校では学生に対する教師の数も過剰になるため教育方針も見直す必要にせまられている.
     そこで本論では,台湾の少子化と教育政策に注目し,中華民国内政部(総務省)及び教育部(文部省)の統計データを基に台湾の少子化と教育環境の関係を分析して,これらの問題点について考察を行った.
  • ―エルデネト、ダルハンの事例―
    高原 浩子
    セッションID: 313
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
     本発表は、モンゴルにおける商業、物資流通の状況を明らかにすることを目的とする研究の一環として、モンゴルの地方都市およびその周辺村落の商業、物資流通の状況を提示し、考察するものである。  モンゴルは市場化以降、物資不足の時期を経て現在へと至るまで、食料をはじめとする日用消費物資を外国からの輸入に頼るという輸入超過、生産少の状況にある。このなかで、その流通を担う商業者による物資流通の展開も大きく変容してきている。  本発表では首都ウランバートルに次ぐ規模であるエルデネトとダルハンの二地方都市、およびダルハン周辺のホンゴルとフトゥルの二村落を取り上げ、その商業と物資流通の展開を示した。  二地方都市においては、その物資は主として首都ウランバートルから各商業者自身によって仕入れられ都市内に持ち込まれている傾向が読み取れた。また二村落の商業者は、近隣する地方都市であるダルハンへ少量ずつ多頻度で仕入れを行う一方で、首都へも仕入れに向かっていることが明らかになった。ここに物資流通において「首都―地方都市―周辺村落」という基本構造が浮かび上がるが、これは単に段階的に物資が流れているというものではなく、従来の商習慣の継続と卸売、小売、運輸などの分業の未分化から、地方の商業においては首都が中心的な物資調達先として圧倒的な優位性をもっていることが指摘できる。この「ねじれ」は現代モンゴルの地方における商業、物資流通の実態を表しているといえよう。
  • -張志淵の「大韓新地誌」を中心に-
    金 どぅ哲
    セッションID: 314
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    I はじめに 本研究は旧韓末(朝鮮時代の末期)の代表的な学者で啓蒙思想家である張志淵の地理思想を中心に、韓国における伝統的な地理思考と近代的な地理思想との接点を探ることを目的とする。張志淵(1864~1921)は、韓国初の民間新聞である「皇城新聞」の創刊者および主筆として、日韓保護条約(1905)を痛烈に批判した社説「是日也放聲大哭」で有名であるが、一方では旧韓末の代表的な儒学者・史学者としても大きな足跡を残している。それだけに今日にも張志淵は言論人の草分けとして、また儒学者・史学者として韓国で広く知られている人物であるが、彼の地理学的な業績と近代地理学への影響についてはあまり知られていない。そこで、本稿では、張志淵の思想的背景に注目しつつ、彼の著書である「大韓新地誌(1907)」を中心に韓国における近代地理学の黎明期の特徴を明らかにするとともに、韓国の近代地理学に及ぼした影響について検討したい。 II「大韓新地誌」の内容と特徴 張志淵は韓国の3大地理書の一つと呼ばれる丁若鏞の我邦疆域考 (1811年)を増補した「大韓疆域考(1903)」や「大韓新地誌 (1907)」などを著するなど、地理学と地理教育にも少なからず功績を残した。張志淵は「大韓疆域考」の序文で、「いま地理を論ずるためには、歴代の疆土の沿革をまず調べなければならず、・・・歴史の一部分を補充しようとする・・・」とし、地理学を歴史の一部と見なす伝統的な地理思考を示している。しかし、4年後に刊行した「大韓新地誌」の序文では、「今日、我々に最も緊急な問題は地理の不在である・・・地理学が発達しないと、愛国心もない・・・近年我が国では新学問を論ずる人々が世界各国の地理と事情だけを一生懸命議論するのみで、真の我が国の地誌を研究するものはほとんどいない。また、学校では教科書で地理を教えていると言っているものの、完全無欠な教本がなく地理に関する常識がはなはだ浅い。これは我々の大きな欠点である・・・」とし、新学問としての地理学の必要性を力説している。この時期、彼は地理教育を通じて愛国心や民族意識を向上させることを試みており、その方法として近代的な学校教育を取り、実際にいくつかの民族学校の校長に努めるなど、教育運動にも関わっていた。 「大韓新地志」は、1907年に学部(統監部)の検定を受けたが、内容が不純であるという理由で1909年に検定無効となった。しかし、当時としては比較的に科学的な内容構成であり、優秀な地理教科書であったため、1907年初版の発行以来1年半後に再版を発行するほど人気が高かった。「大韓新地志」は韓国地理を地文地理、人文地理、各道の3部構成で叙述しており、近代地理学的な地誌体系を取っている。また、「大韓新地志」田淵友彦の「韓国新地理」を参考にした痕跡があるとの意見もあるが、伝統的な地誌を基本に近代的な韓国地理の体系を樹立したと評価できる。例えば、従来韓国では風水地理の影響を受けた「白頭大幹」あるいは「白頭正幹」という表現が用いられてきたが、「大韓新地志」で初めて「白頭山脈」という表現が登場する。また、「大韓新地志」の挿入図には、方位や縮尺、海岸線や航路の距離、礦山・港口・鐵道などの凡例のように近代地理学の概念や表現が用いられている。「大韓新地志」の目次からも分かるように、「大韓新地誌」には「山経」などの伝統的地理思想に基づいた項目もあるが、近代地理学の体系を受容している項目が多く、近代的な地誌としての体系を整えていると言える。 III 終わりに 韓国における近代地理学の黎明期に波瀾万丈な人生を過ごした張志淵の地理観を要約すると、次の3点が指摘できる。第一に、開花思想の影響で、日本から導入されはじめていた近代地理学的な概念を受容し、伝統的な地理観からの脱皮を試みた。第二に、儒学者としての生い立ちの影響で、地理を歴史の一部としてとして捉える認識が残っていた。第三に、地理学を愛国啓蒙の手段として捉えていた。最後に、このような張志淵の地理観にみられる特徴のうち、地理学を愛国啓蒙の手段として認識は、独立後の韓国の地理学にも影響を及ぼしてきたことを指摘しておきたい。すなわち、韓国では少なくとも1980年代まで地理学を「国学」として捉える風潮が色濃く残っていたが、その原因は海外研究が自由にできなかった社会経済的な要因もあるが、韓国のおける近代地理学が愛国啓蒙の手段として出発したことと大いに関わっているからである。 参考文献 張志淵(1907)『大韓新地志』、廣學書舗。 具滋赫(1993)『張志淵』、東亜日報社。 カン・スンドル(2005)「愛国啓蒙期知識人の地理学理解:1905~1910年の學報を中心に」、大韓地理学会誌、40-6、595-612。 金基植(1994)『韓・日合併を前後した韓国地理教科書に表れた国家意識の分析』、韓国教員大学修士論文。
  • 1930年代の岐阜県大垣市における美濃ミッション事件の場合
    麻生 将
    セッションID: 403
