人文地理学会大会 研究発表要旨
2009年 人文地理学会大会
選択された号の論文の71件中51~71を表示しています
第4会場
  • 加茂 浩靖
    セッションID: 406
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    業務請負業および労働者派遣業を通じて製造部門に従事する労働者の就業特性を、鹿児島市での聞き取り調査の結果に基づいて明らかにした。
  • 若松 司
    セッションID: 407
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    西成地区で実施した西成地区健康実態調査の調査結果にもとづき、住民の健康・所得・社会的交流の相関関係を報告する。
  • ―類型化によるシオニスト入植史へのアプローチ―
    今野 泰三
    セッションID: 408
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    分野と発表内容:1967年戦争においてイスラエルは、ヨルダン川西岸地区、 ガザ地帯、ゴラン高原等を新たに占領し、政治的な既成事実作りと安全保障上の要請から入植地建設を進めてきた。本発表では、占領と入植地建設を巡る国際法上の議論および、入植地建設に関するイスラエル国内での議論を踏まえた上で、入植地を巡るイスラエル国内での裁判と、イスラエル国内法の変遷に注目したい。
  • ―地域社会軍事化の一局面―
    山崎 孝史
    セッションID: 409
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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     米軍統治下の旧コザ市は嘉手納空軍基地の門前町として都市形成が進み、米軍基地と沖縄社会が融合し対立した特異な場所である。こうしたコザ市の分裂や対立は統治する米軍諸機関と統治されるコザ市民が具体的な意図をもって「行為」することで生まれてきた。したがって、コザ市の政治構造を理解するためには、これら行為する組織や人の意図や行為そのものを検討する必要がある。そこで本発表では琉球列島米国民政府the United States Civil Administration of the Ryukyu Islands(USCAR)が作成した文書を用い、1960年代の大山朝常革新市長率いるコザ市政がUSCARとの間でどのような緊張関係におかれていたか、具体的な事例についての関係者・組織の言動や意思決定の過程を通して明らかにしてみたい。
  • ―遊興地の形成に着目して―
    加藤 晴美, 双木 俊介, 花木 宏直, 山邊 菜穂子
    セッションID: 410
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    本報告の目的は,遊興地の存在に焦点を当て,軍港都市横須賀における都市形成の過程において,遊興地がいかに設置され,あるいは再編されたのか,地方名望家による地域開発という観点から明らかにすることである. 本報告で取り上げる横須賀の地域開発は,幕末期の横須賀製鉄所建設に始まった.明治期には海軍鎮守府や海軍工廠など多くの軍事施設が置かれ,軍港都市として急速に発展するとともに,港湾都市に不可欠の空間とされる遊興地も設置され,賑わいをみせた.発表者らはこれまでに横須賀に関し,海軍と結びついた地方名望家らが市街地造成などの地域開発において指導的役割を果たしたことを明らかにした(双木・藤野2009).本報告では,幕末期から明治期に設置された大瀧町・柏木田の2つの遊廓と,大正期の埋め立てによって造成された安浦地区に置かれた遊興地を事例とし,地域の有力者の一人である永島庄兵衛家との関わりに着目しつつ,その形成のプロセスを検討する. 永島庄兵衛家は,江戸期には三浦郡公郷村の名主を務め,明治期以降は土木建設業を営んだ.崖の切り崩しや海面の埋め立てによって可住地の拡大が図られた横須賀では,地元の民間資本によって地域開発が進められた.永島家は,横須賀の地域開発にも他の名望家らとともに積極的に関与し,海面の埋め立てや道路開削などに従事した.都市形成の過程において,芸娼妓が置かれた遊興地も開発された.1867(慶応3)年には,永島庄兵衛らによって外国人向け遊女屋の開設が,埋め立てによって開発された新開地に設置された.1868(慶応4)年8月に遊女屋5軒から始まった大瀧町遊廓はその後日本人にも開放され,海軍将校など比較的富裕な人々を客層とする貸座敷が,明治中期には18軒営業していた.大瀧町遊廓は明治21(1888)年の火災によって消失したが,神奈川県は大瀧町での遊廓再建を許可せず,移転を命じた.永島庄兵衛らの協議によって,公郷村字柏木田への移転が決定された.このように,地域開発の初期において,有力者によって遊興地の設置が図られたことがわかる. 大瀧町及び柏木田の遊興地がいわゆる公娼地であったのに対し,大正期に中心市街地からやや外れた海岸部の埋め立てによって造成された安浦地区には,銘酒屋などと呼ばれる,私娼を置く店が立ち並んだ.私娼を中心とした新興の遊興地となった安浦開発の基礎にも永島家は部分的に関与しており,安浦の埋め立て工事は,永島家の主導によって行われたものであった.大正12(1923)年に起こった関東大震災によって大きな被害を受けた横須賀市は大規模な都市復興計画を実施し,その一環として,安浦の地所の一部に,若松町・大瀧町・逸見町などに散在していた銘酒屋を移転させた.その結果,安浦3丁目には整然とした町割りが施され,約80軒の銘酒屋が立ち並び,周辺には料理屋や居酒屋などが立地する,遊興地となった.私娼を中心とした新興の遊興地となった安浦は,船乗りや工場労働者,漁師らを主な対象としていたといわれる. 以上のように,軍港都市横須賀では,明治期以降,開削と埋め立てを繰り返すことによって市街地を延伸させていった.その中で,遊興地は中心市街の外縁部に開発された新開地に設置され,遊興地を中心とした地域の発展を促進した.横須賀における遊興地や,遊興地が置かれた埋め立て地形成のプロセスには,永島庄兵衛をはじめとする地方名望家や軍の意向,関東大震災後の復興計画などが大きく影響していたと考えられる.遊女屋の設置や,新開地の形成に主導的な役割を果たした永島家は,幕末期からの御用商人として,また海堡建設を通じて得た幕府・軍とのつながりを基盤として蓄積した資本を,地域開発に投じた.それは単に永島家の多角経営の一端を構成していただけでなく,軍港都市横須賀における空間の形成と再編に大きな影響を及ぼしたと考えられる.
