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クエリ検索: "横浜中華街"
221件中 1-20の結果を表示しています
  • 小野寺 淳
    地理学評論 Series A
    2022年 95 巻 4 号 275-276
    発行日: 2022/07/01
    公開日: 2024/03/16
    ジャーナル フリー
  • 末廣 拓登, 伊藤 弘
    ランドスケープ研究
    2020年 83 巻 5 号 685-690
    発行日: 2020/03/31
    公開日: 2020/06/09
    ジャーナル フリー

    The purpose of this study is to clarify the relationship between Chinatown and neighboring areas in terms of the development of facilities in and around Yokohama Chinatown, since the opening of Japan in 1859. Using a literature survey, we examined development projects in and around Yokohama Chinatown, focusing on “pailou (Chinese architectural arch)” and Chinese temples. As a result, we clarified that in Yokohama Chinatown, which was originally a Chinese residential area, Chinese culture is visualized in a straightforward way, through the efforts of Yokohama City and the Chinese residents. Chinatown developed in line with the trend of urban development in the surrounding area. In particular, local residents set up “pailou (Chinese architectural arch)” and then established Chinese restaurants and constructed Chinese-style buildings to accelerate the development of Yokohama Chinatown as a tourist destination. The results of this study indicate that Chinese residents in Yokohama Chinatown have used Chinese culture as a space improvement technique aimed at Japanese tourists and thus, the Chinatown in Yokohama have become a theme park as a result of their continued life in Yokohama.

  • 伊藤 泉美
    華僑華人研究
    2022年 19 巻 25-29
    発行日: 2022/11/30
    公開日: 2024/04/19
    ジャーナル フリー
  • 佐田 宏
    日本観光学会誌
    2002年 41 巻 102-106
    発行日: 2002/12/01
    公開日: 2023/04/30
    ジャーナル オープンアクセス
  • *山下 清海
    日本地理学会発表要旨集
    2020年 2020s 巻 307
    発行日: 2020年
    公開日: 2020/03/30
    会議録・要旨集 フリー

    本研究では,第二次世界大戦後,今日に至るまで,日本のオールドチャイナタウンの代表である

    横浜中華街
    が,いかに変容してきたかを明らかにするとともに,それらの変容の要因について考察することを目的とする。

  • まちづくり事業による景観形成に着目して
    齋藤 晴紀
    華南研究
    2017年 3 巻 101-138
    発行日: 2017年
    公開日: 2019/03/08
    ジャーナル オープンアクセス
  • 菅原 一孝
    日本食生活学会誌
    2007年 18 巻 2 号 172-176
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/11/07
    ジャーナル フリー
      Yokohama Chinatown is located in Yamashita District of Yokohama City, Kanagawa Prefecture. Yokohama Chinatown, one of the most popular towns, built about 150 years ago has become the largest Chinese restaurant area in Japan. All kinds of Chinese dishes are available at 250 Chinese restaurants in this town. The number of people visiting Chinatown is estimated 22 million a year. I will introduce the history and the success points in Yokohama Chinatown briefly.
  • 齋藤 譲司, 市川 康夫, 山下 清海
    地理空間
    2011年 4 巻 1 号 56-69
    発行日: 2011年
    公開日: 2018/04/11
    ジャーナル オープンアクセス
     本稿では横浜における外国人居留地と
    横浜中華街
    の変容について報告する。横浜は開港から150 年間が経過した。その歴史を鑑みると,外国人居留地の建設に始まり,関東大震災や戦災,港湾機能の強化,華人の集住による中華街の形成など地域が目まぐるしく変化してきた。本稿では横浜開港の経緯について述べた後,外国人居留地の状況と変容,外国人向けの商店施設が集積した元町,最後に居留地の中で華人が集住して形成された
    横浜中華街
    について報告する。150 年の歴史の中で横浜の景観は大きく変容し,開港当時の景観や外国人居留地の様子を窺い知ることは難しい。しかし,19 世紀に描かれた絵地図と照らし合わせることで現在の景観と比較することが可能であった。近年では,「歴史を活かしたまちづくり」や「中華街街づくり協議会」が発足し,横浜の外国人居留地は新たな段階に進んでいる。
  • 横浜中華街で生まれ育った「私」のhomenessとhomelessness
    陳 天璽
    文化人類学
    2022年 87 巻 2 号 224-242
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2023/02/16
    ジャーナル フリー

