本論では,メンタライゼーションと間主観性という二つの概念を援用して,臨床場面における「わかる」ということについて改めて考察する.患者やクライエントを診療したり支援したりするとき,われわれは「わかる」ことを当然のことと考える.しかし,土居健郎は「わかったつもり」に陥る危険性について言及した.間主観性を提唱したStolorow, R. D.やメンタライゼーション概念を提唱したBateman, A. W.とFonagy, P.はさらに一歩進んでわれわれには患者・クライアントのこころそのものは「わからない」とした.この「わからない」ということはわれわれの「わかる」能力の限界を示すが,一方でそれは治療の限界を示すものではない.「わかる」ことに伴う治療的機能は,「わかる」こと自体ではなく,「わかろう」とする,その態度に宿る.この考察を通して,「わかる」能力の限界を適切に認識することが,われわれが患者・クライエントにより多く貢献できる可能性を高めることを明らかにしたい.
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