智山学報
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66 巻
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  • ー密教「聖教」の視点からー
    永村 眞
    2017 年 66 巻 p. _1-_30
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
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        本論ではまず「鎌倉仏教」とは何かを考えておく必要がある。この「鎌倉仏教」という概念が、如何に定義されてきたのかを確認するため、「鎌倉仏教」を前面に掲げた先行研究をたどるならば、まず赤松俊秀氏の『鎌倉仏教の研究』(1957年)・『続鎌倉仏教の研究』(1966年)があげられる。両著は、「親鸞をめぐる諸問題」・「一遍について」・「慈円と未来記」、「親鸞をめぐる諸問題」・「源空について」・「覚超と覚鑁」・「愚管抄について」・「神像と縁起」等の論文をおさめ、主に浄土門の研究が「鎌倉仏教」の柱とされ、遁世者を通して顕教を見るという研究視角をとっている。次いで佐藤弘夫氏の『鎌倉仏教』(1994年)では、「法然の旅」・「聖とその時代」・「異端への道」・「仏法と王法」・「理想と現実のはさまで」・「襤褸の旗」・「熱原燃ゆ」・「文化史上の鎌倉仏教」等の論文において、顕・密を意識しながらも、浄土・法華に傾斜した関心とその展開を図っている。さらに仏教学・思想史という立場から書かれた末木文美士氏『鎌倉仏教形成論ー思想史の立場からー』(1998年)には、教理史へのこだわりのもとで、「鎌倉仏教への視座」・「顕と密」・「法然とその周辺」・「明恵とその周辺」「本覚思想の形成」・「仏教の民衆化をめぐって」等、黒田俊雄氏が提唱した「顕密仏教」の概念に基づく一連の研究への批判と対案の模索がなされている。
     これら三氏の先行研究のみで結論を導くことは憚られるものの、いずれも「鎌倉仏教」という要語について明確な規定はなされておらず、「鎌倉」時代に展開した「仏教」という枠を越えるものではない。また時系列で「鎌倉仏教」と連結する「平安仏教」と関連付ける試みについても、共通理解が得られたとは言えない。また先行研究に共通するものは、祖師・碩学の著述によって「鎌倉仏教」の性格付けが試みられており、その検討作業のなかで、厚みのある仏教受容の検討、つまり僧侶集団による受容の解明は必ずしも重視されてこなかった。
     「鎌倉仏教」を規定する上で、時系列上の存在意義、教学的な特質、社会的な受容のあり方など、その特異性を見いだすための指標は想定されるものの、それらを明快に語り尽くした研究は見いだし難く、また容易に解明できる課題とも思えない。
     この「鎌倉仏教」を内包する中世仏教のあり方を検討する上で注目すべき成果は、黒田俊雄氏により提唱された「顕密仏教」という概念である。日本仏教史において通説として根付いていた「鎌倉新仏教」と「鎌倉旧仏教」の歴史学的な評価を大きく変えたのが、同氏の『日本中世の国家と宗教』・『王法と仏法』・『寺社勢力』等の一連の著作であった。黒田氏は、「密教」を基調に顕教が教学的に統合されるという認識を踏まえ、宗派史を越えた仏教史の構想のもとに、実質的に聖俗両界で正統の位置をしめる「顕密仏教」(「旧仏教」)と、異端派(「新仏教」)との対照を顕示した。すなわち中世に受容された仏教の正統として「旧仏教」を位置づけ、政治史(国政史)と密着した仏教のあり方こそが「顕密仏教」の正統たる所以とする。ここに顕在化する「正統」と「異端」の両者が分岐する時代のなかに「鎌倉仏教」の特質を見いだしたとも言える。しかし「正統」と「異端」という二極化した理解に対して、「異端」とされた浄土宗・真宗研究の側からの反論に加えて、両極化では説明しきれない多様性が、伝来した膨大な寺院史料の中から明らかになっている。
     そこで中世仏教、とりわけ「鎌倉仏教」を、黒田氏の提示した密教を基盤におくとする仏教継承の母体としての寺院社会という側面から見るとともに、その検討素材として寺院史料の中核をなす教学活動の痕跡とも言える「聖教」に注目したい。諸寺院に伝来する多彩な「聖教」から、二極化では説明しきれない幅広い仏法受容の有様が実感される。すなわち「寺」・「宗」派という枠を越えた「聖教」の実相から、中世における仏法受容の多様性を検討する可能性を見いだすことにしたい(1)。