  • ―鎮守府設置直前期から第2次世界大戦終了直後まで―
    山神 達也
    セッションID: 411
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    鎮守府設置から終戦までの舞鶴の人口を分析し、一寒村が近代都市へと大変貌を遂げてきた様子を検討する。
  • 林 哲志
    セッションID: 412
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    _I_ はじめに
     渥美半島は愛知県の最南端に位置し,その先端に伊良湖岬がある。かつて,岬の近くにあった伊良湖の村は,20世紀の初頭,1905(明治38)年から翌年にかけて集落移転をした。集落移転の理由は,「陸軍技術研究所伊良湖試験場」という大砲の実験場が拡張したことである。そのため,集落内にある屋敷は陸軍によって買収され,伊良湖の村は伊勢湾に面した場所から山の東側の現在地に移転することになった。
     発表者は,これまで,伊良湖について,移転前の集落景観や,そこに住む人々のくらしについて報告してきた。今回の発表では,集落移転そのものを捉え,具体的なその経緯,新しい伊良湖集落の位置が決まった理由およびそれぞれの屋敷の空間的な移動パターンを考察し,その特徴について言及する。また,集落移転の時系列的な進捗状況から,特筆すべき事象についても明らかにする。

    _II_ 研究方法
     集落移転の前後に測図された旧版地図(地形図)から,集落の位置と形態を判読した。
    次に,旧集落におけるそれぞれの屋敷の位置を文献資料や空中写真,それに聞き取り調査の結果から推定した。そして,現集落における移転先の屋敷の位置を都市計画図上に示した。移転後から現在までの間に,再度移動した屋敷もあったことから,ここでも聞き取り調査の結果を踏まえた。以上の作業をもとに,旧集落の屋敷の位置と,それに対応する現集落の屋敷の位置を直線で結び,移動の方向と距離を示した。
     また,文献資料によって,集落移転の具体的な様子を調査した。ここで使用した文献資料は,地元に残る諸記録およびアジア歴史資料センター(防衛省防衛研究所)所蔵の記録などである。これらの文献資料などから,主に時系列的にみた集落移転の進み方を確認し,移転時および移転後の状況をまとめた。

    _III_ 結果の概要
     旧集落から現集落への集落移転は,塊村の状態のまま陸軍によって買収されたラインに接する場所へ行われた。そして,旧集落から現集落への屋敷の空間的な移動には,特に規則性のないことがわかった。現集落内には,移転後に組織された「瀬古」と呼ばれる地縁組織が6つある。その瀬古ごとに移転元の分布を調べると,旧集落内の全域におよぶことがわかった。
     また,文献資料をみると,1905年9月17日の移転命令発令以前に買収協議はほぼ完了していた。移転先の現集落は,それぞれ個人が所有していた畑に屋敷を造成したパターンがほとんどであり,そこに畑を所有していなかった場合には,換地を行って屋敷用地を確保しておく時間的な余裕もあった。
  • 伏見 能成, 伏見 裕子
    セッションID: 413
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    出産研究は、前近代の出産に関するもの、近代化に関するもの、病院出産に関するものに大別できる。文化人類学者の松岡悦子は、「子どもが自宅ではなく病院で生まれるようになる、ということ」が、出産の近代化の特徴だという。  離島には近代化を直接経験した世代が今も健在で、聞き取りによって内実を明らかにすることができる。離島の出産についての研究はこれまでにもあったが、いまだ議論の余地は大きい。 燧灘の島々において聞き取り調査を行った結果、一定の傾向を見出した。明治中頃までは、殆どの島で伝統的な出産が行われた。出産をケガレと捉えることが多く、近代的観点からいうと決して衛生的ではない非日常空間での出産が余儀なくされた。出産の姿勢、介助者という視点からも現代とは大きく異なっていた。出産場所については、島ごとに差異があり、共有のウブヤを使用するケース、農地や屋敷地内にある私有の小屋を貸し借りするケース、各戸が屋敷地内に持つナヤ等を利用するケースなどがあった。こうした習俗が近代化といえる変貌を見せるのは、近代的思想によってケガレ観が緩和されたり、衛生意識が高まったことや、全国的に助産者が資格化されたことが契機になった。大抵の場合、出産場所が屋敷地内のハナレ、更に母屋内のナンドへと変化し、1950年代までには有資格の産婆・助産婦が介助するようになる。1970年代には病院出産が一般化し、現在は各島もれなく妊産婦自体が存在しない。  伊吹島には326世帯793人(2005)が住む。