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クエリ検索: "小野正嗣"
40件中 1-20の結果を表示しています
  • 油布 佐和子
    学校教育研究
    2018年 33 巻 19-
    発行日: 2018年
    公開日: 2023/04/18
    ジャーナル オープンアクセス
     教員養成が大きく変わろうとしている。  まず,教員養成を中心的に担ってきた国立大学が改革の波に曝されており,その中で教育学部は草刈り場的状況に陥りつつある。今後,大学の統廃合や教職大学院を核にした生き残り策,あるいは,私立大学をも巻き込んだ改革が進むことが予測され,開放制教員養成について,改革が二転三転することは間違いない。第二に,教職課程認定行政等でのシラバス指導に見るように,教職課程コアカリキュラムのような〈外在的に〉作成されたスタンダードが,教員養成・教師教育の領域に影響を及ぼしつつある。スタンダードの導入が教師の質を保障するのか,あるいはチェックリスト化して画一的かつ教条的な教員養成が進むのか目がはなせない。第三に,〈理論と実践の往還〉を謳って登場した教職大学院が開設10年を経て,現職教員の〈研修の場〉へと姿を変えつつある。大学が現職教員の成長の場として新たな機会を提供できるのか,あるいは行政と一体化した教員研修の下請け的な役割を果たすようになるのか,大きな分岐点にある。同時に,このような改革の枠内でしか教員養成の生き残りはないと,嬉々として,あるいは不承不承にこうした政策を追認する大学人も少なくはない。このいずれをとっても,教員養成が重大な転換点にあることの証左である。
  • 加藤 めぐみ
    ヴァージニア・ウルフ研究
    2021年 38 巻 148-151
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/11/25
    ジャーナル フリー
  • 木下 ひさし
    全国大学国語教育学会・公開講座ブックレット
    2018年 9 巻 11-18
    発行日: 2018/03/31
    公開日: 2023/04/21
    解説誌・一般情報誌 フリー
  • 優生思想の本質を再考し、新たな視点から
    二宮雅人
    社会臨床雑誌
    2019年 27 巻 1 号 37-
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/01/07
    ジャーナル オープンアクセス
  • ミャンマー映画の再生
    長田 紀之
    地域研究
    2013年 13 巻 2 号 329-335
    発行日: 2013年
    公開日: 2020/10/28
    ジャーナル フリー
  • 医療費増加の責めを高齢者に帰する言説の分析
    花岡 龍毅
    科学技術社会論研究
    2019年 17 巻 68-78
    発行日: 2019/04/20
    公開日: 2020/04/20
    ジャーナル フリー

     医療費が増加するのは高齢者が増えるからであるという一般に流布している見解が誤りであることは,医療経済学においては,ごく初歩的な常識である.本稿の課題は,こうした誤った認識の根底にある思想を「高齢者差別主義」と捉えた上で,こうした一種の「生物学主義」が浸透している社会の特質を,フーコーの「生政治」の思想を援用しながら検討することである.

     生権力は,もともと一体であるはずの集団を,人種などの生物学的指標によって分断する.年齢などの指標によって高齢者と若年者とに分断する「高齢者差別主義」もまた生権力の機能であるとするならば,そして,もしこうした仮説が正しいなら,フーコーの指摘は現代の日本社会にも当てはまる可能性がある.フーコーが私たちに教えてくれているのは,生権力のテクノロジーである生政治が浸透している社会は,最悪の場合には自滅にまでいたりうる不安定なものであるということである.