     ここで「聖教」の語義であるが、本来ならば釈尊の教えを指すが、併せて諸宗祖師の教説へと拡がり、さらに「諸宗顕密経論抄物等」(「門葉記」巻74)という表現に見られる、寺僧による修学・伝授・教化に関わる幅広い「抄物」等の教学史料という広い意味で用いられるようになり、しかもその語義は時代のなかで併存していた。そこで近年の研究・調査においても使われる、「寺僧の修学・伝授・教化等のなかで生まれた多様な教学史料」という広い意味で「聖教」を用いることにする。
     本論では、諸寺に伝来する「聖教」を素材として、層をなす僧侶集団が修学活動のなかで如何に仏法を受容し相承したのか、特に真言「密教」を中核にすえ、一側面からではあるが時代に生まれた特徴的な現象に注目して「鎌倉仏教」の特質を検討したい。
  • ー『光記』『宝疏』における種子の所熏習の解釈の相違をめぐってー
    倉松 崇忠
    2017 年 66 巻 p. _31-_46
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
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        『俱舎論』は日本において仏教の基礎として多くの僧侶によって学ばれ、倶舎学として成立した。この倶舎学では、中国における『倶舎論』の注釈書に基づき研究がなされてきた。
     中国における主な『倶舎論』の注釈書には、神泰の『泰疏』、普光の『光記』、法宝の『宝疏』、円暉の『倶舎論頌疏』などがある。『泰疏』『光記』『宝疏』は三大疏と呼ばれ、倶舎学において重視されてきた。日本において、『泰疏』は珍海の『倶舎論明眼鈔』や宗性の『倶舎論明思鈔』に引用されるが、早くから散逸し、現在は20巻の内、巻1、巻2、巻4、巻5、巻6、巻7、巻17の7巻のみが現存している。また『倶舎論頌疏』は天台宗において重視されるが、これは『倶舎論』の六百頌の理解のための注釈書であり長行釈の研究には適さない。よって日本の倶舎学では『光記』『宝疏』が重用されるようになった(1)。
     種子説は、『倶舎論』の記述によれば部派仏教のなかで経部が採用した説であるとされるが、その後、瑜伽行唯識派にも受け継がれている。種子説の主要な論点の一つとして、種子が何処に、或いはどの様に熏習されるのかという種子の所熏習の問題がある。
     本稿ではまず、玄奘訳『倶舎論』、『光記』、『宝疏』を参照し、種子の所熏習の問題について、『光記』『宝疏』においてどのような解釈の相違があるのかを検討する。次に、それらの相違がどのような理由によって生じたのかという問題について、『光記』『宝疏』の記述、及び『倶舎論』や『順正理論』などの阿毘達磨論書の記述を用いて経部における所熏習の諸説を検討することによって解明する。
  • ー「存在はコトバである」かー
    松村 力
    2017 年 66 巻 p. _47-_58
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
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        井筒俊彦(1914〜1993)は、自らを「東洋哲学に関心を持つ一言語哲学者(1)」と称し、真言密教については「要するに一個のアウトサイダーであり、よそ者である」にすぎず、「外側からその一部をのぞき見ただけ(2)」との立場を表明しているが、碩学の比較思想観点からの、真言密教解釈は、伝統教学とは異なる角度からの視座を提示している。
     井筒の数多くの著作の中で、空海の思想に言及しているものに、『意識と本質(3)』、「意味分節理論と空海ー真言密教の言語哲学的可能性を探る(4)ー」(以下副題略)がある。その他に、密教のマンダラに言及しているものとして、「人間存在の現代的状況と東洋哲学(5)」、『イスラーム哲学の原像(6)』等がある。
     これらの内、主題として空海の思想を取り上げているのが、「意味分節理論と空海」であり、1984年の日本密教学会大会における特別講演を論文体に書き移したものである。
     この論文は、真言密教を言語哲学的に理論展開することを意図したもので、「コトバに関する真言密教の思想の中核」を、「存在はコトバである(7)」という「根源命題に還元」して論究し、この命題が真言密教において真理性を有すると結論している(8)。
     この井筒の論は、真言密教における「言語」や「存在」という数学上重要な哲学的テーマに、注目すべき解釈を示したものといえる。しかしながら、その後長年を経るも、管見によれば、この井筒の真言密教解釈に対する、密教研究界からの反応としては、論文の部分的な引用乃至論評は幾つか見られるものの、井筒の輪の中心をなす「存在はコトバである」という真言密教解釈に対して、真正面から取り組んだ論考は未だ見当たらない。