    中国黒龍江省に生まれ、満州国時代、日中戦争を経験し、国共内乱の中、台湾へ逃れ、その後、日本に移住した華僑である父は、2022年で100歳を迎えた。今年は、日中国交正常化50周年、日華(台)断交50年となるが、50年前、中華民国(台湾)の国籍を有して日本に暮らしていた我が家は、日本との戦争の記憶、中国共産党とのイデオロギーの違いから、日本国籍、中華人民共和国国籍のいずれも選ぶことができず、無国籍となった。

    横浜中華街
    で生まれ育った華僑2世である私は、30年程無国籍者として暮らしてきた。日々の生活、そして研究や教育、社会活動などを通し、無国籍者である自分の居場所やアイデンティティについて思考してきた。本稿では、国際結婚により生まれた息子がどのようなアイデンティティを築いているのか、そして息子や父そして私にとって国家・国籍はどのような意味を有しているのか、考えたい。本稿は、
    横浜中華街
    という場に即しつつ、父、私、そして息子の華僑華人3世代が葛藤してきた個人と国家の関係性を問い、homenessとhomelessnessを再考するオートエストグラフィである。

  • -横浜中華街を事例に-
    *嵇 宸
    日本地理学会発表要旨集
    2024年 2024a 巻 437
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/10/01
    会議録・要旨集 フリー

    Ⅰ はじめに

     サブ・エスニック集団は,エスニック集団の内部で国籍,言語,出身地域,社会階級,あるいは異質な社会からの集団などによって引かれる細かい境界線をに基づく概念である(Pan and Luk 2008)。関連する研究として,香港における広東語,客家語や上海語などの方言グループ間の住み分け(Lin 2002),トロント中華街におけるベトナム系華僑と広東系華僑間の競合(Pan and Luk 2008)などの研究が挙げられる。さらに,鍋倉(1997)はシンガポールの多人種主義政策を批判し,華人,インド人といった「フォーマル・エスニシティ」ではなく,広東系,福建系といった出身地や方言に基づくサブ・エスニック集団が移住者の日常生活において主要な場であり,「インフォーマル・エスニシティ」への注目が必要であると指摘している。山下(2010)は,来日時期により生じるニューカマーとオールドカマー間の衝突を示している。このように,サブ・エスニシティの研究はエスニック集団内部の多様性を理解する上で重要であり,特に華僑華人コミュニティのような多層的な社会構造を持つ集団においてが不可欠である。

     しかし,出身地や言語といった先天的要因に加え,政治傾向やその他の後天的要因も考慮することで,より包括的な理解が得られるであろう。

     そこで,本研究は

    横浜中華街
    を対象に,政治傾向によって生じているサブ・エスニシティに焦点を当てる。さらに,海外華僑華人が共通に信仰する関帝・媽祖信仰を通じて,こうした政治的なサブ・エスニシティ間の統合に注目し,横浜華僑華人コミュニティにおける政治,アイデンティティ,宗教の関係性を考察する。

    Ⅱ 

    横浜中華街
    におけるサブ・エスニシティの形成と統合

     世界の他のチャイナタウンと同様に,

    横浜中華街
    には,方言や出身地に基づく広東派や福建派などのサブ・エスニック集団が存在する。ただし,世代交代により,これらの方言や出身地に基づくサブ・エスニック集団の影響力は徐々に弱まってきた(林 2010)。代わりに,1953年の学校事件に伴い,横浜華僑コミュニティでは共産党を支持する大陸派と国民党を支持する台湾派という,政治に基づく2つのサブ・エスニック集団が生じ,こうした両派間のトラブルが1980年代まで続いた。

     1986年の第4代関帝廟の再建をきっかけに,両派は和解し,

    横浜中華街
    全体の利益のために連携してきた。両派は共に中国大陸と台湾から職人を招き,積極的に資金を集めるなど,再建に向けた行動のみならず,中立派華僑(中華会館など)を中心に関帝廟管理委員会を再結成した。また,それ以来復興した関帝誕という宗教イベントの主催は,両派のみならず,日本人を含めた中華街全体の各団体間のコミュニケーションの場を提供し,地域社会の和解と統合に貢献しており,
    横浜中華街
    を再活性化させている。