漁業が盛んで、イリコの島として知られる。嘗ては国外にも出漁し、朝鮮半島に加工場をもつ島民もあった。こうした経済的背景もあって、ピークの1950年代には人口4,300人にも達した。現在でも集落内は著しく密集している。  伊吹島には、約400年前から集落共同で使用するウブヤが存在し、デービヤと呼ばれた。産婦は、自宅のナンドでの出産後、約30日間デービヤに篭った。デービヤは、明治初年に4.5畳が3部屋ある建物2棟に改築されたが、土間に筵敷きであった。その後、1930年にも改築されて6畳6間の畳敷きとなり、デービヤの建物自体は近代化を遂げた。名称も「伊吹産院」とされた。この名称は、当時首都圏を中心に増加しつつあった近代的出産施設「産院」を意識していたことが窺える。1930年の改築は、恩賜財団慶福会が「妊産婦保護」のために下賜した建築費が契機となっている。その際の設計図にも「産婦静養室(デベヤ)改築設計図」と明記されている。デービヤは、「ケガレの忌避」という目的を果たしつつ、「産婦静養」というもう一つの目的を前面に出すことで下賜金を得ている。しかし、聞き取りでは「出産直前まで忙しく働いた。デービヤにいる間は天国だった」という感想が得られ、こうした目的が完全に建前であったわけでもない。 出産方法の近代化をもたらしたのは、終戦直後に島へ来た助産婦であった。自宅で出産した直後にデービヤまで歩いて移動するという慣習は医学的に好ましくないとして、デービヤで出産し、そのままそこで静養するよう勧めた。このように、彼女はデービヤという伝統をうまく利用して出産の近代化を進めたのだ。その後、1956年にはデービヤに分娩室が設けられるに至った。しかし、彼女が個人的な理由で大阪に移住すると、島の女性は必然的に地方(ぢかた)である観音寺の病院で出産するようになり、1970年にデービヤは閉鎖され、1983年に解体された。  地理的、経済的条件が類似している広島県走島では、ウブヤ習俗自体がみられない。一方、志摩半島の越賀は、離島でもなく、海女が家計を担うという地域だが、ウブヤが「産婦保養所」に発展したという、伊吹島に酷似した例がみられる。越賀の近隣集落でも、ウブヤ習俗は多く見られたが、近代化の過程でウブヤが存続された例は他にない。  産院や産婦保養所に変化しながらもウブヤが存続した伊吹島と越賀において、その存続と発展の背景には、当時の女性の厳しい労働条件があるものと考えられている。しかし、伊吹島・越賀の労働環境は、周辺の地域に比して、特別ではなかった。近代化を推進する契機について考えた時、僻地では国や県の決定よりも、助産婦等の個人的な意思決定や行動が優先して機能し、地域ごとに個性豊かな偶発的契機によって近代化の方向性を左右し、時には決定づけてきたのだろう。
第5会場
  • ―ベルリン・バイエルン地区「追憶の場」を中心に―
    大平 晃久
    セッションID: 501
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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     人文地理学において記念碑を対象とした研究は隆盛をみているが、個別の記念碑研究ではなく、記念碑と場所の関係の一般化を指向する研究は少ない。本発表では,まず,既存のモニュメントを否定するアンチ・モニュメントの事例,とりわけベルリン・バイエルン地区の「追憶の場」を紹介し,そこにみられる記念碑と場所との関係を考える。その上で,バイエルン地区「追憶の場」の事例から,場所間の見立てという記念碑の働きに注目する。
     アンチ・モニュメントとは,ドイツにおいてナチスの記憶と向き合う中で生まれた,従来の記念碑の概念を打ち崩そうとする作品群に与えられた名称である。ザールブリュッケンやカッセルの不可視の「記念碑」,ベルリン・ゾンネンアレのセンサーが感知したときのみ説明文が浮かび上がる「記念碑」、ホロコースト記念碑の計コンペで落選した、ブランデンブルク門を破壊してその破片をばらまくというプラン,ブランデンブルク門南の敷地にヨーロッパ各地の強制収容所跡地行きのバスが発着するバスターミナルを建設し,アウシュヴィッツなどの行き先を表示した真っ赤なバスが市内を毎日行き来すること自体を「記念碑」とするプラン,アウトバーンの一部区間を走行速度を落とさざるを得ない石畳にすることで「記念碑」とするプランなどが事例としてあげられる。