     そこで、筆者は、空海の思想研究に携わる者の一人として、本稿において、空海の教義の中核をなす、六大四曼三密の三大論に立脚して、井筒の解釈に検討を加え見解を示すものである。
  • ー典拠の考察ー
    池田 友美
    2017 年 66 巻 p. _59-_74
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
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        長谷宝秀編『弘法大師諸弟子全集』巻上所収『奉為嵯峨太上太后灌頂文』(以下『嵯峨皇后灌頂文』)は、嵯峨天皇(786~842、在位:809~823)の皇后であった橘嘉智子(786~856)が灌頂を受けた際の表白文として伝わっている。
     長谷宝秀[1974]の解説(1)によれば、本書の撰者は檜尾僧都実慧(786?~847)に帰せられる。その主たる根拠として氏はまず、智積院第二十二世動潮(1709~1795)が天明元年(1781)に刊行した本書の版本の註に触れている。ここにみられる註によって本書は実慧の手になるものと指摘されており、またこのことは本を辿れば杲宝撰『東宝記』中にかく示されていることに由来している(2)。
     甲田宥吽[1993]は『奉為平城天皇灌頂文』(以下『平城天皇灌頂文』)の校訂に用いた写本七本のうち、『三昧耶戒序八本(3)』(嘉暦元(1326)、観智院所蔵)、『灌頂表白多本』(平安後期、仁和寺所蔵)の二本には外題にあるように『平城天皇灌頂文』単体でなく、それに続けて一文ごとに改丁して『嵯峨皇后灌頂文』が書写されていることに触れている(4)。
     空海撰述といわれる『平城天皇灌頂文』と、本書の類似点についてはいくつかの情報が明らかにされている。『平城天皇灌頂文』は甲田氏の言を借りれば「四段の文章を合して一篇となしている」のであり、この成り立ちについては複数の先行研究で同様の推測がなされている(5)。また、先述したように、複数の写本を目にした甲田氏が本書にも一文ごとの改丁などが見受けられるとしていることを踏まえ、筆者は本書『嵯峨皇后灌頂文』の成立に関して、『平城天皇灌頂文』の存在が少なからず影響しているという前提を置くとともに、以下に両者の比較を通して論考を試みることとしたい(6)。
  • ー三生成仏に対する解釈を中心にー
    鈴木 雄太
    2017 年 66 巻 p. _75-_94
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
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        聖憲(1307~1392)は頼瑜(1226~1304)の加持身説を継承し、新義真言教学を大成させた。また、頼瑜以降の未整理で膨大な論義の算題をまとめ、『大疏百条第三重』(以下『大疏第三重』)『釈論百条第三重』を撰述するなど、新義真言宗にとって極めて重要な人物の一人である。その一方で、久米田寺の盛誉(1273~1351)に師事し、精力的に華厳教学を学んでおり、『五教章聴抄』(以下『聴抄』)を撰述している。従って、聖憲は新義真言宗の学僧であると同時に、華厳の学僧という顔も持ち合わせている。
     華厳独自の成仏論に、三生成仏論がある(1)。華厳教学では、性起思想に基づく旧来成仏、行位論に基づく信満成仏など、様々な側面から成仏論が語られるが、そのなかで成仏までの所要時間をめぐる議論の中で登場するのが三生成仏論である。三生成仏は華厳宗第二祖の智儼によって提唱され、それを第三祖法蔵(643~712)が定式化すると、以降華厳教学における中核的問題の一つとして受け継がれていく。真言宗においても、空海(774~835)が華厳宗に対して言及する際に三生成仏を度々取り上げるなど、華厳教学を表す代表的なタームとして認識されている。
     三生成仏とは、見聞生・解行生・証入生の三生を経て成仏に到るという成仏論であり、『仏教語大辞典』においても「過去世における(別教一乗の)見聞〔生〕、現在世における解行〔生〕、未来世における証入〔生〕(真理をさとること)によって、三﹅生﹅涯﹅で仏となること(2)」と、三つの生涯を経る成仏であると説明されている。
