フォーラム現代社会学
Online ISSN : 2423-9518
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8 巻
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特集Ⅰ 被爆がもたらす〈意味〉の現在―戦争体験の社会学という視座―
  • 沢田 善太郎
    2009 年 8 巻 p. 3-4
    発行日: 2009/05/23
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
  • 森田 裕美
    2009 年 8 巻 p. 5-12
    発行日: 2009/05/23
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    1945年8月6日、広島に投下されたたった一発の原爆は、いったいどれだけ人を苦しめたら気が済むのだろうか-。被爆地・広島の新聞記者として、六十数年を経た今なお続く苦しみや悲しみに触れ、「被爆体験」が発する今日的意味を問い続けている。世の中の事象に、ある切り口から光を当て、文字にし、短い記事の中で分かりやすく伝えるのが新聞記者の仕事だ。ただ、焦点を絞れば必ずあふれてしまう「断片」があり、ある言葉に「集約」すれば、見えなくなる「本質」もある。数々の「声」は、伝える過程で、「被爆者」や「ヒロシマ」などの言葉に集約されていく。伝える上で避けられない作業でありながら、原爆がもたらしたとてつもない「人間的悲惨」に迫れば迫るほど、表現しきれないもどかしさに苦闘する。しばしば和解の象徴として語られる被爆者は、本当に「憎しみを捨てている」のか-。被爆者でなければその記憶は継承できないのか-。記者が抱える日々の葛藤を通じ、「被爆体験」を継承する可能性を考える。
  • 直野 章子
    2009 年 8 巻 p. 13-30
    発行日: 2009/05/23
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    本稿では、<被爆者>という主体位置が医科学・法言説によって産出され、それら言説の発話テクノロジーが<被爆体験>の語りを規定した様相を描く。さらに、<被爆者>が「平和の証言者」として主体化されるなか、どのような語りが後景へと消えていったのかについて、言説分析的な手法をとりながら考察する。法的主体である<被爆者>となるには、「どこで被爆したのか」と「いつ被爆地に入ったのか」という空間・時間的な基準をもとにした「放射線被害の蓋然性」が決定的な要素となる。爆心地からの時空間的な距離は、国家に承認されるときのみならず、誰がより真正な<被爆者>であり<被爆体験>を語る資格を有するのかという序列化の力としても強力に作用していく。さらに、<被爆体験>の語り手は、同心円のイメージに規定された<被爆者>としてだけでなく、「平和の証言者」としても主体化されていく。それらの主体位置を占めずして語ることは、「被爆証言」としては聞きとられないことになるということを、占領下に執筆され、後に正典として読まれ継がれていく『原爆体験記』と『原爆の子』から読み解いていく。
  • 八木 良広
    2009 年 8 巻 p. 31-42
    発行日: 2009/05/23
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は、体験継承の実践の一つとして遂行されてきた被爆体験の語りについて再考することにある。原水爆禁止運動誕生以来、核廃絶の社会や国家補償に基づいた援護政策の実現などを目指し行われてきた被爆体験を語るという実践は、一方では実際に多くの理解者、支援者をうみながらも、他方では主に非被爆者の無理解や、「体験の聖性と特権性」「特権意識」といった批判にさらされてきた。近年体験世代の語り手の高齢化及び死から実践が不可能になりつつあることに対して次世代へ継承するという意味合いがより顕著になってきているが、ここでは改めて語る側に着目し後者の無理解や批判を参照しながら体験の語りを捉えることで、被爆者が一貫して取り続けてきた原爆死没者に対する一つの姿勢を浮き彫りにする。それは語りがいかなる付置状況で行われているかを示す重要な要素である。これを考察するに際しては被爆者運動の前線で活躍している一人の被爆者のライフストーリーを参照項としている。
  • 高橋 三郎
    2009 年 8 巻 p. 43-44
    発行日: 2009/05/23
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
  • 好井 裕明
    2009 年 8 巻 p. 45-47
    発行日: 2009/05/23
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
特集Ⅱ 環境メディアの誕生と社会