     ベルリンの「バイエルン地区における追憶の場」はそうしたアンチ・モニュメントの系譜に位置づけられるプロジェクトである。戦前にアインシュタイン,アーレントなど中流以上のユダヤ系住民が数多く暮らしていたこの地区では,地域の歴史を掘り起こす住民運動が起こった。その結果,1993年に記念碑の設計コンペが実施され,シュティ, R.とシュノック, F.によるプランが1位となった。閑静な住宅地区であるここバイエルン地区では,あちこちの街灯に妙な標識が取り付けられている。全部で80枚のそれらの標識は,例えば片面がカラフルなパンのイラスト,もう片面には「ベルリンのユダヤ人の食料品購入は午後4時から5時のみに許可される。1940. 4. 7」というナチス時代のユダヤ人を迫害する法令の文章が記され、,標識の下に簡潔な記念碑としての説明が取り付けられている。商店の看板とみまがうようなポップなイラストと恐ろしい文言からなる標識群は,その形態からも,またそれらが日常の生活の場にあり生々しい過去と日々向かい合うように設けられている点からも,まさに既存の記念碑を否定するアンチ・モニュメントといえよう。
     これらのアンチ・モニュメントにおける,場所と記念碑の関係を検討すると,まず,脱中心的であったり不可視であったりすることから,そもそも場所との位置的な対応を問うこと自体が無効である可能性がある。一方で,アンチ・モニュメントが決まったメッセージを伝えるのではなく,記念碑をめぐる実践が意味を作り出す点は場所的な特性として指摘できる。このようにアンチ・モニュメントは場所と記念碑の関係に新たな視点をもたらすものなのである。
     バイエルン地区「追憶の場」については、個々の標識については第三帝国当時ではなく現在の景観とおおむね対応している点も特徴的である。過去におけるパン屋や病院など小スケールの事物を記念するというオンサイトの記念碑の文法に則りながら,通常の意味でオンサイトの記念碑ではない点は訪れる者を戸惑わせるものである。しかし,歴史地理的な探索ではなく,現代における実践を誘うものとしてこの記念碑(標識群)は捉えられるべきであろう。現代のスーパーマーケットの前の標識をみてナチス期の商店を想起するという実践は,場所間の見立てであり、バイエルン地区の標識は,そうした見立てを誘うものとして捉えられることを指摘したい。そして,管見の限り,アンチ・モニュメントはいずれも場所間の見立てである一方,大半の記念碑はそうではない。例外は記念碑としては周辺的である文学碑の一部と,聖地など宗教関係の記念碑に限定されると考えられる。
     ここで垣間みた場所間の見立ては記念碑の対場所作用の一例に過ぎない。そうしたレトリカルな分析の可能性,また広義の記念碑=「記憶の場」まで含めた考察の必要性を試論的に指摘しておきたい。
  • ―とくに北海道の日本海沿岸市町村を中心に―
    阿部 志朗
    セッションID: 502
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    島根県西部石見(いわみ)地方で19世紀半ばから生産されてきた陶器「石見焼」の、三斗~六斗の容積の水甕(「はんど(はんどう)」)は、古くは北前船と総称された日本海海運で、さらに大正時代の山陰線の全通以後は鉄道貨物として、おもに日本海沿岸地域を中心に全国的に広く普及した。これまでその流通・分布の実態について報告されたことはほとんど無かったが、北海道~北陸の北前船寄港地の資料館や旧家で石見焼の水甕が現存することを先に報告した(阿部 2008)。それらの水甕には出荷向けの石見焼特有の刻印や墨字が印されていることが分かった。これらの印を参考に「石見焼」の産地同定や、近世・近代における石見焼の流通過程について考察する。方法として「石見焼」の水甕の有無について兵庫県以北の日本海沿岸の市町村に対するアンケート形式の調査とそこから得られた回答をもとにして実施した現地調査をもとに、近世末~近現代の石見焼の分布と流通の実態を把握する。アンケート調査では、兵庫県~北海道の日本海および津軽海峡に面した多くの市町村から石見焼らしい水甕が「ある」という回答と、写真資料も届けられた。それらの水甕の底面にある刻印や墨字から、石見地方で生産されたことが断定できる「石見焼」と石見焼の特徴が強い「石見系」の水甕に分類した。この分類を踏まえ、本州~北海道の「石見焼」および「石見系」の水甕の分布を概観すると、いわゆる北前船寄港地として知られる諸港とその周辺に刻印や墨字を含む古いものが存在すること、能登半島など半島先端部には「石見焼」が多いが半島の基部にはほとんど見つからないこと、青森県の日本海沿岸・津軽半島では存在が確認できたが、下北半島周辺ではほとんど見られないこと、などから日本海側ルートで船(北前船)で流通したことが考察できる。一方、稚内市~函館市までの日本海沿岸の市町村(島嶼部と積丹半島を除く)で行った現地調査では、ほぼすべての市町村で「石見焼」「石見系」水甕の存在が確認できた。とくにニシン漁関連の施設にはすべて「石見焼」水甕があり、飲み水用として六斗サイズの大物が用いられていたことが分かった。また、調査の中で大型で茶色の水甕だけでなく、小型の白い甕にも「石見焼 ○製」の刻印があるものが多数見つかった。