    Ⅲ 展望

     本研究はサブ・エスニシティに関する研究に新たな事例を追加し,出身地や方言といった先天的な要因だけでなく,政治などの後天的な要因への注目を示している。また,本研究は多様な団体間の交流の場としての宗教施設が果たす役割を提示し,多文化主義社会の構築において宗教施設への注目の重要性を示している。その上で,

    横浜中華街
    への愛着,華僑華人としてのアイデンティティや帰属感,関帝・媽祖信仰といった中華伝統文化と政治の関係性を考察している。

  • 陳 天璽
    華僑華人研究
    2019年 16 巻 68-72
    発行日: 2019/10/26
    公開日: 2024/04/19
    ジャーナル フリー
  • 季刊地理学
    2022年 74 巻 1 号 21-23
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/05/10
    ジャーナル フリー
  • -中華街構想の問題点と横浜中華街の実践例を通して-
    山下 清海
    地理空間
    2020年 13 巻 3 号 253-269
    発行日: 2020年
    公開日: 2021/03/16
    ジャーナル オープンアクセス
    1990年代以降,日本各地で新たな「中華街」の建設が実施され,あるいは計画段階で頓挫した例もみられた。本稿は,これら両者がモデルとした
    横浜中華街
    の成功要因の究明を通して,日本における地域活性化におけるエスニック資源の活用要件について考察した。まず,屋内型中華街として,立川中華街,台場小香港,千里中華街,および大須中華街の四つの例を取り上げ,それぞれの設立の背景や特色,閉業の経過・要因などを検討した。次に,構想段階で消滅した中華街として,仙台空中中華街,新潟中華街,札幌中華街,苫小牧中華街,福岡21世紀中華街を取り上げ,構想に至るまでの経過や問題点などを検討した。これらの検討を受けて,地域活性化におけるエスニック資源活用の成功事例として,
    横浜中華街
    の観光地としての変遷とその背景などについて考察した。以上の結果,エスニック資源を活用した地域活性化には,エスニック集団,ホスト社会,そして行政の三者の協力関係の樹立が不可欠であることが明らかになった。
  • 山下 清海
    人文地理
    1979年 31 巻 4 号 321-348
    発行日: 1979/08/28
    公開日: 2009/04/28
    ジャーナル フリー
    There are approximately 2, 000 Chinese people living in Yokohama's Chinatown, including those who are naturalized Japanese citizens. The Chinatown was estabished in a foreign settlement in Yokohama after the port was opened in 1859 (Fig. 3). An earthquake which occurred in the Kanto Province in 1923 and the war damage in 1945 destroyed the Chinatown completely. However, the Chinese settlers recovered from these disasters, and reconstructed their Chinatown quickly. The tourism for the Chinatown was being promoted rapidly around 1970, and that made the Chinatown one of the most important tourists' attractions in Yokohama.
    The aim of this thesis is to show how the Chinese people in Japan have adapted themselves to Japanese society. In order to attain this goal, I analyzed Yokohama's Chinatown, the biggest Chinatown in Japan, from economic, social, and cultural points of view.
    The Chinese settlers launched into business fields in which competition with the Japanese was not so severe. Before World War II, they were distinguished in the Santogyo: Chinese restaurant business, hair-dressing business, and tailoring business. They made the best use of their traditional skills in their professions (Fig. 6). Right after World War II, the Chinatown became a street market. Some Chinese made fortunes under the special circumstances of being a victorious nation's citizens, whereas the Japanese were defeated nation's citizens. After the Korean War, the number of bars and restaurants owned by Chinese people increased in the Chinatown. These days, however, shops which sell Chinese products, folkcrafts, and confectioneries are increasing with the development of tourism. As of 1976, there are 199 Chinese owned shops in Yokohama's Chinatown, and 95 of them are Chinese restaurants (Table 3. Fig. 7). The Chinese settlers made a great use of their cultural backgrounds by making an under commercialized ethnic town in Yokohama. This is one of the most distinctive forms of their accommodation to Japanese society.