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    新聞をはじめとするマス・メディアがある特定の空間スケールをもって報道をし、その結果様々な社会的・地理的現象が生じるという事例は、近代社会におけるひとつの特徴とも言える。そして近代の、宗教集団と地域社会との諸関係の中で生じる諸現象においてもマス・メディア、特に地域メディアが一定の役割を果たしている事例が少なからず見られる。 こうしたことを踏まえ、本研究は1930年代に起こった美濃ミッション事件という一宗教集団と地域社会との間に生じた事件の中で、美濃ミッションをめぐる様々な言説がせめぎ合う状況、すなわち美濃ミッションをめぐる言説空間の生成に地域メディアがどのような役割を果たしたのかを考察することを目的とする。そして美濃ミッションに対する空間的排除の論理の正当化に地域メディアがどのような役割を果たしたかを考察することを目的とする。  美濃ミッションとは、アメリカ人宣教師セディ・リー・ワイドナー(以下、ワイドナーと呼ぶ)によって1918年に大垣市郭町に設立されたプロテスタントの教団である。ワイドナーは大垣市を中心とする西美濃に教会を設立し、布教活動を展開した。その中で大垣市の美濃ミッション本部での幼稚園経営の他、在日朝鮮人や寡婦、母子家庭の親子、孤児、紡績工場の女性労働者らを積極的に保護し、布教を行った。こうした社会的に排除される傾向、要素を相対的に多く持つ人々、集団と積極的に関わりを持つことで次第に美濃ミッションという教会が周囲から「異質な」存在と見なされるようになっていったと考えられる。それは美濃ミッション事件における周辺住民や様々な社会集団の行動からそのように分析されるが、詳細は別稿に譲る。  次に美濃ミッション事件について概要を述べる。1933年6月、大垣市の市立小学校に通う美濃ミッション所属の児童らが、修学旅行の恒例行事であった伊勢神宮への参拝を信仰上の理由で拒否し、修学旅行への不参加を申し出た。これに対し学校側は児童とその母親、そしてワイドナーに対して神社参拝についての「教育的指導」を行った。しかし彼らは信仰上の理由で参拝拒否を貫いた。その結果、同年6月下旬から10月まで複数の新聞社がこれを大々的に報道した。大垣市教育委員会は8月、児童らに対して小学校令第38条に基づく性行不良を理由に出席停止、停学の処分を下し、彼らはそれぞれ市外の私立学校に転校した。  この事件において美濃ミッション排撃を主題とする講演会がたびたび開催された。また暴力的な市民が美濃ミッション本部の敷地へ押しかけて罵声を浴びせ、投石を行うなど日常的な暴力行為を行った。そして大垣市内および周辺の各界関係者らは新聞紙上で美濃ミッションへの批判を展開していった。6月から9月にかけて暴徒による美濃ミッションへの焼き討ち計画があり、実行される寸前で警官がこれを止めさせたという。 事件そのものは、同年9月に入ってから新聞報道も自然に減少し、次第に終息していった。 今回使用する新聞は1933年6月から10月頃の美濃大正、岐阜日報、朝日、毎日そして読売の各紙である。  報道の焦点は当初、神社参拝を拒否した信者個人に当てられていた。それが6月22日から7月6日の投書記事が連日掲載される前後から、次第に美濃ミッションそのものに報道の焦点が移っていった。ここではいくつかの記事を挙げ、そこに現れている空間スケールを読み解く。  例えば1933年7月18日の大阪朝日新聞岐阜県版と同年8月6日の美濃大正新聞にはそれぞれ「…幼稚園閉館を断行を以て帝国の版図より悪思想を駆逐せんことを期す」「…更に全国的に経過報告をして神社参拝を拒否するような思想を国内から撲滅すると同時に此際愛国的観念を強調することが最も緊要だと思う。」とある。美濃ミッションの児童そして関係者の態度はナショナルなスケールで「異質な」ものであるという報道がなされた。特に後者の記事は岐阜県選出の衆議院議員大野伴睦のインタビューであるが、このような地元出身の有力者の発言がナショナルな文脈の言説と同時にローカルな文脈での親近感や美濃ミッション排撃の信念、確信を市民に与えたと考えられる。そして美濃ミッションをめぐるナショナルスケールの「異質さ」という言説がより強固に生成されていったと考えられる。  他方、大垣市民は身近な存在であった美濃ミッションに対する恐怖や怒りといった言説を抱き、日常的暴力を繰り返していた。そしてこのことは地域メディアでたびたび報道された。  美濃ミッション事件は大垣市でのローカルな事件であったが、美濃ミッションを巡る言説はナショナルな文脈であるとともに身近な存在への恐怖、怒りといった言説であった。こうした異なる文脈の言説を地域メディアが報道することで、美濃ミッションに対する空間的排除の論理が正当化されたのである。
  • ―文観税・古都税紛争を例として―
    藤村 健一
    セッションID: 404
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    京都をはじめとした国内の多くの観光地では,著名な仏教寺院が重要な観光資源となっている。こうした「観光寺院」は,現代の日本人にとって馴染み深いものであるにもかかわらず,人文地理学や観光学,宗教学では等閑視されてきた。そこで本発表では,観光寺院に付与された意味について予察的に考察する。第一に,現在の観光寺院に付与された意味が,主として「観光地」・「宗教空間」・「文化遺産」の3概念に集約できると仮定する。そして, 3概念の関係を既往研究に基づいて整理することにより,観光寺院の意味の構図を仮説的に提示する。第二に,この構図に基づき,観光寺院の意味をめぐる主体間の対立を,京都の文化観光施設税(文観税)・古都保存協力税(古都税)の紛争を事例として分析する。 上述の3概念のうち,観光とは一種の娯楽の販売・消費であり,観光地はそのための場所であるのに対して,宗教の目的は一般に利潤追求と相容れないとされており,宗教空間としての寺院は,観光地であることと潜在的に矛盾する。また,文化遺産ことに文化財に関しては行政が保護を担当するが,行政による宗教空間の保護は,潜在的には政教分離原則に抵触する恐れがある。このように,「宗教空間」-「観光地」,「宗教空間」-「文化遺産」の関係は対立の可能性を孕む。一方,「観光地」-「文化遺産」の間には相対的に親和性が認められる。確かに,観光客による文化財の毀損は跡を絶たないが,文化財は極力一般に公開されるべきものとされており,所有者である仏教教団でも拝観を制限することは稀である。また,寺院への観光は主に文化観光の一環として行われているため,観光寺院には文化遺産であることが求められる。 文観税・古都税紛争では,寺院に「文化観光財」・「文化財」という意味を付与し,その「観賞」行為への課税を試みる京都市側に対して,教団側は寺院や「拝観」行為の仏教的意味を強調し,課税を政教分離原則の違反と見なした。これは,「宗教空間」-「観光地」,「宗教空間」-「文化遺産」の対立の顕在化として理解できる。
  • 東京-横浜と大阪-神戸の事例
    シュルンツェ ロルフ
    セッションID: 405
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    調査の結果、ビジョンのある、戦略的な企業意思決定から生まれるシナジー効果は、外国人マネジャーの仕事および生活の空間的側面と関連しているらしいことがわかった。   国際化が進んでいるビジネス環境であるほど、外国人マネジャーが現地の文化に適応する努力の必要性は低くなる。グローバルマネジャーはグローバル都市においてベストのビジネスをしている。国際化の程度が低い立地においては文化変容し、文化に適応できた外国人マネジャーのみがシナジー効果を創出することが期待できる。