  • ―後期フーコーによる統治性論の射程―
    高尾 将幸
    スポーツ社会学研究
    2010年 18 巻 1 号 71-82
    発行日: 2010/03/20
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー

     1990年代後半以降、日本における健康増進政策は、「生活習慣」の改善による疾病の「一次予防」を重視するそれへと大きくシフトしてきた。そして、改正を向かえた介護保険制度も、「予防重視型システムの確立」を明確に打ち出し、筋力トレーニングを含む「運動器の機能向上サービス」を介護費削減の目玉の一つに掲げた。
     本稿では、こうした政策的動向に対しミシェル・フーコーによる「統治性論」の視角を援用することで、今日の私たちの身体と健康がどのような政治のただ中にあるのかを分析した。従来のスポーツ社会学領域において、身体の政治学をめぐるフーコーの「規律権力論」は大きな影響を及ぼしてきた。そこで主流をなしたのは、身体とその表象が既存の規範的な社会関係を維持するという枠組みであった。しかし、統治性論へのフーコーの展開は、集合的な身体である人口をめぐる安全性のメカニズムと、個別的身体への規律的介入との接点が、「正常性」の導出と「規範」の変化・生成に関わっているという新たな論点を含意するものであった。
     この視角を援用することで、本稿では高齢者の身体活動施策を事例に、保険制度への保健事業の組み込みを分析した。そして、保険者機能の強化の一環とされた身体活動を含む予防的保健事業が、保険者の財政的ガバナンスを維持するツールとして、さらに財の負担と配分の公平性を担保する指標として機能している点を明らかにした。
     私たちの健康をめぐるリスクと責任は、リスク・テクノロジーによる統計的数値が先行することで、個人だけではなく、健康保険組合や自治体といった組織的取り組みを介して解決されるべきものになりつつある。だが、果たして現在進んでいる保険制度下での予防的保健活動は、それに携わる専門職やサービスを受ける人びとが望む健康や福祉のあり方に資するものなのだろうか。最後に、この点について実証的に問い直していく作業を今後の課題として提示した。

  • 松島 綾
    日本コミュニケーション研究
    2019年 47 巻 2 号 67-86
    発行日: 2019/05/31
    公開日: 2019/06/03
    ジャーナル フリー

    This essay extends Barbara Biesecker’s rhetorical concept of “lines of intelligibility” as a point of inquiry by revisiting Michel Foucault’s analysis of the institutionalization of madness during the Classical period of the mid-17th century to 18th century. The essay attempts to locate the ways in which lines of intelligibility constitute our perception by forming a grid of representation and recognition. The essay first attends to Foucault’s “The Great Confinement” in History of Madness, and critically demonstrates the ways in which the representations of madness interpellated the perception of madness as misery. It argues that this shift in the system of recognition constituted new meanings of madness that ultimately determined the experience of madness itself. The essay then interrogates how the lines drawn between madness and reason operate. With a critical reading of the Cartesian skepticism discussed by Foucault at the beginning of the chapter, the essay depicts madness as an idea that emerged through delineating the limits of reason. Also, by illustrating the ways in which reason appropriates unreason as its exterior, it argues that power for Foucault holds productive dimensions. Finally, the essay reattends to “The Great Confinement” and attempts to clarify the power of lines that constitute the categories of reason and unreason by forming a grid of making sense. By visualizing a particular arrangement of lines that constituted a particular experience of madness, the essay hopes to reveal the rhetoric of “lines of intelligibility” that regulates what can be represented and perceived within a particular system of recognition.

  • ──憲法学の観点から
    江藤 祥平
    学術の動向
    2022年 27 巻 3 号 3_18-3_24
    発行日: 2022/03/01
    公開日: 2022/07/25
    ジャーナル フリー

     このコロナ禍では数多くの憲法問題が生じたが、殆ど主題化されてこなかった問いがある。それが身体の自由をめぐる問いである。外出自粛であれワクチン接種であれ、公衆衛生対策の多くは身体に向けられたものであることを考えると、これは不思議である。その原因の一つは、憲法学が主権的権力に目を向け過ぎるあまり、着々と進行する人口の生政治に十分な注意を払ってこなかったことにある。生政治は、人口というマスの身体に働きかけるため、個人の身体に対する作用は間接的であり捉えづらい。しかし、間接的とはいえ自律に及ぼす影響は絶大である。このことは要請ベースを主とする「日本モデル」の問題点につながる。日本の感染症対策は強制力を用いることを極力控えてきたが、それは国民を個人として尊重するどころか、かえって安全を脅かす個人を強力に排除するメカニズムとして機能してきた。その排除の自覚がないままに、国民が統治されやすい個人と化していることが、憲法上の一番の課題である。

