本稿の目的は、二條城行幸時の饗応献立記録のある新史料を紹介し、寛永時代の京都における南蛮菓子の受容の一端を明らかにすることである。
新史料に記されている献立は、饗応を受ける対象者別になっており、人数が明記されていることに特色がある。「あるへいとう」は最低1,803名分、「かすてら」は最低1,367名分が用意されたと考えられた。
特に京都の多数の公家と地下役人へ振る舞われたことは、京都の人々に「あるへいとう」や「かすてら」を知らせるきっかけになったのではないかと思量する。また、全国から参集した国大名や諸大名へも振る舞われた可能性もあり、南蛮菓子が地方へ伝播するのに一役買ったのではないかとも考えられた。
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