  • 「ギャンブル空間」へのジェンダー・アプローチに向けて
    寄藤 晶子
    セッションID: 406
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
     愛知県常滑市では、1953年から競艇事業を実施している。本発表では、当事業の実施に女性労働力がどのように関わってきたのかを、労働組合運動を中心に明らかにする。  常滑競艇事業のみならず、公営ギャンブル全体を通しても「女性労働力」に関する言及は極めて少ない。参与観察とオーラル・ヒストリー法を用いた研究の結果、次の点が明らかとなった。 (1)1953年以降、常滑競艇場では舟券の販売等主たる開催業務に「女性」を雇用。(2)1979年の就業規則制定以前の賃金体系は不明確。(3)2005年現在に至るまで法的立場は「日雇い」。(4)公営ギャンブルの開催日数制限(年間180日)によって、日雇労働雇用保険の受給が不安定であった。(5)1980年代、販売業務の機械化に抵抗するように組合が発足。(6)一般雇用保険、厚生年金等の適用を目指し闘った。(7)1990年代以降、雇用保険や一般健康保険、育児休業、介護休暇など諸種の権利を獲得。(8)圧倒的多数の男性客に対する奉仕的労働内容。  以上の点から、公営ギャンブル制度の維持にジェンダーが深く関与していると結論できる。この点を、「ギャンブル空間」概念の精緻化へ組み込んでいきたい。  なお本研究の実施にあたっては、お茶の水女子大学COE「ジェンダー研究のフロンティア」公募研究の助成を受けた。
  • 柴田 陽一
    セッションID: 407
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    京都帝国大学地理学教室関係者や陸軍の軍人で構成された綜合地理研究会(通称「吉田の会」)のリーダーであり,「日本地政学」の主唱者である小牧実繁が,アジア太平洋戦争期に展開したプロパガンダ活動を検討した。この活動は,同研究会の陸軍の作戦計画への関与とともに,「日本地政学」の実践的側面として位置づけられる。これまでの「日本地政学」の検討は,その理論的側面が科学的であるかの吟味に終始してきた。しかし,本発表では,「日本地政学」の知の性質を考慮すると,理論的側面の検討のみでは不十分であるとの考えから,「日本地政学」の実践的側面の一つであるプロパガンダ活動の検討を行った(同研究会の陸軍の作戦計画への関与については,2006年6月の第49回歴史地理学会大会で研究発表を行った)。まず,発表メディアや内容に注意し,プロパガンダ活動の時期区分を行った。次に,4つの特徴的なプロパガンダの内容を検討した。それをふまえ,プロパガンダ活動の思想的基盤,社会的影響を検討し,「日本地政学」という総力戦下における地理的知の性質を明らかにした。
  • 大山 琢央
    セッションID: 412
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    近代における交通機関の発達は人々に旅行機会を与え、大正~昭和初期にかけて「観光ブーム」が起こった。温泉地もこの流れに応じて、従来の湯治場的機能から行楽・慰安を目的とする観光地に変容した。本報告では熊本県山鹿温泉を事例として、別府や熱海などの温泉資源に特化した「温泉町」とは異なる、地方都市の「温泉町」に着目する。熊本県北の中心都市としての機能も有する山鹿温泉が、近代においてどのような変容・形成過程を遂げたのかを分析考察する。
  • 永野 亜紀
    セッションID: 415
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    ヒューマンエコロジーは、社会学、文化人類学、心理学、公衆衛生学、家政学、造園学、地理学など多岐にわたる分野からのアプローチによる学際的学問領域である。ヒューマンエコロジーが主題とする人間と環境との相関性は、今日の地球環境問題、持続可能性の問題と供し、その研究の深化を要請されており、それは、これまで人文地理学において培われてきた人間と環境との相関性についての研究であると言え、人文地理学におけるヒューマンエコロジー研究として、その課題、研究領域についてのアプローチを整理する必要性がある。本研究では、ヒューマンエコロジーの他分野との比較を通して、ヒューマンエコロジー研究における人文地理学的視点、意義、その方向性についての試論を呈示することを目的とするが、ここでは、都市社会学、文化人類学、造園学、公衆衛生学、地理学のこれまでの研究のレビューによるヒューマンエコロジー研究についての若干の整理を行っている。まず、方法論的アプローチの特徴としては、各々の研究視座によりその対象となる領域、方法が異なっている点、またその領域毎に確立された分析方法を用いて、諸現象についての考察を行っている点が挙げられる。また、ヒューマンエコロジー研究には二つの潮流がみうけられ、一つは、人間行動の生態学的な分析についての考察であり、他方は、人間の生存のための人間をとりまく環境への分析、その適応、進化についての考察である。共通点として、人間を主体とした環境への相互関係、相互作用についてのアプローチが挙げられる。これらを踏まえて、人文地理学におけるヒューマンエコロジーへの視座として、人文地理学研究は、地球環境を構成する諸要素を個別的に取り扱う他の専門的学問とは異なり、総合的な視座による空間の構造、機能、変容、形態をベースとして地球環境の分析を行う。地理学におけるヒューマンエコロジー研究は、人間の生存、適応分析を中心として、景観生態学でこれまで排除されてきた人間の自然界への撹乱の影響を鑑みつつ、空間の構造、機能、変容をベースとした総合的な研究として進められるべきではないかと考える。
  • 年齢別居住パターンを中心に
    山神 達也
    セッションID: 501
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに 本報告の目的は、京都府舞鶴市を事例として、年齢別居住分化に着目しながら、地方中小都市の居住地域構造を検討することにある。 2.舞鶴市の人口と年齢構成の変化 まず、舞鶴市の人口をみると、1960年から9万人代後半で安定している。また、その年齢構成の変化を確認すると、1960年では、10-14歳を頂点として、年齢階級が上がるほど人口割合が低くなっていた。しかし、2000年になると、年齢階級があがるほど人口割合が高くなり、65歳以上人口の割合が21.3%を占めるようになった。 3.旧行政区別の人口変化 舞鶴市内を旧行政区別に区分して、各地区の人口の変化を検討した。その結果、中心商店街の位置する旧舞鶴地区と新舞鶴地区で人口の減少幅が大きく、中心市街地の衰退状況が人口の面にも如実に現れていた。一方、市の中心部に隣接する地区では、人口密度は低いものの、人口が増加傾向にあった。このように、舞鶴市でも、中心部からその近隣地区へ人口が流出し、市街地の拡大が進展してきたが、その影響は、比較的近距離の範囲に収まっており、市の外縁部では、人口密度が低く、かつ人口の減少が継続していた。 4.