本稿では2000年以降に発表された,明治期からおおよそ戦前,戦中期にいたるまでを対象とした出版に関する書籍,論文を概観し,その成果を整理紹介することで,近代出版史研究の動向と今後の可能性を提示した.
この論文は,2000年から2012年の12年間に『出版研究』掲載論文,「出版学会賞」受賞作品,隣接諸学会誌掲載の雑誌に関する論文を対象に,量的・質的な内容分析を行い,この時期の傾向を概説した.その結果,研究対象の多様化,歴史研究の知見からの(受容)環境への意識化,組織・産業研究の集合・調査データの分析の精緻化といった特徴から,雑誌の「内容研究」は進展したが,雑誌の本質についての議論は見出しにくかった.
本稿は,電子出版に関する研究に焦点をあて,2000年以降の動向を示し,その問題点や今後の課題を指摘することを目的とする.特に,学会誌である『出版研究』掲載記事を中心に17記事のレビューをし,さらに関連学会の動向も検討したが,投稿論文は少なく,報告・解説的な記事が多くを占める結果となった.電子出版研究は研究の積み重ねが不十分で,10年前と同様に未だ確立の途上にあると結論づけた.
本研究は,『出版指標年報』掲載のベストセラーを対象に,「ベストセラーのジャンル分析」,「ベストセラーの刊行出版社」,「テレセラー」の3つの観点から分析する.対象となったベストセラーは,1946~2010年の65年間にわたる1247点である.「ジャンル分析」では,「日本十進分類法」に従った.一番多いのは「文学」の525点で42.1%を占める.以下,「社会科学」「哲学」となる.「出版社」では,最もベストセラーを刊行しているのは,講談社114点(9.1%)である.以下,光文社,新潮社が続く.「テレセラー」では,テレセラーの比率は,全体で234点(18.7%)である.その比率は増加している.
本調査研究は大学における出版関連科目のシラバス構成及び科目担当者の意識調査から出版教育のあり方を考えてみた.問題の所在は,大学における関連科目はどのような内容をもって教えられているのか,科目を担当しているエデューケーターの出版教育に対する問題意識を見る,大学における出版教育の体系性と課題を考える,大学における出版教育の位置づけを問い直すことから始まっている.
著作権制度による権利保護について,関係者が自己の利害の観点から判断・主張をするのは一見当然のようにみえるが,法制度はそもそも社会全体からみたwelfare(公共的な厚生・福祉)を根拠として存立しうるということを,法と経済学などの経済的視点から改めて提示・提唱する.
出版における知的財産権,特に日本出版社の海外ライセンス販売に焦点を当てる.事例としてマンガを取り上げ,海外へのライセンシングの状況を分析する.文化,そして政治経済のグローバリゼーションは,マンガの海外展開にも大きく影響を与えている.知的財産権の国際的調和と海賊版対策,そしてデジタル化による海賊版の拡大,そして各地でのマンガ執筆などについて検討し,グローバル化の中のマンガの海外展開を考察する.
2011年3月11日に起きた東日本大震災は,出版業界にも甚大な被害を及ぼし,商品の被害だけでも数十億円の規模となった.
また製紙工場なども被災し,出版物の製作も困難な局面を迎えた.さらに交通網の寸断,燃料不足などから物流も大きく制約を受けた.
しかし関係者の努力によって,これらの危機は何とか克服をした.
また被災書店に対しては,返品処理等で取次・出版社が協力した.
さらに業界全体で「復興基金」 を設立した.
日本の出版産業における紙から電子への動向はこれまでの出版メディアの枠組みを大きく変化させようとしている.従来からの出版学の延長線上ではなく,新たに電子出版学の視座が必要となってきているのである.本稿ではオンライン資料の増加に対応して導入された国立国会図書館の「電子納本制度」を中心に,転換期における出版ビジネスと国立図書館の関係について検討する.
本稿の目的は,1901年に近衛篤麿によって発行された雑誌『東洋』に関して,この雑誌が果たした歴史的な役割について考察するものである.まず,雑誌『東洋』の発刊の目的を明らかにし,同雑誌に関与した東洋倶楽部と経緯社について詳らかにした.そして,『東洋』が日本新聞社の『日本週報』と合併した経緯を明らかにし,『日本週報』が日露開戦過程において果たした役割を考察し,これをメディア史の中に位置づけた.
本稿は,18世紀後半の英国における古詩編集をめぐるトマス・パーシーとジョゼフ・リトソンの対立に焦点を当てている.想像力に基づくパーシーの古詩編集は,編集者が原著者になりかわろうとする試みであり,編集者と原著者との間の違いを曖昧にしたが,これに対してリトソンは,その違いを明確に区分し,歴史資料に書かれた過去の情報を忠実に伝えようとした.このリトソンの態度が,現在まで続く学術編集の発展の基礎を築いた.
1964年初夏,銀座みゆき通りに出現した「異様」な服装の“みゆき族”は,現在の通念とはことなり,『平凡パンチ』を含む印刷メディアからもヴァンジャケットからも否定的な評価をうけた.1980年代以降,おもに情報の送り手により,みゆき族の社会的記憶はVANを着たアイビーで『平凡パンチ』が流行らせた若者文化として肯定的に再構成された.本研究では,この社会的記憶の変容にVANと『平凡パンチ』がはたした役割を示す.
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