山梨英和短期大学紀要
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26 巻
選択された号の論文の11件中1~11を表示しています
  • 鈴木 武晴
    原稿種別: 本文
    1992 年 26 巻 p. 1-21
    発行日: 1992/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    本稿は、萬葉集巻八の「冬相聞」の部に収録されている大伴家持の一六六三番歌の表現の形成と詠作時期、そして歌詠の位置と意義について考察したものである。表現の形成については、家持が坂上大嬢の巻四・七三五番歌と巻十三・三二八二番歌とを踏まえ、柿本人麻呂歌集歌9一六九二〜一六九三・10二三三四を心に置いて詠作していることが知られる。また、詠作時期については、一六六三の表現を手がかりに家持の他の歌詠の表現とのかかわりを探り、それに基づいて、天平十一(七三九)年の冬と推断した。一六六三が天平十一年の冬の詠作ということになると、一六六三は天平十一年の冬以前に詠 まれた家持歌の流れを承(う)けるとともに、天平十二(七四〇)年の家持歌の表現形成に深く関与するという重要な位置に立つことが判明する。一六六三は平凡な歌と捉えられているけれども、歌詠をよく検討すれば、いまだ知ることができなかったことを語り告げてくれるのである。
  • 白倉 一由
    原稿種別: 本文
    1992 年 26 巻 p. 23-34
    発行日: 1992/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    『日本永代蔵』の主題についての論究は現在まで多くの先学によってなされている。作品の主題は作品の文芸性の追及でなければならない。『日本永代蔵』の主題は西鶴が『日本永代蔵』で書いている本質性の究明でなければならなく、文芸性を捉えなければならない。『日本永代蔵』六巻六冊各巻五章合計三十の短篇小説集であるが、各短篇の主題について文芸性の観点から追及し究明した。巻一から巻四までと巻五巻六とは一度に書かれたものではなく、二度に分けて執筆されている事は文献学的・書誌学的な観点からもいいえるが、文芸の成熟度、文芸性の観点からもいうことができる。巻一から巻四までの作品は文芸として昇華されているが、巻五巻六の作品は教訓的・素材的未熟の作品である。『日本永代蔵』の主題の第一は世の人心の究明であり、第二は才覚・始末等人間の行き方、人生如何に生きるかの問題であり、第三は人間の力の限界、神の認識であり、第四は算用その他の町人生活の方法であり、第五は商業資本主義の社会構造の把握である。
  • 山田 吉郎
    原稿種別: 本文
    1992 年 26 巻 p. 35-46
    発行日: 1992/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    川端康成は大正十三年の大学卒業後、伊豆湯ヶ島に引きこもり、孤独な文学修業時代を送るが、とくに大正十四年は一年の大半を湯ヶ島に滞在し、彼の人生観、文学観の形成の上に大きな影響を与えたと推測される。本稿においてはその若き川端の魂の軌跡を、とくに彼の書いた随筆作品に焦点をおいて考察した。大正十四年の随筆群を概観すると、人間と自然との境界を暈して自然自己一如的な境地に立脚した死生観や、そこから導き出されてきた自然観、さらに旅の意識の三点が主要な要素として指摘できる。そして、これらがこののちの川端文学の基底を形づくってゆくわけであり、その随筆作品の文学的意義はたいへんに重いものをはらんでいると言える。また、この時期の随筆作品の所々に、『伊豆の踊子』や『春景色』など川端文学の主要作品の表現に直接つながるような部分が見られ、川端小説の表現の形成過程を探る上でも、当時の随筆には看過しがたいものが存すると考えられるのである。如上の考察をふまえた上で、大正十四年の随筆活動の位置づけを展望し、まとめとした。
  • 戸田 勉
    原稿種別: 本文
    1992 年 26 巻 p. 47-57
    発行日: 1992/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    本稿は、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』第二挿話「セイレーン」における技法「カノン形式のフーガ」の一側面を考察したものである。これまでこの技法に関して繰り広げられてきたさまざまな議論を踏まえつつ、フーガ形式の模倣反復という特質を「逃走」と「追跡」という動きに還元し、その観点から挿話全体の構成を分析した。一では、人物の外面的な動きを中心に考察し、ブルームにとってセイレーンとは誰(何)かについて探った。二ではーブルームの内面的な動きを追い、セイレーンの本当の姿について検討を加えた。三では、「丸刈り組」という曲とフルームの関係から、別な種類のセイレーンの正体を突きとめ、この挿話のもう一つの主題について考えた。
  • 斎藤 信平
    原稿種別: 本文
    1992 年 26 巻 p. 59-68
    発行日: 1992/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    四六年の短編小説は、三部作のスケッチとしてのおおかたの見方は固まっているようである。しかし、この四作は、一人の人物の四つの相と見ることができる。そこで、その各相を見ていくことにより、語り手や語りの場の設定を、ベケット的有機的な発展として再確認することが本論の目的である。「初恋」における生と死の問題。またそれを語るベケット的には未熟な語り手。「追い出された男」の道化た態度と語り。「鎮痛剤」の肉体を持つ語り手の死と、語られた世界での復活。「終わり」の終わりなく読く語りの世界。このように捉えることによって、明確に三部作の橋渡しになるし、もともと四作をまとめて出版しょうとした意図が読み取れるのではないか。