このような刻印の甕類が多いのは、同じ沿岸部でも移住・開拓の時期が早い地域である。島根県西部は鉄道の開通が大正時代の後半に下るため、それまでの製品は船で運ばれ、徐々に鉄道輸送に移行する。石見焼の水甕は古いものは「入れ子状」のセット販売、戦後の新しいものは単品での販売・輸送というように製法・形状の変化よりも輸送形態や販売方法の変化が顕著であるが、北海道では本州にあるような明治中期までの「石見焼」は松前、江差以外ではほとんど見つからず、北に行くほど単品販売の形態の新しいものが多く現存することが分かった。北海道での移住・開拓の進展と石見焼流通時期とも少なからず関連するようにも考えられるが、この点についてはさらに精細な検討が課題である。
  • 橋田 光太郎
    セッションID: 503
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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     北九州市門司港「レトロ」地区の観光開発の形成過程を明らかにし,地価上昇の要因について考察する。  「レトロ」地区の観光地化は,その形成の主体(人・組織)や事業展開に注目すると3つの時期に区分できる。1期は開発前史の時期(1982~1986年)で,観光地としてではなく,港湾地区として再開発しようとした時期である。2期は門司港レトロ第1期事業を中心とした時期(1987~1994年)で,行政主導の建造物建設中心の観光開発を展開した時期である。3期は門司港レトロ第2期事業を中心とした時期(1995~2007年)で,門司港レトロ倶楽部が組織化され,官民の協働によるイベントづくり中心の観光開発を展開した時期である。  2009年3月の公示地価において,日本全国の商業地約4800箇所の内,前年比で地価が上昇したのは5地点で,その内の1つが「レトロ」地区(栄町10の18)であった。地価上昇の直接的要因としては,商業施設HalloDayの出店が考えられるが,それだけでなく,「レトロ」地区での地道な観光地化やまちづくりに伴う観光客の増加が基本的要因として考えられる。
  • 山口 太郎
    セッションID: 504
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
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    はじめに
     1975年の文化財保護法改正による伝統的建造物群保存地区(以下,伝建地区)の制度は,2009年6月現在で85地区を数え,歴史的町並み保全の手法として活用されている.伝建地区は,重要文化財や天然記念物と並ぶ文化財の一種として扱われる.しかし,ほかの文化財と異なり,伝建地区はその空間的な特性のため,都市計画行政や農水行政などとの連携がおのずと必要になってくる.また,建築物という民間所有物に対し,規制をかけていくことになるため,伝建地区選定に対し,住民の理解が得られない場合もある.そのため,伝建地区の選定に際し最初に行われる「伝統的建造物群保存対策調査」(以下,保存対策調査)が行われたものの,伝建地区の選定を受けていない地区も多い.
     富山県高岡市には,1985年に保存対策調査が行われ,2000年重伝建地区に選定された山町筋地区がある.また,1993年に保存対策調査が行われたもののいまだ選定に至っていない吉久地区や,2008年に保存対策調査を行い,現在選定に向け住民参加型の活動を続けている金屋町地区がある.本発表では3地区の歴史的町並み保全の活動を報告する.

    山町筋地区の概要と町並み保全活動
     山町は,重要有形・無形民俗文化財の「高岡御車山祭」の「山車」もしくは「獅子」を所有している10か町を指す.町並みの特徴は,明治時代の大火以降に建てられた2階建,切妻造,平入り,瓦葺などからなる土蔵造りの町家である.なかにはレンガ造りの防火壁や大きな箱棟,装飾された鋳物の鉄柱などを有する町家もある.このような伝統的な祭りの継承と土蔵造り建築の維持から,この地区の財力やアイデンティティが伺える.山町筋地区は,まず専門家による町並み調査が行われ,それを継承する形で,1985年に保存対策調査が行われている.山町筋地区における町並み保全活動の萌芽期と位置づけられよう.しかし,その後,停滞期に入る.最大の転機は,1992年の中層マンション建設計画である.住民は反対こそしなかったものの階数制限ができないかと考え,この機会に住民組織を結成した.教育委員会は,伝建地区選定の有用性を住民へアピールし,2000年,重伝建地区の選定に至る.現在は,修理事業が着実に進められ,住民主体のイベントの開催など,発展期として位置づけられる.