  • 石塚 正英
    頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要
    2022年 7 巻 6 号 1-20
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/07/06
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
  • ―現代社会の統治を検討するモデルとしてのミシェル・フーコーの安全概念―
    中村 健太
    社会学評論
    2022年 73 巻 2 号 103-118
    発行日: 2022年
    公開日: 2023/09/30
    ジャーナル フリー

    現代社会はグローバル化や価値観の多様化により,さまざまな人と出会う可能性があると同時に,いつ問題が起こるかわからない不確実性も抱えている.こうした社会の統治を捉えるために有効なのが,ミシェル・フーコーの安全メカニズムである.しかし安全メカニズムに言及した研究は,安全メカニズムが,個体群という統治対象を,正常値とよばれる値にもとづいて統治しているという視点を見落としている.そこで本稿は,現代社会の統治をめぐる新たな視座の構築を目的として,フーコーの安全メカニズムを分析した.

    分析の結果,以下の特徴が明らかになった.第1に,空間を開放し,自由な流通を促進することで,市場経済を活発化させる.第2に,それに伴うさまざまな危険の発生をあらかじめ阻止しようとはしない.第3に,人間をヒトという生物種として捉え,その集まりを指す個体群を,正常値にもとづいて統治する.

    また安全メカニズムは,フーコーが自由主義的統治性とよぶ統治メカニズムとも深く関わっている.本稿ではこの観点からも安全メカニズムを分析することで,安全メカニズムが,規律などの他のメカニズムを利用して社会を統治していることを示した.そして安全メカニズムは,自由に伴う不確実性を前提とする統治メカニズムとして提示可能であり,価値観が多様化し,活発な流通が行われている現代社会を捉えるための視座を有することを明らかにした.

  • ――マリアンネ・ヴェーバーの〈自然〉概念批判に関する一考察――
    内藤 葉子
    ジェンダー史学
    2021年 17 巻 35-48
    発行日: 2021/10/20
    公開日: 2022/10/14
    ジャーナル フリー

    20 世紀転換期頃はいわゆる第一波フェミニズムの興隆期にあたり、世界的に女性運動の台頭をみる時期である。ドイツにおいては市民女性運動の中核組織であるドイツ女性団体連合(Bund Deutscher Frauenvereine, 以下BDF と表記)が多くの女性組織を統括し、民法典闘争などフェミニスト・プログラムを組織的に展開した。また売買春制度、結婚制度と二重道徳、性病、未婚の母と婚外子、そして刑法218 条堕胎罪規定など、性をめぐる諸問題にも関与した。マリアンネ・ヴェーフラウエンフラーゲバー(Marianne Weber, 1870-1954)もBDF 幹部の一人として、当時の女性問題に理論面と実践面において関わった。本稿は、帝政期ドイツにおいて性をめぐる自然科学的言説と女性の主体性に関する議論が交差するなかで、「母性保護連盟(Bund für Mutterschutz, 以下BfM と表記)」に集った人びとの言説、およびそれを批判的にみていたヴェーバーの思想を〈自然〉概念を中心に検討することで、彼女が女性の主体性をどのように構想したのかを明らかにするものである。

