石狩川
の冶水事業は、明治43年に北海道第1期拓殖計画の中でその緒について以来、平成2年で満80周年を迎えた。北海道治水調査会の委員として
石狩川
の治水に関する調査を任された岡崎文吉(当時道庁技師)は、明治37年7月洪水時に、
石狩川
各地点で詳細な水位観測を行った。その結果を基に岡崎は独自の計算手法を用いて、将来
石狩川
で河川改修工事が施工され、氾濫が抑制された場合、
石狩川
下流対雁(現在の石狩大橋観測所付近:河口より27km)地点における洪水量として約30万立尺(8,350m
3/s)を算出している。この8,350m
3/sという流量は、昭和36、37年の集中豪雨に伴う昭和41年の工事実施基本計画の策定(石狩大橋地点で9,000m
3/s)が行われるまで、実に半世紀以上にわたり
石狩川
の治水事業の根幹として、河川改修を進める上での重要な指標となってきた。水理学、河川工学の黎明期である80年もの前に、そのような計画流量を算出した経緯を詳細に検討するとともに、本研究はその算出方法とその結果について現代的な観点から考察を行うものである。さらに本研究は、現代的な洪水流出計算手法により、明治37年7月洪水の氾濫が防止された場合で流量計算を試みる。一般に今日用いられているような流出解析手法では降雨量、降雨分布がモデルのパラメータを決定する重要な構成要素となっている。しかしながら明治37年当時、
石狩川
流域で時間雨量を観測していたのは札幌だけであり、総降雨量を観測していたのは札幌と上川(現在の旭川)だけである。従って一般的な現代手法では、明治37年の洪水流量の有意義な検討は難しいと判断し、ここでは降雨特性によらないモデルを新たに考案しこれを用いることにする。
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