     しかしながら、法蔵以降の中国華厳、ひいては日本華厳においても、三生成仏に対する解釈の在り方は一様ではない。「三生」を現実の時間の中でどう捉えるのかを考えるとき、様々な解釈が生じてくる。つまり、この三生を、現実の時間でいうところの三つの生涯とみるのか否か、という問題である。これについて先行研究をみると、大きく三説あるようで、それは、①三生隔生説、②二生成仏説、③一生成仏説の三つである(3)。
     このなか、聖憲が、『聴抄』において一生成仏説を取ることは注目に値する。なぜなら、三生成仏に対し、多くの華厳の学僧が三生隔生説か二生成仏説を取るなかで、聖憲の一生成仏説は「極端な見解(4)」に見えるからである。そして、真言教学から見れば、この一生成仏説は、即身成仏をも想起させる(5)。さらに、もう一つ注目すべきことがある。それは華厳の成仏について、『聴抄』では一生成仏を主張しながら、『大疏第三重』では一乗経劫を説くことである。要するに、『聴抄』と『大疏第三重』では、華厳の成仏に対する聖憲の見解が異なっている。
     そこで本稿では、聖憲が華厳の成仏に対してどのような立場をもって解釈しているのか、あるいは真言の成仏論との関係をどのように捉えているのか、その他の学僧の解釈と比較しながら少しく考察してみたい。
     なお本稿では、聖憲の著作の中から、三生成仏に関する言及のある『大疏第三重』『聴抄』『王心鈔』を扱うが、『大疏第三重』『王心鈔』は真言学僧として、『聴抄』は華厳学僧として書かれたものとする(6)。
  • ー『釈摩訶衍論』論義を中心にー
    別所 弘淳
    2017 年 66 巻 p. _95-_108
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
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        日本密教における非情成仏論は、五大院安然(841~889~、一説915没)が『斟定草木成仏私記』や『菩提心義抄』において「非情独一で発心し修行し成仏する」ことを明確に表明して以来、主に非情が成仏することは前提とし、非情も発心・修行するか否かが問題の中心として論じられてきた(1)。
     東密では、主に『即身成仏義』に引かれる『大日経』の「我即同㆓心位㆒。一切処自在普遍㆓於種種有情及非情(2)㆒(原文漢文)」や、同じく『即身成仏義』の「諸顕教等以㆓四大㆒為㆓非情㆒、密教即説㆑此為㆓如来三摩耶身(3)㆒(原文漢文)」の文を註釈する際に非情成仏がしばしば論じられてきたが、この場合においても「非情が成仏するか否か」ではなく、「非情が発心・修行するか否か」が中心命題とされ、実範(?~1144)・重誉(?~1143)・道範(1179~1252)・頼瑜(1226~1304)・宥快(1345~1416)といった東密を代表する学匠達は、ともに非情の発心・修行義を認める教説を立てている。
     しかし、『釈摩訶衍論』論義の算題である「非情成仏」では、非情の発心・修行義は問題とされず、非情が成仏するか否かが論義の中心命題となっている。この「非情成仏」という算題は、『密教大辞典』には「釈論巻四随文散説決疑門に当㆑知有㆓仏性㆒(原文漢文)とあるに就き此の有仏性の義は非情に通ずと云ふべきや否やを論ずる算題。東密新義派に用ふ。」とある通り、新義真言のみで立てられた算題である。
     この「非情成仏」の算題は、その源流を頼瑜撰『釈摩訶衍論愚草』(以下『釈論愚草』)に求めることができ、その後の根来中性院第四世聖憲(1307~1392)撰『釈論百条第三重』(以下『釈論第三重』)、智積院第七世運敞(1614~1693)撰『釈論第二重』等の論義書にも収録されている。しかしここで問題となるのは、頼瑜と聖憲が「答」として正反対の見解を示す点である。すなわち、頼瑜はこの「有仏性」には非情も含まれる(非情成仏の肯定)と決答し、聖憲はこの「有仏性」には非情は含まれない(非情成仏の否定)と決答するのである。
     そこで本稿では、この頼瑜と聖憲の論義の相違に注目し、なぜこのような相違が起きたのか少しく検証してみたい。
  • 関 悠倫
    2017 年 66 巻 p. _109-_128
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
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        『釈摩訶衍論』(以下釈論)は『大乗起信論』(以下起信論)の注釈書である。釈論は三十三法門という特有の思想を説くことで知られる。本研究ではその特有の思想が示す修行の階梯と密接に関わると考えられる「金剛喩定」について検討し、釈論の修行道論とは何かを論じたい。
