日本橋学館大学紀要
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7 巻
選択された号の論文の9件中1~9を表示しています
  • 勝野 まり子
    原稿種別: 本文
    2008 年 7 巻 p. 3-12
    発行日: 2008/03/01
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
    「春の陰影」(1914)は、D.H.ロレンスの初期の短編小説の一つであるが、次の3つの理由から注目に値する作品である。彼自身の手によって改稿や改題が入念に6回なされた後で現在の形で出版されたこと、彼の主要な長編小説の世界と類似する世界を展開していること、そして、そこには30種類もの植物が異なる2通りの<象徴>的な形で登場することである。最後の点が、特に興味深いものである。この小論では、「植物描写における象徴の二重性」と「直感」という、密接に関係し合う2つの観点から「春の陰影」を考察する。その「植物描写における象徴の二重性」を簡潔に述べると、次のようになる。作者は、多くの種類の植物が持つ宗教上および民俗上の伝統的な<象徴>を意図的に用いて、作品の登場人物間の人間関係とプロットを暗示させ、それらを語りによって裏付けする。他方では、彼は幾つかの場面で植物を美しく生き生きと描く。そこでは、主人公サイソンは思考とは無縁に植物の美に深く感動する。それらの生き生きとした植物描写は、読者の五感にも訴えかけ、1つに結びつき、ついには1つの<象徴>を生む。そこには、それぞれの植物を個別に<象徴>として描こうとする作者の意図は見出せない。しかし、小説全体を通してみると、それらの幾つかの植物描写は一つの<象徴>となっている。それは、過ぎ行く時、春の中で土に育まれる植物と1人の女性の輝かしい生命を<象徴>している。そのような植物の二重の<象徴>は、旨く働き合い、これもまた作者の語りによって裏付けされながら、テーマを伝える。それは土に育まれるどんな生命も等しく賞賛され、それぞれがそれぞれの世界を持ち、その独自の世界は他の何ものによっても踏み込まれるべきではない、というテーマである。さらに、「植物描写における象徴の二重性」には、この作品の価値に加えて、ロレンスの作家としての豊かな才能も見出される。その<象徴>における二重性の1つは、宗教上および民俗上の伝統的なものであり、人間関係とプロットを暗示させるために意図的に用いられている。そして、それは作者が小説を書くための熟練した技と博識を有する並外れて知的な英国人作家であったことを伝える。他方では、幾箇所かでなされる生き生きとした植物描写全てが結び付き、1つの<象徴>を生み出す。それは、作者が豊かな「直感」を備えた人であったことを伝える。「直感」によって、人は誰でもどんな生命の輝きをも真に知ることができる。作者は「直感」によって、ありとあらゆる生き物の生命の輝きを認識し、「春の陰影」の主人公であるサイソンと彼のかつての恋人ヒルダも、「直感」によってそれらを認識することができる。今日、世界中で欧米化が極限的な状況にまで広まっている。それは、人間の経済的な発展をもたらしたが、同時に、あらゆる生命に大きな苦しみをもたらしている。約百年前に、英国人であるロレンスは、欧米文化を「直感」に欠くものとして批判し、「直感」が世界の望み多き将来への鍵であると信じた。我々も、知性や伝統的な知識を最善に生かしながらも、他方で、我々の「直感」を再生させることによって、そのような苦しみを軽減できるように思われる。これが「春の陰影」が我々に示唆することである。
  • 金山 弘昌
    原稿種別: 本文
    2008 年 7 巻 p. 13-38
    発行日: 2008/03/01
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
    ジャック・カロ(1592-1635)は作家歴のもっとも重要な時期をフィレンツェで過ごした。この都市では大公コジモ2世の下、各種の上演物と密接に結びついた文化が花開いていた。このフィレンツェでカロは、建築家にして舞台美術家であるジュリオ・パリージの下でエッチングと透視図法の技法を学んだ後、版画家として大公に仕え、宮廷で催された祝祭や上演物を描いた多数の作品を制作した。本論文では、カロの芸術とフィレンツェの上演芸術の関係を、とりわけ以下の三つの観点から考察したい。第一は、カロがジュリオ・パリージやメディチ宮廷の劇場的環境で過ごしたフィレンツェ時代の社会的文化的側面、第二はカロの上演芸術の図像における様式的発展とその特異性、第三は、上演芸術の実際の描写におけるカロの方法論的・レトリック的革新性についてである。分析を通して示したいのは、カロが描く舞台が単に写実的でも空想的でもなく、まことらしい、理想的な舞台の姿だということである。遠近法のさまざまなトリック、一見して上演物と無縁に思われる小さな人物像の集団、非常に複雑で曖昧な劇場の内部環境、つまりカロの作品の特異とされる要素の全てが、実際には、まことしやかな舞台空間を再現するための手段なのであり、作品の観者に臨場感を与えるための手段なのである。
  • 小林 大二, 庄子 洋平, 山本 栄
    原稿種別: 本文
    2008 年 7 巻 p. 39-48
    発行日: 2008/03/01