    In the society of a Chinatown, relationships among blood relatives and people who had had the same geographical background were maintained closely, in order to help each other overcome disadvantages in a foreign society. Yokohama's Chinatown has consisted of people mostly from Canton province (Fig. 9). Although there are still various organizations of people who are from the same province or who have the same professions, the degree of their dependence on these organizations is decreasing.
    Yokohama's Chinatown was a base of Chinese immigration and dispersion to the various areas after entering Japan until World War II. Therefore, the place was then predominated by Chinese culture and its traditions. However, due to the end of new immigration after World War II and an increase of their Japanese-born offsprings their traditional culture has suffered a great change. An example is language, where Japanese is more commonly spoken than Chinese in a Chinese family. The Chinese culture and traditions are being reduced to a shell in the Chinatown, whereas the place looks more and more exotic outwardly because of tourism.
  • 福本 拓
    人文地理
    2022年 74 巻 3 号 356-357
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/10/25
    ジャーナル フリー
  • 杜 国慶
    地理学評論 Series A
    2011年 84 巻 1 号 88-89
    発行日: 2011/01/01
    公開日: 2015/01/16
    ジャーナル フリー
  • 鈴木 宏宣, 増渕 文男, 相崎 円何
    土木史研究
    2002年 22 巻 111-114
    発行日: 2002/05/15
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    神奈川県横浜市中区山下町の一街区に, 周辺街区の街路とは異なる1区画の街路だけが斜方向に区画整備された特徴をもつ. この街区は文化9年 (1812年) に入江を埋め立て新田として開発された区画であり, 治水の問題上から埋立ての際に, 隣接する新田との境界線が斜方向に傾いた. その後, 横浜港開港時に居留地として整備され都市が形成されたが, 街区は当初 (慶応2年 (1866年)) の都市計画で現在までほぼ変化していない. 山下町の街区が現在でも開港当初の面影を残しているのは, その都市計画がR. H. ブラントンによって行われたもので, 将来を見据えた優れた立案であったと考えられる.
  • 「地域文化」の再構成の視点から
    張 玉玲
    日本文化人類学会研究大会発表要旨集
    2013年 2013 巻 A20
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/05/27
    会議録・要旨集 フリー
    1980年代から横浜、神戸と長崎の日本三大中華街では、それまで沈静化していた中国の伝統文化が観光化とともに資源として次から次と発掘し、作りだされていった。本報告では、
    横浜中華街
    を例に取り上げ、中華街の発展の歴史を概観した上で、文化シンボルが選出され、資源化されていく過程を分析し、地域社会における中華街および華僑社会の位置づけに関連しながら、地域文化の再構成という視点から、中国文化の資源化問題について検討してみる。
  • 敷地規模と所有形態に着目して
    中川 貴裕, 笠原 知子, 齋藤 潮
    都市計画論文集
    2008年 43.3 巻 535-540
    発行日: 2008/10/25
    公開日: 2017/01/01
    ジャーナル フリー
    横浜旧居留地である中区山下町に位置する、
    横浜中華街
    は、その隣接地区と対照的な都市景観を形成している。建物用途と敷地規模は都市景観を特徴づける基礎的な要因であり、この2地区の差異を形成していると考えられる。そこで、本研究では、両地区の空間的差異の形成過程を明らかにする。1916年から1960年における山下町の土地台帳を用いて、土地所有や敷地分割・統合の変化を追跡した。その結果、2つの事柄が2地区の空間的差異を形成したことが明らかになった。第一に、関東大震災後の土地区画整備事業である。これによって土地の分割が進んだが、現在の中華街の外側である、山下町北部の海側で見られ、ほとんどが法人所有地や官有地となった。第二に、第二次大戦後の接収を中華街が免れたことである。これによって、中華街の辺りで土地の分割と個人所有化が進んだ一方、接収を受けた隣接地区は敷地が凍結された。これによって、空間的差異の原型が形成された。
  • 石川 洋
    史学雑誌
    1995年 104 巻 7 号 1319-1320
    発行日: 1995/07/20
    公開日: 2017/11/30
    ジャーナル フリー
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