大阪歴史博物館研究紀要
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選択された号の論文の10件中1~10を表示しています
  • 内藤 直子
    2024 年 22 巻 p. 0001-0024
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/05/20
    研究報告書・技術報告書 フリー
     装剣金工の後藤家は室町時代から幕末に及ぶ刀装具界の中心的門流であり関心も高いが、その分家である京後藤家の研究は進んでいない。一方で江戸時代初期の京都における文化活動の記録には京後藤家の人物名が散見される。本論では、同地の文化的営為に彼らが一定の役割を果たしていたとの仮定に基づき、その実態を明らかにするため、京後藤家の中で最も顕著な活動を見せていた勘兵衛家の祖・後藤覚乗(一五八九~一六五六)に着目して論を進める。京後藤家の諸家において勘兵衛家が中心的存在であったこと、覚乗とその周辺人物が、前田利常、後水尾天皇、小堀遠州、鳳林承章といった公武にわたる広範な人物と交遊があったことなどを史料や作品から明らかにするとともに、その背景に彼らの京都志向と法華信仰を見据え、全体像解明の第一歩とする。
  • 寺井 誠
    2024 年 22 巻 p. 1-20
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/05/20
    研究報告書・技術報告書 フリー
    本稿は、日本列島の弥生時代後期から飛鳥時代初頭における、在来土器に施された格子文タタキの検討を通じて、朝鮮半島に由来する新文化要素がどのように受容されたか明らかにすることを目的とした。26遺跡での出土事例を検討した結果、弥生時代後期~終末期の格子文タタキの中の一部は朝鮮半島との関連性に確証は持てなかったものの、多くは在来の平行文タタキが格子文に置換したと考えられるものであった。古墳時代前期以降については、前代と同様置換したと思われるものがある一方で、朝鮮半島の製作技法の中で格子文タタキが使われているものもあった。ただし、格子文タタキの採用はごく一部であり、格子文タタキが各地の土器製作技法に影響を与えたり、定着したりすることはなかった。このことから朝鮮半島から到来する数々の新しい文化要素は、取捨選択して受容され、その中には採用されなかったものがあることをあらためて確認することができた。
  • 両者の寸法的な関係性をめぐる一試論
    李 陽浩
    2024 年 22 巻 p. 21-34
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/05/20
    研究報告書・技術報告書 フリー
    本稿は、古代寺院金堂の造営において堂内に安置された本尊の大きさ(幅)が柱間計画に影響を及ぼしたとする指摘(以下、「本尊による柱間寸法決定説」とする)に対して、文献史料にみえる本尊造立と建物造営の工程的な前後関係から、そのような寸法的な影響関係が条件的(論理的)に成立しうるかどうかを検討したものである。結論は以下の通りである。  (1)本尊造立と建物造営における工程的な前後関係は「建物造営→本尊造立」という順序が一般的と考えられる。また、本尊造立が建物造営に大きく遅れる場合も認められる。ここから両者に寸法的な影響関係があったのなら、金堂の柱間寸法が本尊の大きさ(幅)に影響を与えた可能性が考えられる。  (2)工程的な前後関係が「本尊造立→建物造営」の場合でも、本尊の幅と柱間寸法との間に明確な対応関係は見出し難いといえる。それらの造立・造営過程では相互を(寸法的に)参照せずに、別々に工事が進められた可能性が指摘できる。  (3)以上から「本尊による柱間寸法決定説」は条件的(論理的)に成立が困難であることが指摘できる。               
  • 摂津国遠里小野村を例に
    島﨑 未央
    2024 年 22 巻 p. 0025-0042
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/05/20
    研究報告書・技術報告書 フリー
    本稿では、菜種油・綿実油の生産と流通について、株仲間解散・再興を経た安政期以降の大坂市場と、油の生産地である摂河泉の動向を取り上げる。当該期の油市場統制については、津田秀夫が安政・慶応国訴を取り上げた成果がある。安政国訴で摂河在方絞油屋が「御用油」の負担を名目に菜種相場にかかる協定を結んだことが争点になり、町奉行所与力が村々惣代の要求を容れなかったことから、津田は油市場統制の力点が大坂資本から在方資本にシフトしていると評価した。本稿では、油の生産と流通の担い手である油問屋、在方絞油屋仲間の史料から、「御用油」が課された経緯や、油と種物の流通に与えた影響を再検討した。安政期以降の大坂を拠点とした油の流通統制政策は、株仲間解散後制御不能になった市場を背景に、限界を伴う再興令の法的枠組みの下で実施された。そのため、江戸市場と大坂市場を結びつける「御用油」(実際は江戸からの注文)が設けられ、種物取引の局面では絞油屋仲間レベルの統制がより重要度を増し、「御用油」の名目と結びついた結果、国訴を引き起こしたと結論づけた。