  • 田中 滋, 井上 眞理子
    2009 年 8 巻 p. 48-51
    発行日: 2009/05/23
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
  • 丸山 康司
    2009 年 8 巻 p. 52-63
    発行日: 2009/05/23
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は、環境問題の両義性を明らかにすると同時に、その背景となる不確実性と規範性の相互作用を明らかにすることである。また、こうした現状を踏まえて社会学が果たすべき役割について検討した。まず、社会問題としての環境問題の特徴として、(1)因果関係を構成する要因の拡散、(2)事実関係の不確実性、(3)不可逆的変化への危惧、が存在することを指摘した。このため、不完全情報に基づいて社会的な意思決定を行わざるをえず、逆説的に規範性を帯びてくる。その結果、環境言説には抑圧と解放という両義的な性格が存在する。前者の事例として、環境問題に対する個人の当事者意識をとりあげ、問題そのものへの責任が相対的に少ないにもかかわらず、「一人一人のこころがけ」といった規範が存在することの問題点を指摘した。後者の事例として、中山間地の地域再生などの取り組みをとりあげた。そこでは環境言説を取り込むことによって、地場産業の活性化など多様な便益が発生していることを市民風車事業などの事例にもとづいて明らかにした。以上のような両義性と同時に、環境リスクに対する反証可能性の問題ゆえに環境言説そのものを全否定することは困難であると指摘した上で、社会学が果たしうる役割について考察した。環境言説に伴う同調圧力や権力性を批判するという従来の役割に加えて、社会に対して能動的にかかわる社会実験的な役割を指摘した。
  • 中島 弘二
    2009 年 8 巻 p. 64-75
    発行日: 2009/05/23
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    本稿は近年の英語圏の人文地理学における「社会的自然」研究の視点を援用して、戦後の造林ブーム期に大分県で展開された国土緑化運動において生みだされた「みどり」の自然を批判的に読み解いていく作業をおこなった。自然をさまざまな主体間の力関係のもとで社会的に構築される媒体としてとらえる「社会的自然」研究の視点は、支配的な諸制度と結びついてメディア化した現代の環境を批判的に理解するうえで有効であると考えられる。こうした視点に基づいて、1950年代の造林ブーム期における大分県の国土緑化運動を自治体や緑化推進委員会が推し進めた「緑化の政治学」、人々をその担い手として取り込みながら県内各地で展開された「緑化のパフォーマンス」、そしてマスメディアによってうみだされた「緑化の表象」の三つの局面から分析し、それらの諸局面を通じてうみだされた種別的な「みどり」の自然を批判的に検討した。その結果、記念植樹や造林を通じてうみだされた「みどり」の自然は単にスギ・ヒノキの人工林の景観を山林原野にうみだしただけでなく、そうしてうみだされた景観を舞台として人々を緑化の担い手へと駆り立て、さらにメディアを通じて「あるべき」自然を再構成していくという一種の自己準拠的なシステムとして作用したことが明らかとなった。
  • 寺岡 伸悟
    2009 年 8 巻 p. 76-84
    発行日: 2009/05/23
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    近年の<食>をめぐる関心は、流通のあり方や生産地である農山漁村に人々の眼差しを向けさせている。その結果、農山村はこれまでの「過疎地」といったイメージに加え、その環境について-食の安全性などとともに-語られることが増えた。これまでの日本の農業は生産力中心主義(「農業の工業化」)のうえで展開してきたとされる。近年、その反省、価値観の転換が、環境意識の高まりと結びつき、産地のありようを積極的に呈示する農業への変化を促したとされる。本稿では、ある果樹の大産地の歴史を、村の人々が経た経験に着目しつつ振りかえり、上記のように通常解釈される過程をあらためて再考しようとする。こうした変化を本稿では、消費主義や情報化が深化していくなかで、農産物が生来的なローカルコンテクストから引き離され、一種のメディア化する過程、または情報的環境とでもいうべきあらたな意味空間が生まれる過程として捉えてみたい。事例紹介に続いて、情報社会論の知見から「メディア」概念について再考したあと、現代社会において、<環境>がふたつの次元-一一つは、コンテクスト型メディアとしての環境、いま一つは、そこにおいて選択される価値の高いコンテンツとしての環境-で大きな存在感をもっていることを指摘する。
  • 湯川 宗紀
    2009 年 8 巻 p. 85-87
    発行日: 2009/05/23