    吉久地区の概要と歴史的町並み保全活動
     吉久地区は,江戸の幕末から明治初期に米商によって繁栄した地区である.「さまのこ」と呼ばれる千本格子が特徴的な町並みを形成している.また,道が緩やかに曲折していることも特徴である.吉久地区は1993年に保存対策調査が行われた.これはこの地区を知る専門家からの提案により,高岡市が文化庁に提案し行われた.しかし,今日まで伝建地区の選定には至っていない.周辺住民を中心とする住民組織の結成や,芸術家,大学生が参画した芸術イベントの開催など,ソフト面の取り組みによる住民への啓蒙活動がなされており,地道な啓蒙期にあるといえる.最近では高齢化や空家の発生という課題が生じており,新たな局面にある.

    金屋町地区の概要と歴史的町並み保全活動
     金屋町地区は,鋳物の町として知られる.町並みは,吉久同様「さまのこ」が卓越している.金屋町地区では,行政・住民双方の取り組みが初期段階から見られる.町並み整備はハード面を中心に1984年以降集中的に取り組まれている.これは,伝建地区の取り組みとは関係なく,行政の担当部局も都市計画課であり,富山県による事業も行われている.住民側は,伝建地区の選定は受け入れない立場をとっていた.そのため,ハード面の事業はあくまで公共空間に限定された.この事業が終わると,停滞期に入る.2006年,住民との約束であった「鋳物資料館」が開館し,住民の世代交代,先行事例である山町筋の経過などを背景に,2008年保存対策調査が行われた.現在,伝建地区の選定に向け,ワークショップの開催など住民参加型の活動が進められている.
  • 齋藤 譲司, 橋本 暁子, 亀川 星二, 西田 あゆみ, 津田 憲吾, 松井 圭介
    セッションID: 505
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    成田山新勝寺門前町における商業空間の変容を、周囲を取り巻く外的要因と、商店経営者主体の街並み整備による内的要因に求めて明らかにする。成田山新勝寺では18世紀になり門前町が形成されはじめた。成田山新勝寺では、基本的に寺内での宿泊は行っておらず、参詣客や講社は門前町で宿泊を行うため、門前町には旅籠が多く立地した。これらの宿泊施設や商店は、門前に位置する本町と仲町に立地した。明治期、鉄道の開業により、参詣客は急増し、現JR成田駅から新勝寺に至る花崎町と上町の参道沿いにも旅館や飲食店、土産物店が立地し始めた。しかし、鉄道の開業による移動時間の短縮は、東京から成田への日帰り化を推し進めた。日帰りの参詣客が増加する一方で。旅館の数は次第に減少した。戦後、参詣客や観光客の日帰り化は一層進行した。旅館の数は激減し、飲食店への業種変更が進んだ。一方で門前町は成田市の中心商店街としての性格を強めはじめた。1970年頃まで、花崎町や上町には衣料品、靴鞄などの買回品や八百屋、魚屋といった地元客向けの商店が立地した。また、仲町には参詣客向けの土産物店や飲食店が立地した。しかし、1990年代における大型商業施設の相次ぐ開店により、門前町の中心性は減少し中心商店街としての性格は弱まった。そして最寄品を取り扱う商店を中心に廃業する商店が増加した。本町、仲町、幸町、上町、花崎町で形成される新勝寺門前町のうち、JR成田駅と新勝寺のいずれからも距離が離れている上町では、最寄品を扱う商店を中心に廃業が続いた。上町の商店経営者は危機感を抱き、参道を活性化させるための街づくりを計画した。上町、仲町、花崎町では、1990~1998年にかけて街づくり協議会を組織し、街づくりの一環としてセットバック事業とファサード事業に着手した。これらの事業は国土交通省から街づくり交付金や、成田市の協力、セットバックとファサードの成果を見た商店経営者が街づくりに協力的になったことで円滑に進み、当初の計画よりも早いペースで行われている。街づくりが順調に進んでいる要因には各町の街づくり協議会と、これを先導するリーダーの存在が大きい。成田山新勝寺の門前町は、成立から1990年代まで、交通事情や周辺を取り巻く商業環境などの外的要因によって店舗形態や業種が変化してきた。今後はセットバック事業やファサード事業が商店の業種を変化させるきっかになると考えられ、門前町の商業空間を変容させていくことになるだろう。しかし、門前町の商店経営者が組織する街づくり協議会や商店会、成田市が主体となって進められる成田山新勝寺門前町の街並み整備は、衰退傾向にあった商業空間を再編し、存続させていく契機になるだろう。
  • ―鹿児島県大島郡喜界町を事例に―
    天野 宏司
    セッションID: 506
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    観光:2009年7月22日,日本で46年ぶりとなる皆既日蝕が観測され話題となった。本報告は,鹿児島県大島郡喜界町における観測者の受け入れ状況と,来島した観測者を対象に行ったアンケート調査の結果について報告を行う。
  • 中村 文宣, 鈴木 富之, 池田 真利子, 福田 綾
    セッションID: 507
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
     本発表では,多くの訪日外国人旅行者にとって日本の玄関口となる成田空港周辺地域に焦点をあて,成田空港周辺の宿泊施設を利用する外国人旅行者の行動特性を明らかにし,成田空港周辺の宿泊施設が果たす役割について考察する.