  • 武田 武長
    原稿種別: 本文
    1992 年 26 巻 p. 69-80
    発行日: 1992/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    ユダヤ人に対する迫害・大量虐殺(ホロコースト)がナチ・第三帝国の犯罪の中でも特別なものとしてまず第一に挙げられなければならない最大の罪であるといって過言でないにもかかわらず、戦後ドイツの「過去の克服」の原点とまで呼ばれて評価されているドイツ福音主義教会常議員会の発表した一九四五年一〇月一九日の『シュトゥットガルト罪責告白』には、そのことについて直接的、明示的な文言は存在していない。ユダヤ人のホロコ-ストに対する戦後ドイツ福音主義教会の罪責認識は、いったいこの『シュトゥットガルト罪責告白』以降どのような歩みをたどって明確に得られるようになったのか、そしてその罪責認識にもとづいて直接的・明示的な罪責告白がなされるようになったのか、資料にもとづいて明らかにする。ユダヤ人に対する罪責認識の新しい局面はようやく一九六〇年代になって開かれ、ユダヤ人のホロコーストに対する教会の沈黙と無為というよりも、むしろユダヤ人について・ユダヤ人に対して教会が語ってきたことと行なってきたこと-伝統的なキリスト教神学的反ユダヤ主義-の中にこそ教会の罪責があるという認識に至った。
  • 荒井 直
    原稿種別: 本文
    1992 年 26 巻 p. 81-94
    発行日: 1992/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    アリストパネスの喜劇『雲』を、その主人公がどういう意味で愚かなのかを中心に、検討する。(一)まず、主人公ストレプシアデスは、(1)物覚えが悪く、(2)現実的・実用的なこと以外には興味がなく、(3)多分にアルカイックな心性を保存し・考え方が旧弊であるという点で、またソクラテス以下「学校」関係者との対比で、一見愚かであるかに描かれていることを明らかにする。(二)次に、「学校」関係者は、(1)仲間うちだけで結社をつくり、(2)主として「自然科学」関係と「弁論術」関係の研究と教育に従事するが、現実的・実用的な主人公のニーズに応じられないことのうらがえしとして、ポリスの現実から遊離・隔絶していることが指摘される。(三)さらに、「落ちこぼれ」と「優等生」の父子の違いに注目することで、(1)ソクラテスの「学校」の教育は、必賞必罰の神々の存在を否定し、(2)そのことで、父祖伝来の神々、ノモス(法・慣習)に根ざすオイコス(家)を破壊するものであること、『雲』は、(3)主人公が、痛い目に会わなければ、(1)と(2)を分らなかったという点で愚かであるとする喜劇であると解釈した。
  • 川口 清泰
    原稿種別: 本文
    1992 年 26 巻 p. 176-166
    発行日: 1992/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    『ヴェニスの商人』の後半には、三つの大きな場(箱選び、法廷、指輪騒動の各場)がある。それに比べれば、前半(3幕1場まで)には目立って大きな場はない。ヴェニスとベルモントの場面の往復にほそれなりのリズムがあり、ドラマティックな挿話も豊富であるが、構成分析という点では,これまで前半部は後半部ほど注目されなかった。しかし、前半部も三部形式をとっているように思える(A)l幕1〜3場は、ヴェニス-ベルモント-ヴェニスの場であり、後半に完結する主要なプロットの導入が主たる興味である。(B)2幕1〜7場ほ、ベルモント-ヴェニス(数場)-ベルモントの場であり、主要なプロット以外の挿話が主である。(C)2幕8場〜3幕1場は、再びヴェニス-ベルモント-ヴェニスの形式であり、主な登場人物がヴェニスからベルモントへ移る橋渡しの場である。また「報告」が頻出するのが特徴である。以上(A)(B)(C)の間、あるいは各場の間にほシェイクスピア劇特有の時間経過の妙が見られる。三か月後の証文期限が舞台で自然に受け入れられるのはなぜか。その問題にも随時触れている。
  • 山口 ヨシ子
    原稿種別: 本文
    1992 年 26 巻 p. 164-137
    発行日: 1992/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    This paper attempts to show how the confidence game functions in Henry James's The Portrait of a Lady (1881). This attempt is made by analyzing the portrait of Isabel as a dupe, and by studying James's techniques to make the mechanism of the con game run smoothly. This analysis and study seem effective because the character of Isabel holds the key to the development of the con game. Also because James concentrated his own technical faculty on ways