年齢階級別の居住分化 年齢別の居住分化の進展の有無を検討すべく、専門化係数を利用して、各地区の年齢構成が舞鶴市全体の年齢構成とどれほど乖離しているのかを測定した。その結果、各地区における専門化係数の平均値は年々上昇してきており、各地区における年齢構成が舞鶴市全体の年齢構成から徐々に乖離し、年齢別の居住分化が進展してきたことが確認できた。そして、このように専門化係数が上昇してきた主たる要因は、都市外縁部における高齢化の進展によるものである。加えて、市街地近郊地区でも、ある特定の時期に専門化係数が上昇しており、宅地化の進展に伴い、住宅取得層の流入が見られたことが推察される。 次に、各地区の年齢構成を具体的に検討すると、地区別に以下のような特徴が見出された。まず、中心市街地である旧舞鶴では、主として加齢に伴う高齢人口割合の上昇が見られた。一方、新舞鶴でも高齢人口割合の上昇は見られるが、30歳前後の世代の流入が確認できる点で、旧舞鶴とは異なっていた。次に、市街地近郊地区を見ると、第1次ベビーブーマーが卓越する倉梯・与保呂・池内、第1次ベビーブーマーとそれより若干若い世代が卓越する余内・志楽・四所・高野、継続して30歳代が卓越する中筋、という違いが見られた。この差は、主として、宅地開発の時期の違いに伴う入居者層の差異に由来するものと考えられる。そして、市外縁部では、高齢化の進展が著しかった。最後に、舞鶴高専が立地する朝来と海上自衛隊の宿舎が立地する中舞鶴では、20歳以前後の世代が卓越していた。 5.おわりに 人口が停滞していた舞鶴市では、市街地近郊地区での宅地開発が進展して、人口の分散が進んできた。その際、主として宅地開発の時期の差に由来することが想定される形で、年齢別の居住分化が進展してきた。しかし、市街地近郊の各地区より舞鶴市全体の年齢構成との乖離が大きかったのは、高齢化の進展が著しい中心市街地の旧舞鶴と市外縁部の各地区であった。地方中小都市においては、中心市街地の衰退と都市外縁部における過疎化の進展が大きな問題であることがここにも現れている。
  • 高山 正樹
    セッションID: 502
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
     近年大都市の人口回復、とりわけ都心部の人口回復が注目されている。このような事実とともに一方で都市再生特別措置法にもとづく都市再生が関心を集めている。本研究は大阪都心部の人口回復を、近年の大阪市における雇用・就業状況や生活保護世帯の実情、1人当たり所得(市民税)などの資料に見られる実態と併せて、地域構造的に捉える中で、都市再生の課題について考察することを目的としている。  各種資料をもとに検討した結果、都心縁辺でのオフィスビルの建設や修復とマンション建設が見られる。その結果、都心部は人口増加をしている。しかし、このことは必ずしも、都心部の雇用回復を意味していない。さらに、都心周辺(インナー・シティ)では、なお人口減少(特に社会減)している区もある。加えて生活保護世帯・人口の割合も高い。1人当たり所得でも低い。このような都市内の地域格差は明瞭である。人口回復下にある大阪市のこのような現状が確認された。  今後、都市再生には格差是正の観点から都心周辺部の再生を進めることが重要である。とりわけ、学校、公園をはじめとした基盤整備は人口増加傾向にある大都市にとって重要な課題である。また、大阪市は都市圏の中心市として果たすべき役割を明確にした上で、雇用と経済開発の課題に取り組むことが求められる。
  • 人口動態統計の補正とその結果
    山内 昌和
    セッションID: 503
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    本報告では、1920~35年の沖縄県の死亡数と出生数を推計し、当時の沖縄県の死亡力と出生力がいかなる水準にあったのかを検討した。 あらかじめ人口動態統計の精度について検討し、次いでコールらのモデル生命表のSouthモデルを利用して、1920年、1925年、1930年、1935年の生命表を作成した。作成された生命表と国勢調査から死亡数を推計し、推計された死亡数と国勢調査から出生数を推計した。推計された死亡数と出生数は、いずれも人口動態統計の当年届の約1.4倍であった。
    さらに、沖縄県の死亡力と出生力を他の都道府県と比較した。死亡力は、現代とは対照的に高水準で、若年者の死亡率が高く、高齢者の死亡率が低いという特徴をもっていた。出生力は、現代同様に高水準で、高い夫婦出生力と低い有配偶力という特徴がみられた。また、普通死亡率、普通出生率、乳児死亡率の推移を検討したところ、年変動はあるものの、それぞれ23‰、38‰、160‰で比較的安定しており、本格的な人口転換の開始以前の段階にあることが明らかになった。
  • ―函館市西部地区を事例として―
    藤塚 吉浩
    セッションID: 505
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
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     函館は幕末に開港され、早くから西洋文化の影響を受けた西部地区では、洋風建築や和洋折衷住宅など歴史的建築物が現存している。明治以降発生した大火後、防火のための道路拡張と家屋改良が行われ、市街地が再開発された。陸繋島に位置しているため、市街地は函館山の南西側ではなく、函館山山麓から離れた北東側に拡大されてきた。外延的な市街地拡張の影響を受けて、中心商業地区は、大正期の十字街から、高度成長期には大門地区、現在では五稜郭地区へと移っていった。  西部地区の産業については、港湾関連の運輸通信業、製造業等が移転し、雇用も失われた。末広町と豊川町の十字街周辺地域では、商店街が衰退し、空き店舗が多くなっている。1999年の中心市街地活性化計画は、函館駅周辺の駅前・大門地区において策定され、西部地区は指定されなかった。弥生町では、函館市立病院が2000年に港町に移転し、医療関連の雇用が失われた。  函館市西部地区には、和洋折衷住宅など独特な歴史的な町並みが存在するが、1980年代の地価高騰の際には、周囲の歴史的町並みの景観の眺望を売りにした中高層共同住宅が多数建設された。これらの用地確保のために、多くの伝統的な住宅が取り壊されるとともに、住民が立ち退きさせられ、人口は減少した。世帯数の増減についてみると、青柳町や舟見町の一部で増加しているが、弥生町や大町では減少している。  産業活動と住民の転出は、西部地区の土地利用に大きな影響を与えた。2004年に舟見町、弥生町、弁天町、元町、大町、末広町、豊川町において空家調査を行った函館市によると、195件の空き家のうち、老朽化のため60件が解体された。発表者は、低未利用地の実態把握のために、弁天町、大町、末広町について現地調査を行った。弁天町では港湾関連施設の跡地が利用されず空閑地になっているものや、大町では老朽化した建物が撤去され、空閑地や駐車場とされているものが多くみられた。こうした低未利用地の再利用が、都市再生への課題である。  都市再生の契機は、1980年代の中高層共同住宅の建設による景観破壊の危機を目の当たりにし、町並み保全を目指して起こった市民運動である。函館市も図1の12町の範囲で景観条例を施行し、一部の地域を高度地区に指定して中高層建築物の規制を実施した。また、まちづくり基金の創設により、町並みを整えるしくみが整備された。基金による伝統的住宅のペンキを塗り替えるまちづくり活動が行われるなど、住民の主体的な取り組みは、都市再生への大きな機運である。  西部地区の歴史的な町並みと港湾地区の再生利用された倉庫を観光資源とした都市観光は、主要な産業となりつつある。ホテルが建設されるなど、観光関連産業の雇用は増加した。伝統的な建築様式に似せてつくられた観光施設もあり、商業的な画一性が個性的な町並みの魅力を喪失させる危険もある。  こうした都市再生は、どこまで起こりうるかが重要な点である。近年の地価の下落した状況にあっては、町並みを破壊する再開発が起こる危険もある。本発表では、西部地区における都市再生の可能性と、その影響について検討する。