     成田空港周辺の宿泊施設について,旅館,ビジネスホテル,コンベンションホテルの3つに分類し,それぞれの特徴とその客層について述べる.成田空港周辺の旅館の多くは,江戸時代に盛んになった成田山新勝寺への参詣に訪れる講集団の休憩・宿泊施設として発展してきた.しかしながら,近年では講集団の衰退が顕著となり宿泊者数は減少傾向にある.そのため,旅館業を続けながら,土産物店や飲食店を経営する旅館もみられる.また,欧米からの個人旅行を中心とした訪日外国人旅行者の受け入れを開始した旅館もある.ビジネスホテルは,全国にチェーン展開するホテルと地元資本のホテルではいくらかの違いはあるものの,駅前や幹線道路沿いなど利便性の高い成田市中心部に多く立地している.こうしたホテルへの宿泊客は,渡航の前泊利用や空港関連企業や周辺の工業団地へのビジネス利用によるものである.ビジネスホテルの開業はバブル期に多くみられるが,2000年代に入ってからも全国にチェーン展開するホテルの開業が続いており,宿泊施設の中で唯一,施設数が増加している.コンベンションホテルの多くは,成田空港に接続する新空港自動車道沿いに立地し,客室数は平均440室前後で,客室のタイプも多様である.また,宿泊以外の利用にも対応できるよう,会議・宴会場,飲食施設,婚礼施設やプール・スポーツジムといった付随的機能も数多く有している.開業した時期は,新東京国際空港(当時)が開港した1978年から1980年代にかけて集中している. エアポートホテルとしての性格が強いこれらのホテルでは,時差調整や渡航の前後泊を目的とした日本人および外国人旅行者や航空会社の乗組員(以下,クルー)による利用がみられる.また,これまでにコンベンションホテルの約半数で経営主体の変更がなされており,近年では外資系企業が資本参加しているホテルもみられる.
     成田空港周辺に滞在する外国人旅行者およびクルーは,その交通手段,旅行形態や嗜好によって,その立寄り先が異なっている.欧米からの個人旅行者やクルーは,成田山新勝寺の表参道など成田市中心部への行動が多い.新勝寺周辺に形成される歴史的町並みや表参道沿いで購入できる日本的な土産物は,欧米人に人気が高く,彼らを引きつける要素となっている.また,エスニックレストラン,バーやパブといったナイトスポットもあり,クルーを中心に利用されている.加えて,成田空港周辺のホテルが運行している無料シャトルバスが成田市中心部とホテルを結んでおり,欧米からの個人旅行者やクルーの行動に重要な役割を果たしている.中国人旅行者を中心としたアジアからの団体ツアーでは,宿泊先である空港周辺のホテルと観光地との間を移動する途中に,成田市内の大型商業施設に立ち寄るケースが多くみられる.こうしたツアーでは日本でのショッピングが大きな要素となっており,店舗数も豊富で飲食店なども揃う大型商業施設は,ショッピングと同時に食事も済ませられることから,ツアーの訪問先として定番となっている.このような状況下,大型商業施設も施設パンフレットや商品説明の外国語表記,中国系クレジットカードの導入を進め,受け入れ態勢を整えている.
     成田空港周辺の宿泊施設は,成田山新勝寺の表参道など成田市中心部や大型商業施設へ訪日外国人旅行者およびクルーの流動を促す役割をもっていると考えることができる.
