近年の単分子計測技術の向上により,1分子レベルでの生体分子の機能,特性が明らかになってきた.骨格筋・心筋中のタイチン,細胞外マトリックス中のフィブロネクチン,赤血球中のスペクトリンなどのタンパク質は力学的ストレスに抵抗する機能を有している.また,高次構造をもつ核酸・タンパク質複合体が,タンパク質を生成する過程にも機械的な力が関連している.原子間力顕微鏡(AFM),レーザーピンセット,磁気ピンセット等を用いることで,生体分子を直接引っ張る,ねじる,あるいは変形させ,分子内部の性質を探る研究が盛んになされている.分子を一定の速さで引っ張る,分子に一定の力を加える,あるいは分子の長さを一定に保つ時,分子にかかる力や,分子の2点間距離(伸び)の変化を通じ,分子の構造変化が観測される.タンパク質や核酸,あるいはそれらの結合を機械的に引っ張った場合,折り畳まれたタンパク質のほどける現象(アンフォールディング)やリガンド・レセプターと呼ばれる分子結合の解離は,ピコニュートンほどの力で起こる.このような分子構造変化がナノスケールで起こることを考慮すると,室温(体温)下において熱揺らぎの影響(〜10^<-21>[J])を受ける.すなわち,このような生体分子の破断現象は確率的であり,自由エネルギー面(曲線)上の安定/準安定状態間の遷移プロセスであるとみなすことができる.近年,自由エネルギー曲線の立場から生体分子をモデル化し,実験結果から速度論的パラメータや,自由エネルギー曲線構造に関わるパラメータを抽出する方法が提案された.この方法は,従来の方法では抽出することのできない,タンパク質のアンフォールディングや,リガンド・レセプター結合の解離に必要な自由エネルギーを見積もることができる.また,抽出された遷移状態の位置から,実際の生体分子の安定構造を特徴付ける分子内結合部位(楔石にあたる部分)を特定することができる.さらにこの方法は,多くの実験結果を再現性よく説明できる.本稿の目的は,自由エネルギー面(曲線)描像に基づく方法の理論的背景に目を向けることである.分子を引き延ばす実験を解釈するにあたり,多くの場合,生体分子の伸びを"よい
反応座標
"と見なし自由エネルギー曲線が描かれる.
反応座標
は,反応(分子破断)の進行度を表す座標である.直感的には,折り畳まれている生体分子はコンパクトな構造をとり,アンフォールドしている場合は空間的に広がっているであろうから,分子の伸びは分子の破断を特徴付けると言えるのかもしれない.しかし,分子の伸びはいつでもよい
反応座標
なのだろうか?そもそも,よい
反応座標
とはどういうことであろうか?また,分子の伸びがよい
反応座標
でない場合,力を伸びの方向に負荷すると何が起こるのであろうか?本稿では,分子の伸びが,よい
反応座標
ではない帰結として起こりうる1つのシナリオについて焦点を当てる.また,このシナリオを示唆する実験結果をいくつか紹介する.このような実験結果に対する従来の解釈と,我々の解釈にどのような違いがあるかについても述べる.
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