     起信論には金剛喩定という語は説かれていない(1) 。一方で、釈論では起信論所説の「始覚」と「無明」の関係を説く箇所を解釈して述べられ、そこでは「方便」と「正体」の二種の金剛喩定(2) を示している。金剛喩定とはvajropamasamādhiの訳語であり、その概念は阿羅漢向から阿羅漢果へと修行した行者が成道へと行き着く直前の三摩地、すなわち煩悩を滅して解脱の最終段階に入る三昧という意味を持っている。その概念の嚆矢はアビダルマ論書において見られる(3) 。金剛喩定の概念は小乗から出発している。大乗仏教では『般若経』においてその片鱗が見出されるとされ(4) 、後に大乗の修行道論を体系化した大品系般若経に至って「智慧」と絡めながら大いに受容されていった(5) 。
     では釈論のを見ると、「方便」・「正体」二種の金剛喩定が説かれるが、それらが何の思想に依るものなのか明確に解説されていない。この他にも金剛喩定に入る者(菩薩)より、高次の修行者を想定した独特な修行道論も示しているため、菩薩の修行道論にとどまらない独自の解脱観もあると推察される。
     これまで釈論の修行道論の検討では、有名な「五重問答」説示が中心に取り扱われ、中心思想とされる「不二摩訶衍法」との関係を論じるのが定番化し、金剛喩定と三十三法門との関連性が検討されてこなかったようである(6) 。
     筆者は、釈論が金剛喩定を説いた背景に小乗よりの思想であるー預流・一来・不還・阿羅漢の四向四果ー部派の思想を踏襲しながら、三十三法門で対象とする卵・胎・湿・化・声聞・縁覚・菩薩・如来と関連付け、それらの修行道論を二種の金剛喩定によって説明しようとしていると指摘したい。
     他にも釈論は金剛喩定に入る修行者を十地の菩薩とし、それより高次の者を如来と位置付け、さらには如来より高次の者として「能円満者」と説いていく。これらは部派の思想に基づきながらも同論の智慧と修行観に対する特有の視点が付加されていると見える。そして、ここで登場する「能円満者」とは三十三法門で絶対的な法とする不二摩訶衍法との関連を予想されるのである。
     つまり釈論は不二摩訶衍法とういうものを「能円満者」として描写しながら、三十三法門を中心とした独自の解脱観を示しており、本稿ではその点も指摘したいのである。そのように見れば、これまで不二摩訶衍法が仏の根源、あるいは絶対性のみをもつという面とは違う点を提供できるであろうと考えている(7) 。
  • ー明恵門下における密教の一様相ー
    小宮 俊海
    2017 年 66 巻 p. _129-_152
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
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        洛北栂尾山高山寺は、鎌倉時代初期を代表する学僧、明恵房高弁(1173~1232)(以下、明恵)の開山で知られる古刹である。明恵の思想または教学は、華厳と真言の兼修とされ、従来からその独自性が指摘されてきた(1)。また近年、明恵門下の弟子たちがいかにその華厳ならびに真言の両教学を高山寺やその他の寺院へ継承していたのかといった研究が進められ、後世の華厳教学や真言教学への影響が少しく解明されつつある(2)。
     順性房高信(1193~1264)(以下、高信)は、明恵の20歳年少にあたる高足の一人で、『解脱門義聴集記』や『光明真言句義釈聴集記(3)』など明恵の講説(4)に対する聞書の編纂や、『明恵上人歌集』や『高山寺明恵上人行状』といった文学作品や伝記資料の類聚に努めた人物である。主に高信は、明恵の華厳教学の継承者として高く評価されているが、晩年は丹州神尾山寺(現京都府亀岡市)を中興開山し、高山寺との往来を繰り返しながら精力的に著述活動に従事している(5)。
     なかでも『六大無碍義抄』2巻は、空海撰『即身成仏義』に対する注釈書の一つで、その書名からも了解するごとく冒頭所説の「六大無碍常瑜伽」以下に続くいわゆる二頌八句の各句に注釈を施すものである。高山寺に関わる学僧の中では空海の著作に対する注釈書として貴重な資料であり、高山寺に継承される真言密教を解明する上で看過することのできないものといえる。
     本書の構成は、上下2巻よりなり、巻上においては二頌八句の各句に対して逐文的に解釈され、巻下においては、それらの内容をもとに即身成仏に対して教学的解釈についての議論を展開している。