  • フランスの都市計画における思想的一貫性をめぐって
    荒又 美陽
    セッションID: 507
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    パリのマレ地区は、1962年に制定されたマルロー法によって街区全体が保護の対象となっており、マルロー法後の変化と整備の手法に研究の焦点が当てられてきた。しかし、マレ地区の保存事業は1960年代に初めて手がけられたわけではない。地方行政レベルでは、1940年代から調査や整備案の策定が行われていた。国の事業は、地方行政の政策を引き上げる形で実施されたのである。では、フランスはなぜこの17世紀の街区を選び取ったのだろうか。本報告は、地方行政時代のマレ地区の保存事業に携わっていた建築家アルベール・ラプラドの足跡から、フランスという国家によるマレ地区保存の背後にある思想について考察する。
     ラプラドは、1883年に地方都市ビュザンセに生まれ、1907年にボーザールを卒業した。1915年に第一次大戦のなかで負傷して軍隊を離れ、建築家アンリ・プロストについてフランスの保護領であったモロッコの都市計画に携わった。伝説的な総督であるユベール・リオテの下、いくつかの都市の建築を設計したが、特にカサブランカの都市計画に関わったことは、ラプラドのその後のキャリアに大きな影響を与えた。
    当時のカサブランカは、近代化の波の中で、内陸部から多くの労働者が集まってきていた。彼らが住むためのニュータウンを設計するのがラプラドの仕事であった。彼は、ラバトやサレの町で「伝統的な」建造物をスケッチし、そのデザインをニュータウンの新しい建造物に採用した。建築家にとってはモロッコの伝統への最大限の敬意であったが、政治的には別の意味も持っていた。リオテはモロッコの「伝統的な」都市を保護しながら、その外側にヨーロッパ入植者用の「近代的」都市を建設する方針を取っていた。ニュータウンに伝統的なデザインを用いることによって、支配・被支配の関係は視覚的に明らかなものとなっていたのである。
    パリに戻ったラプラドがパリ中心部の保存を訴えるようになったのは1930年代のことである。当時のパリでは、不衛生な街区を取り壊して再建する政策が進められていた。このうちの一つ、第十六不衛生街区が現在のマレ地区の南部に位置していた。ラプラドをはじめとする一部の知識人はこの事業に反対し、1940年代に入って取り壊しの方針を撤回させた。その後、この街区は保存しながら再生することになり、ラプラドはその計画者のひとりとなった。
    ラプラドが担当したのは第十六不衛生街区の一番西側の一部分、サン・ジェルヴェ教会の周辺であった。彼は街区の内部の建造物を取り壊し、ファサードを修復して、古きパリを思わせる区画を作り上げることに成功した。ここから行政の信頼を得、ラプラドはマレ地区全体の調査・整備計画を任されることになった。
    彼はマレ地区についても膨大なスケッチを残している。そこにはファサードの形状やスケールだけではなく、階段やバルコニーなどの細かな意匠が描かれている。写真は、主に航空写真が使われている。それは、18世紀の古地図を下に、見えない部分まで含めて街区を修復するための手段であった。ラプラドは、貴族の時代に造られたマレをまさに再現しようとしたのである。
    1962年にマルロー法が採択されると、国はマレ地区の整備のために三人の建築家を指名し、行政に一方的に通知を行った。ラプラドは、その後も審議会などに呼ばれてはいるものの、実質的にはマレ地区の整備から離れることになった。しかし、国が指名した建築家は、70年代の半ばまではラプラドの方針をほぼ踏襲していた。彼の街区整備手法や考え方は、マレ地区に大きな影響を残したのである。
    ラプラドが手がけた二つの都市計画は、状況がかなり異なってはいるものの、いくつか共通点も見ることができる。それは、歴史性に重点がおかれており、周辺の「通常の」地区とは違うという認識に基づいて整備が行われており、そのなかで無名の職人が作り上げた「伝統的な」デザインに大きく配慮されていたことである。マルロー法の審議の中で、文化大臣アンドレ・マルローは、傑作のみではなく過去の事物全てが国民の遺産だという考えを示した。ここには、国民とその過去が一対一で結びついているという信念が見られる。それを象徴的に表すのが、無名の職人たちが作り上げた街区なのである。
    1960年代のフランスは、対アルジェリア戦争によって植民地支配を維持できなくなり、冷戦構造の中でアメリカの側に組み入れられていった。ド・ゴール率いる新政府は、フランスのアイデンティティを強く打ち出す政策を実施していた。ラプラドは、マレを保護するために、「アメリカ人が見たいというのはフランスの建築だ」といっている。カサブランカのニュータウンがフランス入植者地区と対比的な関係にあったように、時代の要請を受けて、パリのマレ地区はアメリカとの対比において「フランス」を示す場となったのである。
  • 荒井 良雄
    セッションID: 509
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
     地域情報発信の主体として,もっとも代表的な存在が市町村をはじめとする地方自治体であることはいうまでもない.これまでも,市町村は市町村要覧や市町村広報のなど,さまざまな手段によって地域情報の発信を行ってきた.しかし,これら紙媒体の手段には,外部の地域にひろく情報を送り届けることに著しい制約がある.また,地元住民向けの広報手段としても,昨今,急速に範囲が拡大し内容も複雑化している行政サービスのすべてについて詳細な情報を盛り込むことは難しい上,速報性にも限界がある.インターネットは,こうした紙媒体の限界を乗り越える情報伝達手段となりうることはいうまでもない.本研究では,全国から抽出したいくつかの地域内の各自治体が開設しているウェブサイトに関して,サイトの系統的な閲覧と電子メールを基本とするアンケート調査の結果から,市町村によるインターネットを用いた地域情報発信の内容とその地域的特性の検討を試みた.  具体的には,北海道道東地方,石川県,長野県,東京都都下部,大阪府府下部,大分県内の市町村を対象とし,市町村が開設しているサイトを系統的に閲覧し,サイトの内容を把握した.また,情報発信の実情や運営状況等の実態を把握するため,上記市町村に対するアンケート調査を実施した.調査は,原則として電子メールを用い(一部郵送),対象271市町村に調査票を送付,144市町村から回答を得た.有効回収率は53.1_%_であった.