    ドイツ市民女性運動は穏健派と急進派に分けられる。両派の分離線は論争の対象によって変化するが、女性のセクシュアリティの捉え方では対立する傾向にあった。その点を際立たせたのは、H・シュテッカーら急進派のフェミニストが設立した性改革運動の一つ、BfM によって唱えられた「新しい倫理(Neue Ethik)」である。それは市民的結婚観と結婚制度を批判し、女性の性欲と自由恋愛を主張するものであった。これは教養市民層の文化的価値体系と規範体系をあらためて問題化する契機となった(Gilcher-Holtey 2004, 55)。先行研究によると、穏健派は「新しい倫理」を個人主義の行きすぎとして捉え1 、急進派はそれを女性の自己決定権から肯定した。この観点からとくにシュテッカーらは堕胎罪の完全削除要求まで唱えるにいたる(Gerhard 1995, 269; 若尾1996、373 頁以下; 水戸部 2000)。

    BfM には優生学(人種衛生学)、性科学、生物学、遺伝学、人類学、新マルサス主義などの影響が指摘される2 。この特徴はBfM に関与した男性科学者の利害関心に導かれたものとみる向きもあるが(Gerhard 1995, 271)、BfM のフェミニストたちもまた優生学の言説を積極的に受容し、母性と生殖を中心に女性の主体性を論じたため、この組織は「フェミニズムと優生学のきわめて独創的な統合を発展させた」とも評される(Allen 2005, 91)。またその関係のなかで、産業労働における女性保護問題と女性の自己決定権に結びついていた母性保険構想が、「権力政治的で人種衛生学的な人口管理の道具」へと変化したとも論じられる(Herlitzius 1995, 201)。BfM のフェミニストたちの優生学に対する距離については評価が分かれる。一方では、女性の自己決定権の観点から、国家の人口政策と生殖への警察国家的介入主義を批判することで優生学的思考とは一線を画した点が強調される(Herlitzius 1995, 337-339; Gerhard 1995, 271-273 ; 水戸部2000、53-54 頁)。他方では、彼女たちは国家権力に対しては抵抗したが、優生学という「生権力」には加担し動員されたと評される。「低価値者」を生み出さないことが自己決定権に内包されるならば、「留保なき個人主義」は優生学の前では「無力」であり、国家権力対個人の権利という二項対立では優生学の権力は捉えられないとする見方である(市野川 1996)3

    対して、「優生学的―ダーウィン主義的立場」は市民女性運動においては総体としては基盤を持たなかったとも指摘される。とくに穏健派はこうした科学的知とは距離を置く傾向があった(Meurer 2010, 364; Dickinson 2014, 112-113; Greven-Aschoff 1981, 103-104)。この傾向は穏健派が女性の主体性を自然科学的知によって補強しなかったことを意味するが、それはその知に対して無関心だったということなのか。本稿では、穏健派に属するマリアンネ・ヴェーバーが自然科学的知に対して無関心であったのではなく、むしろ強い懸念を抱く形で関心を寄せたことに注目する。彼女は「新しい倫理」を批判し結婚制度を擁護した。その理由については、「「性的解放」の要請」を市民的文化の理想と結びついた対等なパートナー関係の理念に包括させたため(Gilcher-Holtey 2004, 54-55)、あるいは大半の人間は国家制度による支えなしには自らの運命を形づくる能力を持たないと いう「人間の本質への疑念」や、家族形式の変革が「社会的・国家的秩序の解体を伴いうるという恐れ」を抱いたためと説明されてきた(Greven-Aschoff 1981, 68)。しかしヴェーバーが「新しい倫理」を批判した背景には、自然科学的言説に対する強い警戒があったことは十分に検討されてこなかった4

    本稿は、彼女の批判が当時の自然科学的言説に内在する問題性への批判と関連していること、またその批判の立脚点は穏健派の市民的価値観だけにあったのではなく、新カント派哲学やドイツ観念論哲学にもあったことを強調する。さらにこの点は、夫であるマックス・ヴェーバーを中心としたドイツ社会学創成期における科学の客観性をめぐる論争に接していることも指摘する。