     既にいくつかの先行研究により各所に所蔵される『六大無碍義抄』の所在ならびに内容については紹介がなされている。しかし、その重要性については指摘されていながらも、資料的制約等により内容研究についてはあまり進展していないのが現状である。本稿では、それら先行研究に依拠しながらも今後、上下2巻全文の翻刻校訂、注釈研究の提示を目標にここでは巻上を中心に本文読解の一助にいくつかの内容について紹介したい。
  • ー安房長勝寺聖教にみる孝完房良恭ー
    橋浦 寛能
    2017 年 66 巻 p. _153-_168
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル オープンアクセス
        本稿では、孝完房良恭という智山学匠であり地方寺僧である僧侶の修学事例を提示することで、近世後期智山学侶の修学状況の一端を示したい。
     洛東智積院を含む新義真言宗団は、江戸幕府の教学振興策もあり、諸宗派と同じく談林を軸とした修学制度のもと成り立っていた。しかし近世中後期になると、時代に合わせて制度が改変(中下り制度)され、また修学軽視(不修不学)の風潮により、論議による研鑽という教学・制度上の根幹が揺らぐ(1)。この傾向は、諸宗派全体に及ぶものとされ、談林に基づいた修学制度は最盛期と比べると、明らかにその機能を低下させる(2)。
     この時代にあって、智積院では安房国僧侶が修学・寺院運営面で大きな役割を果たしたことが知られている。その安房国僧侶が宗団を支えた主因を探る過程の中で、安房長勝寺聖教を調査させて頂く機会に恵まれ、孝完房良恭という学匠の書写聖教を披見する機会に恵まれた。孝完房良恭書写聖教は、同じく安房国出身の江戸愛宕円福寺観如房元瑜(1756~1826)・京清和院大識房宥豊(1760~1824)・智積院第三十三世唯明房隆瑜(1773~1850)といった後の能化や学匠も書写している。この良恭は『智山学匠著書目録(3)』・『密教大辞典(4)』や「智山学匠略伝(5)」(『智山全書』所収)にも取り上げられているが、著名な存在ではない。しかしながら、そこには主に安房国において修学し、田舎門徒寺院住職であった僧侶が、智積院に再住することで、越前国三国滝谷寺・安房府中宝珠院という有力談林住職となり、触頭の一つである江戸愛宕円福寺の住職になるまでの略歴が記されている。
     本稿では、『陀羅尼惣名録』をもとに近世後期智積院の修学状況を概観した上で、安房長勝寺聖教を取り上げ、孝完房良恭の事績から地方寺僧の修学事例を提示したい。そしてなぜ安房国僧侶から多数の人材が輩出されるに至ったのか、その一端を考察したい。
  • 宇都宮 啓吾
    2017 年 66 巻 p. _169-_182
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル オープンアクセス
        真言宗における「新義教学の大成者」・「新義教学の祖」とされる頼瑜僧正(1226~1304)(以下、頼瑜)の著作については、森末義彰・市古貞次・堤精二編『国書総目録』(岩波書店 補訂版1989~2003)や小野玄妙・丸山孝雄編『仏書解説大辞典』(大東出版 1999)を始めとする辞典類、そして、近年においては奈良弘元「頼瑜僧正の著作をめぐって」(『新義真言教学の研究:頼瑜僧正七百年御遠忌記念論集』大蔵出版 2002・10)の如き先行研究において、その大凡を伺うことが可能となっている一方で、実際の典籍として、頼瑜が修学の過程で書写・訓読等を行なった、その具体的な典籍については未だ全容を確認し得ているとは言えない現状にある。しかし、稿者が悉皆調査を行なっている真言宗智山派総本山智積院新文庫の如く、近年では諸所において聖教調査が行なわれており、それらの調査の中から新たな文献が発見されることも期待でき、今後の調査や報告が俟たれるところである。そして、此の度発見された『秘蔵宝鑰抄巻下』についても、従来、その存在が指摘されていない新たな頼瑜筆の写本として提示することができる。
     本稿では、本書の紹介、並びに、本書に施された訓点を手懸かりとした頼瑜周辺における漢籍訓読を巡る問題についても言及してみたい。
  • ー特に止観を中心としてー
    中村 本然
    2017 年 66 巻 p. _183-_214
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル オープンアクセス