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
  • 平岡 義和
    2009 年 8 巻 p. 88-91
    発行日: 2009/05/23
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
論文
  • 岡 京子
    2009 年 8 巻 p. 92-104
    発行日: 2009/05/23
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    日本における高齢者介護施設では「全人的介護」という理念の導入、さらに公的介護保険制度開始による市場化の流れによって脱アサイラム化が図られることとなった。新しい介護理念と市場論理という2つの相反する要求の狭間に立たされたケアワーカーの労働は、措置時代の大規模処遇における労働に比べ、大きく変化していることが予測される。今回、高所得者が入居し職員から「VIPユニット」とよばれているユニットケアの場において参与観察を行いA.R.ホックシールドが見出した「感情労働」の観点からケアワーカーの労働を考察した。その結果、利用者の生活においては、かつてみられたようなアサイラム的状況が薄まり、利用者が人として尊重される部分のみならずケアワーカーと利用者のせめぎあいの場面の誕生という側面があるという事実が見出された。そしてケアワーカーの労働においては、利用者個々の自尊心を支え、かつ利用者間の関係を調整するために、またユニットの統制をとるためにも、自己の感情管理と同時に他者の感情管理技能としての「気づかい」が相即的になされている事実が見出された。
  • 田崎 俊之
    2009 年 8 巻 p. 105-119
    発行日: 2009/05/23
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    現在、日本酒製造の担い手は季節労働者(杜氏や蔵人)から社員技術者へ転換してきている。本稿では、京都市伏見の日本酒メーカーに勤める酒造技術者へのインタビューを通して、彼らがどのようなつながりのなかで技術の習得や継承を行なっているのかを明らかにし、伝統的な杜氏制度と社員体制との間の連続性と変化について検討する。また、分析に際しては実践コミュニティ概念を手がかりとすることで、フォーマルな組織の枠をこえた技術者仲間のつながりを把握するよう努めた。社員技術者らは、日本酒メーカーの社員であるとともに、技術者たちが形成する企業横断型の実践コミュニティにも参加している。つまり、日本酒製造の担い手が企業に内部化されても、なお企業の内部では完結しない集合的な酒造技術の習得過程が存在している。他方で、社員技術者らの実践は個人的なつながりを基盤とした相互交流へと深化していた。これは、彼らが勤務先である日本酒メーカーをはじめ、技術者の団体やインフォーマル・グループなど複数の所属性をもつことによる。企業横断型の実践コミュニティは日本酒メーカーが当然求めるべき「企業の利益」と産地内での協調という「共同の利益」の両立にせまられており、社員技術者らは相互交流の複数の位相を用いることでこれを可能にしている。
  • 戸江 哲理
    2009 年 8 巻 p. 120-134
    発行日: 2009/05/23
    公開日: 2017/09/22
    ジャーナル フリー
    本稿では、乳幼児をもつ母親たちが、自分たちの子どもの様子を語り合うなかで、お互いの関係性を、作り上げ、維持し、場合によっては発展させていく様子を明らかにしていく。ここで取り上げる会話データは、大阪府下のとある子育て支援サークル(政府事業「つどいの広場」受託)で収録されたものだ。この場所で、母親たちは、友達の母親ばかりでなく、初対面の母親とも絶えず出会うことになる。したがって、お互いの関係性をやりくりしていくことは、彼女たちにとって大きな課題であるはずだ。そこで本稿では、ふたつのタイプの会話、すなわち親しい母親たちの会話と初対面の関係をふくむ母親たちの会話を分析し、彼女たちが、お互いの関係性に注意を払いながら、子どもの話をしている様子を明らかにする。また、後者の会話では、話を聞いていた母親が、タイミングを見計らって、話をしている母親と同じ経験をもつことを伝える。このことは、初対面の母親たちが距離を縮めるひとつのきっかけとなっている。以上の分析を通じて、こうした母親どうしの「他愛のない」会話がしかし、関係上の問題をやりくりし、子育て支援サークルの雰囲気を作り上げる上で見過ごせない役割を果たしていることを明らかにしていく。最後に、分析を踏まえて、育児サポートとしての子育て支援サークルの役割について若干の検討を行う。
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編集後記
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