    以上により、まずは自然科学的言説とその影響を受けたフェミニスト的視点が交錯する現場であったBfM に注目し、性という〈自然〉の肯定や生殖という〈自然〉への介入をめぐる議論について分析する(Ⅰ、Ⅱ)。そのうえでマリアンネ・ヴェーバーが「新しい倫理」と自然科学的言説に現れる〈自然〉を警戒し、〈自然〉と〈倫理〉を峻別する立場からそれらを批判したことを論じる(Ⅲ、Ⅳ)。この検討を通じて、彼女が自然科学的言説に抗するなかで女性の主体性を確立しようとしたことを明らかにする。

  • 山口 達男
    社会情報学
    2019年 7 巻 2 号 17-32
    発行日: 2019/03/31
    公開日: 2019/05/01
    ジャーナル フリー

    本稿は,現代社会において危惧されている「監視社会化」の進展によって,どのような〈主体〉としてわれわれが形成されているかを明らかにする試みである。その際,Foucaultが監視を,「権力(生権力)」がわれわれを「主体化=従属化」するための戦略・技術として措定したことを分析の手がかりとして用いた。

    その上でまず,現在の監視は「一望監視」から「データ監視」,そして誰もが監視し,監視される〈衆人監視〉へと移行していることを指摘した。そして,その移行に伴い,われわれの〈主体〉もまた変容していることを述べた。つまり,〈規律訓練型主体〉から“リスク予防型主体”,さらには〈自己配慮型主体〉への変容である。すなわち,〈衆人監視〉という現在の監視状況において,われわれは〈自己配慮型主体〉として形成されているのである。

    ここでいう「自己配慮」とは,ビッグデータから自生した「規準」に沿って,自らの〈人物像〉を「制御」することを意味している。しかもそれは,Foucault謂うところの「自己への配慮」とは異なり,データ的な“自己”との関係において営まれるものである。この営為が,「誰でもない誰か」との〈衆人監視〉から要請されている点は,現代社会特有の問題と言い得る。したがって,こうした視点から現在の監視社会化を考察しなければならない。

  • 綾井 桜子
    教育学研究
    2015年 82 巻 1 号 65-72
    発行日: 2015年
    公開日: 2016/05/19
    ジャーナル フリー
  • 藤田 公二郎
    哲学
    2014年 2014 巻 65 号 272-285_L19
    発行日: 2014/04/01
    公開日: 2016/06/30
    ジャーナル フリー
    Lʼobjectif de cet article est de mettre théoriquement en lumière la conception du pouvoir chez Michel Foucault. Comme on le sait, celui-ci a procédé à des analyses originales du pouvoir dans divers domaines à commencer par lʼhôpital psychiatrique,la prison ou la sexualité. Dans le présent article, en nous interrogeant sur lʼhorizon théorique implicitement présupposé par ces analyses du pouvoir, nous voulons élucider théoriquement la conception foucaldienne du pouvoir.
    Foucault a posé sa propre conception du pouvoir en opposition avec la conception traditionnelle du pouvoir. Ainsi, nous voulons examiner dʼabord la dernière et ensuite la première. Selon notre philosophe, dans la conception traditionnelle du pouvoir, celuici a été considéré généralement comme droit: il sʼagit de ce quʼon appellerait le modèle du droit sur le pouvoir. Là, dʼabord, seraient donnés quatre éléments fondamentaux, à savoir le Sujet, le Souverain, la Loi et lʼEtat, qui ensuite exerceraient le pouvoir comme droit. En revanche, dans la conception foucaldienne du pouvoir, celui-ci a été considéré comme rapport de force: il sʼagit de ce quʼon appellerait le modèle du rapport de force sur le pouvoir. Là, dʼabord, le pouvoir sʼexercerait de lui-même comme rapport de force, ce qui ensuite déploierait quatre éléments concernés, à savoir le corps, le gouvernement, la technique et la tactique.
    Voici donc la conclusion : tandis que, dans le modèle du droit, les quatre éléments fondamentaux exercent le pouvoir, dans celui du rapport de force, le pouvoir déploie les quatre éléments concernés. Or, cette argumentation pourrait être mise, en réalité,en correspondance avec celle de L’archéologie du savoir. On pourrait dire, au fond,que lʼentreprise de cet article consiste, en succédant à lʼesprit de L’archéologie du savoir, à esquisser, pour ainsi dire, La généalogie du pouvoir.
  • パナマ東部先住民エンベラのブタ飼育
    近藤 宏
    文化人類学
    2020年 85 巻 3 号 416-435
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/04/07
    ジャーナル フリー