  • ―ネパール北西部マナンの事例―
    森本 泉
    セッションID: 508
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    ネパール北西部のヒマラヤに位置するマナンにおいて、これまで住民達は地域外に生活の糧を求め、ネパールの近代化と共に都市に移住するようになっていった。過疎化が進む一方で、当地域を通るトレッキング・ルートはネパールで最も人気のあるルートとして外国人トゥーリストをひきつけるようになった。本研究では、当地域において標高が高く乾燥した自然環境の中でいかにトゥーリズムが展開してきたのかを明らかにし、環境と社会の変化にどのように作用してきたのか検討する。 調査の結果、近年気温が上昇しているため氷河が後退して水源が枯渇し、また過疎化による人口減少で耕作放棄地が増大する中、トゥーリズムは経済機会として期待されていることが分った。トゥーリズムが展開する過程で、栽培技術の普及によりこれまで導入されていなかった野菜類が外国人トゥーリスト用に栽培されるようになり、これらが地元の人々の食生活に加わるようにもなった。そして、トゥーリストの増大に原因が求められる森林減退により森林利用が規制されたため、ホテルでは太陽光発電や太陽熱温水器等が導入されるようになった。更に安定した電力供給の為に地域社会が出資して水力発電所を建設している。他方で、4、5年後に車道が開通する予定で工事が進められている。トレッキング・ルートを車道として整備する為、トレッキングの魅力減退が予測され、地域活性化の手段としてのトゥーリズムへの期待に陰りが生じている。
  • 神谷 浩夫
    セッションID: 509
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    発表分野 外研究、文化地理学 概要 北米には、和太鼓チームが300ほどあると言われている。戦後の経済成長に伴って日本国内で伝統音楽に対する再評価の機運が高まり、日系企業の対米進出が活発化するにつれて、北米の日系人コミュニティでも日本の伝統文化への再評価が進み、和太鼓演奏が日系人コミュニティの間に広く普及するようになっていった。本報告では、2008年8~9月に調査した実施した北米ベイエリアにおける和太鼓チームへの聞き取り調査に基づきながら、北米ベイエリアの日系人コミュニティにおいて和太鼓演奏が普及していったプロセスを明らかにし、その要因について検討を加える。
  • ―群馬県安中市碓氷峠鉄道文化むらを例として―
    横田 正文
    セッションID: 510
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    「都市再生・地域再生」 観光資源の持続可能性の確保を図るため、施設の維持修繕に向けたボランティア活動に対する意識及びその促進方策について明らかにする。
  • ―中国大陸重視へと変化した移民政策―
    塩川 太郎, 林 麗華
    セッションID: 511
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    近年の台湾における中国大陸重視へ傾斜しつつある移民政策を示し、 その移民問題について考察した。
  • ―ニュージーランドへのサモア女性の移動経験を事例として―
    倉光 ミナ子
    セッションID: 512
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
    南太平洋の島嶼国サモアからニュージーランドへ国際移動したサモア女性の移動経験を事例にして、何が彼女たちを国際移動へ向かわせるのか、それを可能とする背景は何なのかについて考察することで、現代の女性化する国際移動のあり方について論ずる。
  • ―ライフストーリーからの考察―
    木村 オリエ
    セッションID: 513
    発行日: 2009年
    公開日: 2009/12/16
    会議録・要旨集 フリー
     男性はフェミニスト研究者たちによって暗黙のうちに「女性的な〈他者〉を抑圧する存在」と捉えられる傾向にあった。確かに男性優位の社会構造の中で、これまで男性たちは女性との間に支配/被支配関係を積極的につくり出してきた。しかし、男性=抑圧者という、一元的な男性観を前提にしながらジェンダーをめぐる研究が遂行されること自体が、問題にするべき男女間の権力関係そのものの再生産を促す傾向にある。男性の位置性をめぐる議論に対して積極的に関与してきたのが男性学、メンズ・スタディーズ(men's studies)である。その中では、性差に関わる構造的な問題が、女性対男性という単純な対立関係ではなく、覇権的な男性性(hegemonic masculinity)を中心に構成されていくことが指摘されている。さらに、覇権的な男性性は歴史的な時間と場所に根ざした構築物であり、その支配的な特性や形態を明らかにするためには、空間構造の解明が不可欠である。そこで本研究では、計画空間として形成され、職住分離の空間構造を下支えしてきた都市郊外地域である多摩市桜ヶ丘を対象に、男性住民のライフストーリーの分析を通じて検討し、その変容過程を考察した。
     本研究が依拠するライフストーリーとは、人生や過去の経験をインタビューすることにより人々のアイデンティティや生活世界、さらには文化や社会を理解するための質的調査手法である。桜井は、ライフストーリーを用いた研究は、調査者がインタビューを通して被調査者一人ひとりの人生における文脈を構築することに参与し、それによって語り手や社会現象を理解・解釈する共同作業に従事することであると述べている(桜井編2003)。居住する地域に適合した新たな関係性を築く必要に迫られた男性たちが、仕事以外の自分と向き合い、己の行く末を問い直す語りの中には、さまざまな葛藤と自己の男性性への反省的な言及も含まれている。こうした男性の語りを読み解こうとするライフストーリーは、男性性なるものが決して一枚岩ではないこと、さらには男性性が空間構造によって規定され、それが常に動態的であることを確認するための一助になった。本研究において事例として取り上げた退職男性たちは、地域社会の中で男性性の再構築を迫られていた。男性たちに求められたのは、彼らがこれまで保持し続けた覇権的な男性性とは異なる、柔軟なジェンダー役割を積極的に引き受けようとする新たな男性性であった。男性たちは、そこで水平的な関係に基づく協調性や他者への配慮を習得し、将来的な地域の担い手となる可能性を持つ。しかし担い手となり得るためには、家事やケア労働などの再生産役割の分担を含め、生活の基盤となる家庭とのかかわりを前提とした男性性の構築が必要となってくるであろう。
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