        『大乗起信論』(以下、起信論と略す)は修行に関して、「分別発趣道相門」と「修行信心分」に重複して語られる構造となっている。即ち「分別発趣道相門」中に大乗仏教を代表する六波羅蜜行を説示し、「修行信心分」にも五門(施門・戒門・忍門・定門・止観門)からなる修行論を展開する。
     『釈摩訶衍論』(以下、釈論と略す)の修行論解釈には、本論である『起信論』の事情に配慮する対応がみられる。『釈論』の論主は、分別発趣道相門(1)に開かれる三種発心中の信成就発心については詳細なる注釈を施しながら、六波羅蜜行を明かす解行発心、真如の内実を紹介する證発心に関しては「文相、明らかなるが故に重釈を須いず(2)」と意識的に触れることをせず、言及を回避する姿勢をみせる。
     此のたびの報告では、『釈論』の修行論の特徴について、特に『釈論』が独自の理解を披露している修行信心分中の止観門に注目する。『釈論』は止観門の注釈に際して『起信論』の註疏の中でも、元暁(617ー686)の『起信論疏』を重視する様子が見受けられる(3)。
     併せて『釈論』の提唱する修行論と弘法大師空海(774ー835)が構築する真言密教との類似性についても検討することにしたい。
  • ー悲しみを癒すためのアプローチー
    片野 真省
    2017 年 66 巻 p. 1-18
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル フリー
        大いなる海原に白い船が漂う。陽は高く紺碧の空から光を降りそそぐ。入り江の向こうには岬が連なり、その丘の辺には白い墓が遥かに見え、深紅の花が岩の間に咲いている。青い大海に白い波が立ち、その波音は水平線の彼方にまで響いていくようである。そんな光景を謳った混声合唱曲がある。堀田善衛作詞、團伊久磨作曲の「岬の墓」である。筆者が学生時代に出逢った作品だが、この合唱曲の光景が、平成 28 年の夏に訪れた伊豆で海を眺めながらふと蘇り、しばし思いに耽り、気が付けば口ずさんでいた。海が見える丘にある墓。この墓には誰が眠り、今もここにあるのか?……と。
     そして、八木重吉作詞、多田武彦作曲の男声合唱組曲「雨」の中、最後に「雨」という小曲がある。
      雨のおとが きこえる
         雨が降っていたのだ。
      あのおとのようにそっと
         世のためにはたらいていよう。
      雨があがるように
         しずかに死んでゆこう。
    たった 6 行の詩である。自然の只中でくり返される生の営み。生きとし生けるものの営みはその一つ一つが尊く、そのいのちはかけがえのないものである。しかし、その小さな生の営みは、大自然の中で数限りなく存在し、それが幾重にも積み重なってゆく。だから、くり返される無数のいのちの営みには何の意味も遺りはしないように、つい思えてしまう。
     ところで、我々寺院のより所となる「無上甚深微妙の法」を受け継ぐ存在にとっては、人の死と埋葬・墓地の問題はこの現代社会において最も切実であろう。特に檀信徒の死の報を伝えられた瞬間より、葬送儀礼に意を尽くす使命を負うことになる。これまでに「散骨」「樹木葬」から「直葬」さらにはネットによる「葬送儀礼の値付け」「派遣僧侶」など。およそこの四半世紀足らずで、葬送儀礼と埋骨の事情は「あっ」という間に劇的に様変わりした。ただ、劇的に様変わりしたと感じるのは、寺檀関係や死生観に無頓着なまま、今この状況を迎えている寺院の側の事情である。「葬式は要らない」を冠した冊子を目にして、ただ苛立ち怒るだけの僧侶たちの理由なき嘆きとも言える。そして、それは仏教の幾多の祖師、先徳のおこぼれを頂いてきた成れの果てとも言えるだろう。果実は熟れて地に堕ち、しかし、それは大地の恵みとなり、自然の循環に寄与できるのか。寺院の本質的な役割と新しい寺檀関係の構築は、ここに至って、今まさに転換期の最終章にある。
  • 金本 拓士, クンチョック シタル, 佐々木 大樹, 駒井 信勝
    2017 年 66 巻 p. 19-46
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル オープンアクセス
        本論文は、『蘇悉地羯羅経』(Legs par grub par byed pa'i rgyud chen po las sgrub pa'i thabs rim par phye ba: Susiddhikara- mahātantra- sādhanopāyika -patala)第8章 「花の特徴の章」(me tog gi mtshan nyid rim par phye da:漢訳名「供養花品」)チベット語訳校訂テキスト及びその現代語試訳である。