  • -非営利セクターの役割に注目して-
    木村 オリエ
    セッションID: 510
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    公共政策では、政府部門(中央政府、地方政府)に加え、市民、企業、NPOなどの多様な主体からなる非政府部門が影響力を持ちつつある。この非政府部門は現在、地域を協働管理する構成員として政策に対する合意形成を促進することと同時に、政策の有効性に寄与することが指摘されている。また、調査対象地域である東京都多摩ニュータウンにおいては、都市の再生・育成にとって不可欠な存在であり、地域生活を担う新たな主体として期待されている。しかし、このような地域の協働管理体制が形成されていく中で、その主体としての市民組織がいかに生まれ、影響力を持つに至ったのかについては 、ほとんど明らかにされていない。そこで本発表では、NPOや市民企業などの発展プロセスや、セクター間での相互関係を分析することで、地域の協働管理体制の中での非営利セクターの役割と市民協働のまちづくりの中での課題について考察した。ニュータウンのような郊外コミュ二ティにおいては、職住分離によって形成されてきた固定的な性別役割分業に変化が生じている。「再生産活動のための空間」として造られたニュータウンにおいて、市民 (特に女性)の新たな就業機会・有償労働の場として非営利セクターの活動の重要性が高まってきている。これは、多様な市民のライフスタイルと生産活動のあり方を促進させるものであり、何よりも家事・育児など再生産活動を担うことを期待されてきたニュータウンの女性たちが、既存の役割と向き合いつつ、自らのライフスタイルの選択肢を広げる可能性を持つものであると考える。
  • エスニック・エンクレイブ論の視点から
    福本 拓
    セッションID: 514
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    _I_ 導入 (1)エスニック・エンクレイブ論の展開 都市の移民・エスニック集団をめぐる社会-空間関係に焦点を当てた研究の中でも,彼らの社会経済的・文化的適応の状況と居住の空間的形態(特にセグリゲーション)の関係は,これまでに最も多くの関心を集めてきたテーマの一つである。とりわけ,シカゴ学派社会学に由来する,空間的同化に関する諸モデルは,適合度が高いものとして最も広範に受け入れられてきた。すなわち,ホスト社会住民とのネットワーク形成が進み社会経済的地位が上昇するにつれ,エスニック集団の居住地は分散し,その結果明瞭な分離形態は消滅するという図式である。  これに対し,エスニック・エンクレイブ論(以下,EE論)は,空間的同化が単線的・不可逆的なプロセスを想定している点,および,エスニシティの維持を否定的に捉えている点を批判する中から展開されてきた。その特徴は,エスニック・ネットワークに基づく資金調達や労働力確保を通じた起業によって,当該集団の社会経済的地位の上昇が達成されることを予期している点にある。つまりEE論は,エスニック・ネットワークが社会経済的上昇の基盤となると想定している点で空間的同化のモデルとは異なり,分析の主眼がネットワークの機能や形成要因に置かれている。  また,EE論は,自営業者層を中心とするエスニック経済が,ほとんどの場合空間的に限定された範囲で生起することも指摘している。それゆえEE論は,個人レベルの社会的ネットワークの実態に着目し,エスニック集団をめぐる社会-空間関係のより具体的な内実を検討するアプローチといえ,自営業者層が卓越する集団を対象とした研究では特に有効なものとして評価できよう。 (2)エスニック・エンクレイブ論の問題点 しかしながら,EE論に対しては,次のような問題も指摘されている。第一に,起業を可能にするネットワークの通時的変化の検討が不十分であり,分析がエスニック・ネットワークに限定されがちである。第二に,空間的同化のモデルと比べ,居住の諸側面に対する示唆が乏しいという問題があり,今後,居住地のセグリゲーションや空間的偏在との結びつきの諸相が解明されることが期待されている。 そこで本研究では,EE論に依拠しつつ,その分析視点を居住の領域に拡げ,社会的ネットワークの変化を検討することで,社会-空間関係の時系列的変容の一端を明らかにすることを目的としたい。 _II_ 研究対象 本研究では,在日朝鮮人の集住が特に顕著である大阪を対象地域とする。在日朝鮮人は,日本人と比較して,特に製造業において自営業者層が多いことが明らかである。実際,エスニック・ネットワークが在日朝鮮人の就業や起業に果たす役割が大きいことは既に指摘されており,EE論で扱われる典型的な事例に相当していると考える。また,彼らの居住分布について言えば,1950年代から現在まで,その分布パターンには大きな変化はなかった。ただし,絶対数の分布に大きな変化はないものの,一部の地域で在日朝鮮人比率は高まっていることは,彼らの居住モビリティが高くないことを示唆している。従って,自営業者層の比率の高さと居住地の空間的偏在の間に,何らかの関係性の存在を想定することができる点で,先述した目的に適した事例であると考える。 _III_ 調査方法 エスニック・ネットワークの時系列的な変化と就業・居住の関係,およびそれらの空間的側面を捉える上では,ライフヒストリーの中でも,とりわけ職業遍歴・居住経歴に焦点を当てた聞き取り調査が必要である。そこで,集住地区(大阪市生野区・東成区,東大阪市の一部)に長期間居住する在日朝鮮人を対象に,2006年3月から断続的にインタヴュー調査を行い,(i)職業経歴,(ii)居住経歴に関するデータを得た。 _IV_ 居住・労働に関わる社会的ネットワーク  現段階でインタヴュー調査から得られた結果について,若干触れておきたい。確かに,EE論で指摘されている通り,労働市場への参入や起業に際して,地縁・血縁に基づくネットワークが重要な役割を果たしている。また,居住地の選択にも同様のネットワークが働いていることも明らかとなった。しかし,就業・居住とも,次第に集住地区内で形成される同胞ネットワーク(co-ethnic network)に依存する傾向が強くなる。同時に,居住地の近隣で形成される日本人とのネットワークが,自営業者の労働力の確保や住居の取得の面で大きな役割を果たしていることも明らかとなった。 発表の際には,このような社会的ネットワークの変化が就業・居住の空間的側面とどのように結びついているか,および,集住地区の存続や空間的偏在の高まりにどのような影響を及ぼしているかについて,インタヴュー調査の具体的な結果を交えながら紹介することを予定している。