  • 佐藤 隆
    2024 年 22 巻 p. 35-54
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/05/20
    研究報告書・技術報告書 フリー
     本論では、難波堀江(大川)南岸における大郡、小郡、難波館といった諸施設と史料に見えるいくつかの宮殿との関係を、古地形復元の成果や上町台地の稜線上に推定される古道、特徴的な地名などを手がかりに検討した。その結果、「難波碕宮」や「山碕(宮)」といった宮殿が難波堀江南岸に所在して、大郡宮であった可能性に言及し、さらにその後、文武天皇や元正天皇が行幸し た「難波宮」、光仁天皇の段階から平安時代に入っての「難波宮」などに関しても大郡宮の後身の宮殿施設に当たる考えを示した。また、八十島祭について研究史を整理し、奈良時代にはその原型となる国見の儀礼が斎行され、上記の難波堀江南岸の「難波宮」はその祭儀のためにも機能したと考えた。大化改新に伴う難波遷都以来、上町台地北端部では東寄りの前期・後期難波宮が営まれ た平坦地と、西北端部の難波堀江南岸一帯が常に機能を分担しながら古代難波の権力空間を構成していたことが明らかとなった。
  • 北上 真生
    2024 年 22 巻 p. 0043-0058
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/05/20
    研究報告書・技術報告書 フリー
     森鼻宗次(一八四八~一九一八)は、三田藩医で適塾の門下生でもあった森鼻嘉門の子として現在の兵庫県三田市に生まれ、緒方郁蔵の独笑軒塾や日本の化学の祖とも称される川本幸民の三田英蘭塾に学んだ。大阪府医学校病院(大阪府病院)薬局長・教諭や堺県医学校長などを歴任し、近代大阪における公立病院の確立や天然痘・梅毒などの感染症予防に尽力したことで知られる。明治六年(一八七三)には『皮下注射要略』を出版し、日本ではじめて皮下注射法を紹介しているが、同年から明治十年(一八七七)にかけて膨大な英米医学書を翻訳・出版している。そして、宗次は啓蒙医学者として知られるようになるが、その背景には、三田藩の洋化主義政策の遂行や福沢諭吉の影響を受けた三田藩主・九鬼隆義による洋学への理解が大きく影響していることを指摘した。また、これまで知られていなかった宗次の履歴として、九鬼隆義が志摩三商会なる医薬品・医療機器などを扱う貿易商社を神戸に設立した際に、宗次を取扱品の購入・検品や外国人の応接などに当たらせ、また奨学支援を行ったことを紹介した。
  • 杉本 厚典
    2024 年 22 巻 p. 55-74
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/05/20
    研究報告書・技術報告書 フリー
     本稿では江戸時代大坂の『買物案内記』より、茶屋・料理屋の分布について検討した。茶屋・料理屋は17世紀後葉に遊山茶屋として登場し、17世紀末葉には遊山茶屋・新地茶屋に区分され、18世紀前葉には、堀江・道頓堀、新規開発された新地、道頓堀のいろは茶屋、郊外の茶屋の四種類によって市街地を取り囲むように分布するようになる。また料理屋の分布はこれまでの検討では市中と郊外とに区分されてきたが、18世紀後葉には市街地、市街地外縁部、郊外と三分類できることを示した。19世紀には芝居茶屋が道頓堀に密集し、仕出専門とみられる料理屋が市街地に認められた。大坂在勤の蔵役人の記録から宴会が、会場の提供、そこへの料理の仕出し、配膳担当の仲居、芸者等の分業から成り立っており、19世紀の仕出し専門とみられる料理屋が市街地に多い理由は、こういった分業が進展することで市中における宴会や物見遊山の幅広い需要にこたえるためと考えた。
  • 中野 朋子
    2024 年 22 巻 p. 0059-0070
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/05/20
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • 俵 和馬
    2024 年 22 巻 p. 75-84
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/05/20
    研究報告書・技術報告書 フリー
  • つぼ善商店 御崎正之氏に聞く(後編)
    澤井 浩一
    2024 年 22 巻 p. 85-96
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/05/20
    研究報告書・技術報告書 フリー
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