     これまで本経典のチベット語からの翻訳研究については、第1章と第2章を高田順仁氏によって発表されている(その他参考資料に提示)が、未だ全訳を見ることができない。
     蘇悉地羯羅経共同研究会は、本経典が初期密教を研究していくために、また真言宗の事相を理解していく上で、欠くべからざる基礎研究であるが故に、その全体像を把握することを目的として立ち上げた。
     今回は現在翻訳作業を進めている中で、第8章を選択して発表することにした。それは論文枚数の問題もあるが、本章を翻訳することによって、漢訳との比較をし、チベット語訳において省略されている具体的なサンスクリット語の花の名称を確定することが可能であること。またロルフ・ギーブル氏が「『蘇悉地經』には、花・塗香・焼香・然燈・飲食の五種供養(pañcopahāra)を行う際・・・」1と述べられているように五種供養の第1番目の供養物の具体的な内容を知ることができることによる。
     さらに、これまでの仏教学研究が思想的な側面から論じられることが多い中、密教の事相を考えていく場合、具体的な供養物の名称を確認することによって、それぞれの仏菩薩世天に、どのような供物を奉献しなければならないのかを知るための一助ともなるだろう。
  • ー『ヴァジュラダーカ・タントラ』第19章試訳ー
    杉木 恒彦
    2017 年 66 巻 p. 47-64
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル フリー
    This paper presents an annotated Japanese translation of the Sanskrit text of the Vajradākatantra Chapter 19. In 2016, I have published a critical edition of the Sanskrit text of that chapter in my paper titled ‘A Mandala and Sādhana Practices of Mundane Deities in the VajradākatantraーA Critical Edition of the Vajradākatantra Chapter 19’ in Journal of Chisan Studies 65. I have used that text for the translaion.
  • 松本 亮太
    2017 年 66 巻 p. 65-80
    発行日: 2017年
    公開日: 2018/10/20
    ジャーナル オープンアクセス
        Sarvabuddhavisayāvatārajñānālokālamkāra(以下『智光明荘厳経』)とは、如来蔵̇思想を理論的に確立したとされる『宝性論』で重要な役割を果たした1)ことで知られる経典である。梵本、チベット訳、漢訳三本が存在し2) 、そのうち僧伽婆羅等訳のみ大幅に分量が少なく(四分の一程度)、それが原型に近いもので、そのほかのものは、大きく増広されたものであると考えられている3)。増広された後のものの中では、曇摩流支訳のみ讃仏偈の数が少ないということ以外、正宗分については多少の出入りはあるものの、分量、内容ともにそれほどの差異は見られない。また、『智光明荘厳経』は、『華厳経』の「宝王如来性起品」(以下『性起経』4))の影響を受けて成立した経典であるとされている5)
     この『智光明荘厳経』の内容を扱った主な研究としては、中村[1953]、高崎[1974]、島村[2009]などが存在する。この中で中村、高崎の研究に関しては、『宝性論』による『智光明荘厳経』の解釈を軸として展開されたものであり、如来蔵思想を確立させるという『宝性論』の意図を含んだ視点からのものとなっている。また島村の研究は、『智光明荘厳経』に説かれている内容を三身説の視点から論じたものである。以上の先行研究は、いずれも後の教理の視点から解釈を施したものであり、『智光明荘厳経』そのものの思想は十分に議論されていない。そこで本経の中心となる教義について改めて考える必要がある。
     本稿では、第1章にて『智光明荘厳経』の内容考察を行い、第2章にて類似した教説を持つといわれる『性起経』との比較を行う。それによって、『智光明荘厳経』の思想の特色などを明らかにすることを目的とする。
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