  • -天明三年浅間山噴火を例に-
    大浦 瑞代
    セッションID: P01
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    I.研究目的
     本研究は、災害絵図の図像や構図等から読み取れる表現意図を考察し、被害範囲の復原をおこなうものである。
     災害絵図はこれまで、災害の実態解明にあたり特定の図像や注記部分だけが参照される場合が多かった。しかしその表現は、作成者の認識を反映し、関心の強弱によって差異がある。絵図の表現を分析するためには、絵図そのものの読解が必要なのである。
    II.災害絵図の特徴
     対象とした災害絵図は、天明三年(1783)浅間山噴火に関するものである。現時点において判明するだけでも、200点以上の絵図類が存在している。その多くは関連文書等が不明で、作成経緯が定かでない。
     描かれる内容は主に、噴火の様子、降下火砕物による被害、土砂流動に端を発する泥流による被害、である。表現に差はあれ複数の内容を同一画面中に描くものが多く、泥流被害は4分の3以上の絵図にみられる。描かれる範囲は絵図により異なるが、本研究ではミクロスケールの絵図に着目した。これは、現地比定可能な図像が多く、被害範囲を復原できるからである。
     対象地は同じ被害範囲を描く2点の絵図が現存する、中之条町と岩井村とした。2点を相互比較することで、それぞれの絵図に特徴的な表現を見出せるためである。
    III.被害範囲の表現
     絵図では泥流被害範囲が、灰色や薄墨色の着色で示される。被害範囲境界は曲線で表され、その形状は2点とも概ね一致している。2点のうち1点は着色部分を別紙にし、重ね合わせによって被害前後の2場面を表す工夫が施されている。個別的図像は大半が寺社で、被害範囲境界に近接しながらも被害を免れている。
    IV.被害範囲の復原
     絵図の個別的図像を現地比定し、着色された被害範囲に基づいて復原図を作成した。
     ベースマップには、ArcGIS(Ver.9.1)を用いて幾何補正した過去の地理データを使用した。参照できる地形データは天明三年当時のものではなく、土砂流失や鉄道・道路の敷設、圃場整備等によって変化したものである。そのため、遡及的にデータを重ね合わせた。
     すると、現地調査で得た情報は被害から90年を経た地引絵図の情報と整合し、絵図の情報に結びつけることができた。そして、今回対象とした絵図に示された泥流被害範囲は、微地形と対応していることが明らかになった。記録史料を元に水理学的考察をおこなったものと比較すると、今回の復原図のほうが被害範囲は狭い。湾曲部の左岸と右岸で泥流の及んだ標高に差があるのは、攻撃斜面と滑走斜面で異なる水勢の影響と考えられる。
     このように、被害範囲を詳細に把握し被害を免れた寺社を描く絵図の作成には、在地の者が関与したと考えられる。現地においてミクロスケールで認識された泥流被害だからこそ、Real Worldに復原可能な絵図が描かれたのである。その一方で、災害絵図の中にはマクロスケールで複数内容を描くものや、現地比定の困難なものがある。Imagined Worldを描く絵図は、読解によってはじめて作成者の認識にそった考察が可能となるのである。
  • -東広島市福富町竹仁地区の事例から-
    岡橋 秀典
    セッションID: P03
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    1. はじめに  日本の中山間地域は、高度経済成長期を経て公共事業や分工場に依存する外部依存性の高い周辺型経済を形成してきた。それが曲がりなりにも1970~80年代に地域経済を支え、地域を存続させる役割を果たしたことは否定できない。しかし、今日、急速に進むグローバル化、構造改革の波は、そうした経済にも根本的転換を迫っている。また、現代日本における知識経済化の急速な進展はこうした転換を促す大きなベクトルを醸成している。それゆえ、こうした認識にもとづき、わが国の中山間地域における新たな経済社会システムを展望することが求められている。  本報告では、上記課題に応えるための第1歩として、広島県内の農村ツーリズムの1事例を取り上げる。対象地域は、東広島市福富町竹仁地区である(福富町は2005年2月に東広島市へ編入合併した)。 2. 「こだわりの郷」の成立と展開  この地区には、釣り堀と飲食店などの複合施設をはじめ、天然酵母のパン屋、酪農家によるジェラート店やレストラン、いくつかのブティック、その他の飲食店など、多様な業態の店舗が分散的に立地している。これらの飲食店、ブティックなどは90年代になって徐々に集まってきたが、「こだわりの郷」という名称の下でネットワーク化されることで、地域外に広く認知されるようになった。その活動は90年代中頃から始まり、正式にグループが発足したのは99年である。この組織の成立の経緯は、立地店舗の中の1経営者が「こだわりの郷」のネーミングを考案し結成を呼びかけたのが発端で、行政はその形成のプロセス、運営にも一切関与していない。現在は13業者が加入しているが、活動は共通パンフレットの作成やスタンプラリーを行う程度であり、ゆるい結合の組織である。  地域振興という点で重要なのは、分散的にこの地区に立地していたに過ぎなかった店舗群が、一つの名称を与えられることで、特徴ある地域集積として広く認知されるようになったことであろう。ネットワーク化と地域ブランド化が、タイミングよくなされた事例と言える。 3. 物産館の設置とその役割  この地区の地域振興に新たな展開をもたらしたのは、福富町(当時)による2002年の物産館設置である。「こだわりの郷」の集客力に注目した町が、国の補助事業によって、農産物等の加工と販売を行う休憩施設を地区中央の道路沿いに設置した。この物産館には地元の9グループ約140人が参加し、野菜の直売に加え、エゴマ油、豆腐、味噌、餅、パンなどの多彩な手作り物産の製造販売を行い、また小規模ながら食事の提供も行っている。  このような活発な活動が功を奏し、来客数は初年度の5万人弱が年々増えて2005年度には8万人に達した。販売金額も順調に伸びている。  この物産館は、この地区での行政による観光関係事業としては最初のものであったが、自然発生的な地域づくりの動きを的確に捉えて有効な施策を実施し、インフラ面、社会面、経済面など多方面で成果をあげていることが特筆できる。 