    本論では、パナマ東部に暮らす先住民エンベラによるブタ飼育のなかでも、ブタと人のみならずジャガーや吸血性のコウモリなど、複数の存在がかかわる状況の民族誌的記述を、とりわけ飼育活動の場であるブタ小屋に注目して行なう。異なる身体をもつ諸存在が織りなすその状況の記述を通して、関係性の関係という論点から複合的状況を考える視点を示すことを目的とする。その状況にはいくつかの関係性が生じ、関係項となる行為者それぞれの能力に応じたふるまいは、別の行為者の生死に結びつくこともある。これを分析的に記述するために、飼育の場に「据え置かれた関係性」を分析するドメスティケーション論と(生)権力論、それに含まれる免疫論を手掛かりにする。

    ブタ飼育に複合的状況が生じるのは、ブタ飼育の現場となるブタ小屋が、内部と外部をまたぐ往来に開かれているからである。飼い主は、ブタがある程度の食糧を自分で探し出すことをあてにし、ブタは森に赴く。こうした能力のあるブタは、飼い主の意図しない仕方で小屋の外に出ていることもある。このようにブタ小屋は、外部と内部が完全に隔てられた場所にはならず、隙間のある場所となる。この隙間は、森にいる動物にとってブタ小屋への侵入経路となり、ジャガーやコウモリなどが小屋に到来することを可能にする。その到来は、ブタ小屋の内部にいくつか異なるタイプの死の働きを生む。

    外部からの脅威に対してブタやその飼い主がとる対応を免疫論から考察することで明らかになるのは、脅威の到来の完全な制御や予防の不可能性である。これはまた、ブタ飼育における関係性の関係を考える手がかりとなる。支配のように理解されやすいブタと人の飼育という関係には、ほかの動物による関係構築によって、それが解消される可能性がつきまとうことになる。

  • インドネシアにおける廃棄物堆肥化技術をめぐって
    吉田 航太
    文化人類学
    2018年 83 巻 3 号 385-403
    発行日: 2018年
    公開日: 2019/05/12
    ジャーナル フリー

    本論文は、インドネシア東ジャワ州スラバヤ市で日本人技術者が開発した廃棄物堆肥化技術の事例を通じて、インフラ/バウンダリーオブジェクトというテクノロジーの二つのモードの差異を明らかにするものである。スーザン・L・スターのインフラストラクチャーの議論はバウンダリーオブジェクト論と連続性があり、前者は後者の発展型とされる。しかし、両者の間には解釈の対象としての象徴と、実践の対象としての道具という断絶が存在しており、インドネシアでの開発事業で 新たに誕生した生ゴミ堆肥化技術の事例の分析からこのことを明らかにする。スハルト政権崩壊後に発生した埋立処分場の反対運動をきっかけに、スラバヤ市は深刻なゴミ問題に悩まされた。これに取り組む開発プロジェクトが開始され、日本人技術者が開発したコンポスト手法がひとつのテクノロジーとして結実するに至った。このテクノロジーはスムーズに開発に成功したが、その後のインフラ化で困難に直面している。この事例から、スター的な協働のネットワークが長期の時間性に耐えなければならないという問題を抱えていること、テクノロジーが確固とした象徴的価値を獲得しなければならないことを議論する。

  • ―現代中国社会における生権力のあり方の変化―
    宋 円夢
    社会学評論
    2023年 73 巻 4 号 418-434
    発行日: 2023年
    公開日: 2024/03/31
    ジャーナル フリー

    本稿は,中国における計画出産の実施・緩和に関して,官製メディアの『人民日報』がどのような言説を構築してその正当性を確保しているか,そこからどのような「生権力」のありよう,変貌がみられるかを探求するものである.