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
    複雑で大規模なシステムは、人間の操作に対する応答の遅れが大きいため、制御が難しいと言われている。このようなシステムの手動制御に関しては、オペレーターのスキル獲得とパフォーマンスとの関係が検討されてきた。一方、先行研究では背景脳波に基づいてスキル獲得と精神変動との関係を明らかにしている。そこで本研究では、シミュレーターを用いてオペレーターが制御困難な状態に陥った際のθ波成分(4〜8[Hz])の電位を調べ、その時の精神変動を明らかにすることとした。試行中の被験者の背景脳波は、国際式10-20法に基づいて測定した。また、被験者は19歳から23歳までの男子12名とした。実験の結果、制御困難に陥った試行ではθ波電位が有意に高くなることが判った。この結果についてθ波に関する知見に基づいて検討したところ、制御困難に陥ると状況を評価しようとするために精神集中が高まることが示唆された。
  • 古山 英二
    原稿種別: 本文
    2008 年 7 巻 p. 67-80
    発行日: 2008/03/01
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
    新古典派経済学理論の三大前提条件、即ち完全競争、情報の対称性、行為者の合理性のうち、最後の前提条件は、経済学以外の分野からの批判はあっても、経済学自身の側からの批判はなかった。2002年のアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞受賞者の一人、ダニエル・カーネマンは一貫して経済行為者の非合理性に関する理論を提唱し、彼の理論を裏付ける実験を行ってきた。カーネマンによれば経済行為は合理性よりも直感に依拠する場合が多いという。本論文はカーネマンの理論と実験の内容を短くレヴィユーした後、カーネマンの見解を直近の脳科学(neuroscience)、特にジェラルド・エーデルマンによって提唱されている神経細胞群選択説を参考にしつつ、吟味するものである。
  • 柳沢 孝子
    原稿種別: 本文
    2008 年 7 巻 p. 81-90
    発行日: 2008/03/01
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
    宇野浩二の小説『思ひ草』は、作者自身の体験を基にして、戦中・戦後における日常生活を描いた作品である。この小説は、単独に発表された三作品「浮沈」「思ひ草」「思ひ出の家」を、複雑につなぎあわせる形で完成されている。 本稿では、まずこれらの初出作品と、完成稿『思ひ草』との比較をおこなう。次に、宇野浩二の日記を参照しながら、モデルとなった実体験と小説との違いを探り、宇野が『思ひ草』に抱いた創作意図がどのように具現化されているかを検討する。
  • 末松 渉, 柴原 宜幸, 小林 大二
    原稿種別: 本文
    2008 年 7 巻 p. 91-101
    発行日: 2008/03/01
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
  • 中西 はるみ
    原稿種別: 本文
    2008 年 7 巻 p. 103-109
    発行日: 2008/03/01
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
  • 長澤 泰子, 太田 真紀
    原稿種別: 本文
    2008 年 7 巻 p. 111-120
    発行日: 2008/03/01
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
  • 塩月 亮子
    原稿種別: 本文
    2008 年 7 巻 p. 49-65
    発行日: 2008/03/01
    公開日: 2018/02/07
    ジャーナル オープンアクセス
    本稿では、沖縄における死の変容を、火葬の普及、葬儀社の出現、葬儀時の僧侶への依頼という3つのファクターから考察することを試みた。その結果、沖縄では近代化が進むなか、特に1972年の本土復帰以降、火葬場が多数設置されて火葬が広まり、土葬や洗骨の風習が廃れていったこと、および、今ではその多くが入棺が済むとすぐ火葬場へ行き、そこに隣接する葬祭場で告別式をおこなうという順番に変わったことを明らかにした。また、葬儀社の出現が、葬儀の均一化・商品化、仏教との提携をもたらしたことを指摘した。さらに、このような変化は、伝統的に死の世界を扱い、憑依などを通して人々に生々しい死を提示してきた民間巫者であるユタと、それらの慣習を否定し、新たに死の領域に介入し始めた僧侶との深刻なコンフリクトを生じさせていることも示した。沖縄におけるこのような葬儀の本土化・近代化は、すべて生者の側からの利便性・効率性の追求、換言すれば、死者や死の世界の軽視にほかならない。そのため、沖縄でも、これまでみられた生者と死者の密接な関係が失われ、今後は日本本土と同様、死の隠蔽・拒否が強まるのではないかということを論じた。
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