4. 来訪者の特性と行動  まず来訪者の特性をみる。回答者は性別では男と女、ほぼ同数であるが、年齢層では50歳台と60歳台が多く、両者で全体の60_%_以上を占める。居住地は、東広島市が1位で40_%_強、2位が広島市で30_%_弱を占め、これら2市で全体の70_%_に達する。  回答者の半数は10回以上この地区を訪問している。このようなリピーターが来訪者の半分を占めるということは、根強いファンが存在することをうかがわせる。また、同伴者は、夫婦だけで50_%_弱に達するが、これに夫婦プラス子供同伴の20_%_弱を合わせると、夫婦を中心とする形態が70_%_にも達する。夫婦を中心とした来訪が基本パターンであり、それには居住地による地域差もほとんどみられない。  この地区への訪問目的で最も多いのが、約40_%_を占める物産購入であり、食事が30_%_でこれに続く。他方、この地区の魅力として強く意識されているのは自然や田園景観である。このため、この地区のツーリズムは魅力的な自然や田園景観というベースの上に、食事や物産の提供が行われることで成立していることがわかる。しかし、地区内での訪問先は3箇所程度であり、しかも大部分は自動車利用であるため滞在時間が短いのが問題と言える。 5. おわりに  以上検討した事例からは、知識経済化時代の中山間地域の地域振興に求められるいくつかの要素が見出せる。列挙すれば、行政への依存度の少なさと住民の自主性、ネットワーク型の組織、地域ブランド、新旧住民双方の関与と交流、来訪者とのコミュニケーション重視の販売形態、健康に代表される生活文化領域での提案、自然環境や景観の重視などである。
  • 農業集落カードを活用して
    森本 健弘, 村山 祐司, 山下 亜紀郎, 藤田 和史, 渡邉 敬逸
    セッションID: P04
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/03/01
    会議録・要旨集 フリー
    環境と人間活動の関係について地理情報システム(GIS)を用いた研究が盛んになってきた。GISの普及と地域情報のデジタル化により,両者の関係を大量のデータで広範囲に検証可能になってきたためである。
     筆者らはこうした試みの一つとして,農業集落カードを用いて環境と農業の関係を検討してきた。農業集落カードはこれまでも地図化によく用いられているものの,近年,統計のデジタルデータ化と,農業集落境界データの汎用的形式デジタルデータでの公表が揃ったことで,GISとの親和性が大きく改善され,以前よりも相当広範囲の分布を検討できるようになった。
    本研究では農耕活動と環境の関係,およびその変化を取り扱う。具体的には耕作放棄地の分布と自然・人文環境との関係を検討する。とくに耕作放棄地率の分布パターン,および分布と環境指標の関係が,近年,耕作放棄地が急増する過程でどのように変わってきたかに焦点をあてたい。
     使用した属性データは「2000年農業集落カード」(以下では農業集落カードと記す),地図データは「2000年農業集落地図データ」(以下では農業集落地図と記す)である。前者は農林水産省が実施した2000年世界農林業センサス農家調査および農業集落調査の成果が農業集落を単位として集計されCD-R等のメディアで販売されているものであり,1970年以降の農業センサス各年次のデータも一部ではあるが掲載されている。後者は農業集落境界のシェープファイルがCD-Rで販売されているものである。両者により,2000年時点の農業集落にもとづくものではあるが,1970年以降5年ごとの地図を描くことができる。
     研究手順としては,まず関東地方1都6県をとりあげ,農業集落カードから合計18,885の農業集落について耕作放棄地率,および集落中心地の標高等の環境指標をCSV形式で抽出した。ただし耕作放棄地率のデータは調査の始まった1975年以降5年ごとの値に限られた。環境指標は2000年時点のデータしか掲載されていないため,1995年以前についてもこれで代用した。なお2000年に農業集落調査が行われなかった461の集落では集落の環境指標は不明であった。
     次に各年時の耕作放棄率を地図化して分布のパターンおよびその変化を把握し,その背景,環境指標との関連を考察した。並行して耕作放棄地率と環境指標の対応を検討した。また,GISの特性を活かし,耕作放棄地率と東京都心からの距離の関係の空間的分析を行った。 JR東京駅を中心として幅20_km_ずつの9個のリングすなわち等距離帯を,多重バッファ機能によって生成し,各農業集落がどの等距離帯に位置するかを求めた。そして,このデータと耕作放棄地率の対応を検討した。
     1975年には耕作放棄地率5_%_を超える農業集落は少なく,おもに東京・横浜大都市圏に相当する市街地の近傍と,関東地方の山間部にみられた。中間の平野部には5_%_以下の農業集落が広い範囲を占めていた。1990年までには前述の市街地近傍で高率の集落がより外側に展開し,関東地方周辺部において高率の場所が著しく拡大して耕作放棄地率の値が上昇した。中間の平野部にも一部にやや高率の集落が現れた。2000年にはほぼ全域において耕作放棄地率が明らかに上昇し,丘陵地・山間部の大部分に高率の場所が広がった。また,大都市から離れた平野部でも多くの場所で高率の集落がみられるようになった。
    この間には,環境指標と耕作放棄地率の対応にも変化がみられた。標高帯との関係をみると,平均的には標高上昇にともなって耕作放棄地率が増大する傾向が強まった。東京都心からの距離帯との関係では,平均的には距離増加にともなって耕作放棄地率が増大する傾向が強まった.
     以上の事実が示唆するのは,この間に,環境条件の恵まれなさが農業に強く影響するように,環境と農業の関係が変化したことである.その背景にあるのは,そうした地域で農業の基幹的部門となることの多かった養蚕,工芸農作物栽培(葉タバコ,コンニャクイモ),小規模な稲作,林産物(キノコ等)の衰退であろう.それらの部門は,80年代から90年代にかけてさまざまな政策的支持が縮小されたため,とくに条件に恵まれない地域において,国際的な価格競争等によって縮小の一途をたどった.環境条件を緩和する政策支持が縮小した結果,環境条件がより直接的に農業に影響を与えるようになったと考えることができる.
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