    一人っ子政策期は,優遇措置の実施や「素質」言説の構築により,政策に服従し自発的に1人しか産まない「服従する主体」が求められていた.計画出産が緩和された初期には,新たな人口問題,人々の2人産みたいという希望,一家団欒が重要視されたことから,政策転換の必要性が広報された.それが順調に機能しなかったため,次の段階では,人々の出生意欲と出生行動のずれ,つまり,「産みたいが産まない,産めない」という状態に導いた現実的理由が重要視され,それに対応して子育て支援の施策が導入されていることを広報する,新しい戦略がとられた.

    政策転換の過程において,公共の利益から個人の実際の需要へと統治の正当性を支える説明に変化がみられた.国家による人々の身体への強制的直接的な介入と服従する主体の構築は減少し,その代わりに人々の生の声や主体性を尊重する姿勢が示されている.国家は人々の周囲の環境に介入し,「子育て支援が充実しているため,皆が喜んで産んでいる」という新たな家族規範を創出することで,個人の心・内面まで細かくケアして,喜んで自己統治をする主体の構築を試みるという,生権力のより洗練されたあり方が登場した.

  • ポストコロナ時代の政治・メディア・資本主義の連関に ついての試論
    水嶋 一憲
    年報カルチュラル・スタディーズ
    2021年 9 巻 5-23
    発行日: 2021/06/30
    公開日: 2023/07/20
    ジャーナル フリー
  • カンダハールにおけるカナダの復興支援チームを事例に
    和田 賢治
    国際政治
    2010年 2010 巻 161 号 161_41-53
    発行日: 2010/08/10
    公開日: 2012/09/09
    ジャーナル フリー
    The current operations of post-conflict reconstruction missions on the international scale increasingly focus on women by designing special projects to enhance their security while meeting their needs such as health, education and employment. This trend can be called the securitization of women. The objective of this paper is to demonstrate the ways in which the securitization of women can be relevant to the production of “bare life” in the state of exception rather than the rise of their security, drawing on the concepts of biopolitics and necropolitics. The specific focus is placed on the post-conflict conditions of Afghanistan since it contains the dual frontlines of the reconstruction support operations and the war on terrorism. Through examining the Canadian Provincial Reconstruction Team to Kandahar (KPRT) and its strategic operation of various “signature projects” in Afghanistan, this paper endeavors to address the question: how and to what extent these signature projects are designed not only to meet the needs of the local population, but also to be readily identifiable as ‘Canadian projects’ because the primary goal is to change the overall image of Canadians and their soldiers from “occupiers” to “liberators.” By doing so, this paper highlights the paradox surrounding the signature projects, that is, the more the local population becomes healthy, the more the risk of their death raises. In this vein, it is further maintained that this paradox appears on female bodies rather than male bodies. This paper thus insists that the securitization of women propelled by KPRT amounts to forcing Afghan women to be in the most fragile position among the local population.
    To this end, this paper is composed of two sections. The first section briefly discusses the concepts of biopolitics and necropolitics to illustrate how these concepts allow us to look into the dynamism of world politics by shedding light on the ways in which sovereignty is deterritorialized and local lives are globally depoliticized. It explains that international society attempts to sustain the existence by surveying, controlling, and improving the lives of the populations in “failed or failing states.” The second section more specifically examines the signature projects of KPRT that aim to improve the lives of the local population, women and children in particular. The careful examination exposes how these projects are operated to prevent the local population from supporting and/or joining armed groups. It also highlights that the projects transform the recipients into the targets of armed groups who use killing to show the incapability of international society and the Afghan government.
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