to make the con game interesting and convincing, by making her portrait stand out vividly. The result is hopefully to indicate the following two points. First, the con-man theme is not restricted to Melville's or Twain's literary world, set in the Mississippi area, but extended to James's, set in the East and Europe. Second, in the Jamesian con game, played with the differences between the new and the old cultures for the background, the complexity of character and the center-of-consciousness technique play important parts, because the complexity convincingly proves the inevitability of the con game and the technique makes the con game full of suspense.
  • 奥坊 光子
    原稿種別: 本文
    1992 年 26 巻 p. 136-126
    発行日: 1992/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    In this study, we see topicalization and LD in different syntactic environments-main clauses, particularly in wh-questions, and subordinate clauses with several COMP constituents ; relative clauses and sentential subjects. Different phenomena between the two have shown that topicalized constituents in topicalization and LD occupy different positions, which is against the wh-movement analysis, where topicalized constituents in the two share the TOPIC position. It is suggested that topicalized constituents of LD are in higher node than those of topicalization. Particularly, LD in a main clause, and LD and topicalization in a subordinate clause offer crucial evidence to the claim, suggesting that the topicalized constituents in LD are in the TOPIC node. The topicalization data in a relative clause and sentential subject suggests topicalized constituents are in S node. Based on the observation, along with the presence of a gap in the configuration, an alternative analysis, the S-adjunction analysis is proposed for topicalization, instead of wh-movement analysis.
  • 齊藤 育子
    原稿種別: 本文
    1992 年 26 巻 p. 110-98
    発行日: 1992/12/10
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    信頼は、あらゆる人間的生の欠くべからざる前提である。にも拘らず、現代は正に信頼の喪失によって特徴づけられる。今日頻発している無漸で冷酷・非道な大小各種の犯罪も、所詮はこの信頼喪失の必然的結果である。この危機から脱出可能な道があるとすれば,それは本質的に、他者に対する、そして文化と生の全体に対する新たな信頼関係を獲得し直す以外にはあるまい。それゆえ、信頼の本質とその人間形成上の決定的役割について省察することは、現代の中心的課題である。わけても、教育実践の場における教師と生徒との信板関係の再構築は急務である。そこで本稿では、人間存在(人間であること)と人間形成(人間たらしめること)にとって必須・不可欠の信頼について、第一節では、その端緒としての「母と子」の生理・心理・精神的関係を、第二節では、子供の生活圏の拡大に伴う信板の展開を、第三節では、シュタンツにおけるペスタロッツィの教育実践の具体相の分析を通じて、信頼の教育的意味を、そして最終節では、特に教師の側に焦点をおいて,信板をめぐる本質的諸問題を考究した。
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