日本近代文学
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95 巻
選択された号の論文の35件中1~35を表示しています
論文
  • ――小村雪岱の装幀から泉鏡花『日本橋』を見る――
    富永 真樹
    2016 年 95 巻 p. 1-16
    発行日: 2016/11/15
    公開日: 2017/11/15
    ジャーナル フリー

    泉鏡花『日本橋』は書き下ろしのかたちで大正三年九月に刊行されたが、その装幀を担当したのは日本画家・小村雪岱である。本論の目的は小説、装幀の分析を通し『日本橋』の書物としての意義を考えることにある。鏡花による小説「日本橋」は女たちが重なり合うことによって展開する作品であるが、そこには女たちの「情」への意志があった。雪岱による見返し、表紙・裏表紙は一見すると自律したものとして成立している。しかし小説と照らしあわせてゆくことで、雪岱が特定の場面を描くことを避け、物語が持つ論理そのものの風景を描いていることがわかる。書物史に名を残す鏡花・雪岱の『日本橋』は、作品の論理及び時空を、見事に書物というモノとして体現してみせたのである。

  • ――江戸川乱歩『陰獣』とジャーナリズム――
    井川 理
    2016 年 95 巻 p. 17-32
    発行日: 2016/11/15
    公開日: 2017/11/15
    ジャーナル フリー

    本稿では、一九三〇年前後の犯罪報道に用いられた「陰獣」という語が変態的な犯罪者を指す語として転用されていく過程に、『陰獣』を含めた同時期の探偵小説と、乱歩を中心とする探偵小説家の位相の変遷が関わっていたことを明らかにした。さらに、『陰獣』において探偵小説家・大江春泥を「犯罪者」として実体化していく「私」の在り様が、探偵小説家を現実の犯罪の「犯人」と同一視する探偵小説の読者と相同的なものであったことを指摘した。以上のことから、『陰獣』にはテクスト発表以降に顕在化するジャーナリズムと探偵小説ジャンルの連関が先駆的に描出されるとともに、そのテクストの流通プロセスが探偵小説のジャンル・イメージの生成動因としても作用していたことが明らかとなった。

  • ――空間に生起するもの――
    野田 直恵
    2016 年 95 巻 p. 33-48
    発行日: 2016/11/15
    公開日: 2017/11/15
    ジャーナル フリー

    明治時代、西洋の象徴主義は仏教を介して日本人に受容された。岡本かの子はこうした時代に、「生命は体験を通して、象徴的手法で、具体化出来る」という創作指針を見出した。だから、この作品に示された「椽先」は世界の縮図となっている。椽先には花などが置かれ、それらを強い光が照らし出す。そして、この「シーン」が幻想詩派たちを喜ばせると主人公は語る。このシーンが「法華経」に拠ったものだからである。豊かな比喩によって生命の実態を説くのが「法華経」である。この作品を読む幻想詩派たちはこのシーンに象徴される普遍的な生のあり方をやがて見出す。かの子は幻想詩派の視点で仏教的比喩を用い、生命の姿を示したのである。

  • ――花田清輝の〈鉱物中心主義〉的モティーフと〈革命〉のヴィジョン――
    藤井 貴志
    2016 年 95 巻 p. 49-64
    発行日: 2016/11/15
    公開日: 2017/11/15
    ジャーナル フリー

    花田清輝は昭和二十四年に発表した「ドン・ファン論」において、「近代の超克」を果たす為には〈人間中心主義〉から〈鉱物中心主義〉へのパラダイムシフトが不可欠であると記している。疎外された〈人間〉の主体性の回復に躍起になる同時代の〈主体性論争〉を挑発するかのように、花田はむしろ「おのれ自身を、客体として、オブジエとして、物体として」(「わが物体主義」)捉える必要性を強調し、自動人形や動く石像、あるいは〈物〉に化していくプロレタリアートといったモティーフを〈鉱物中心主義〉のもとに変奏していく。本論は、〈物〉になる〈人間〉という一見疎外論的なイメージを逆手に取り、謂わば〈人形〉のような非-主体を立ち上げることによって画策された花田の〈革命〉のヴィジョンを横断的に追跡し、その可能性を再検討する試みである。

  • ――論理化しないという論理――
    宮崎 真素美
    2016 年 95 巻 p. 65-80
    発行日: 2016/11/15
    公開日: 2017/11/15
    ジャーナル フリー

    鮎川信夫が「「アメリカ」に関する覚書」(「純粋詩」昭22・7)で提出した「一つの中心」という観念は、他者のフレーズを貼り合わせるようにして成立した詩篇「アメリカ」とともに、確たるイメジを結ばない。それゆえ、そのことの持つ意味についても、これまで十全に捉えられてはこなかった。本論では、鮎川らと同じくT・S・エリオットの歴史観に影響を受けた西田幾多郎が、戦時体制下に提示した「矛盾的自己同一」を補助線とすることで、「一つの中心」があえて論理化されず、あらゆる矛盾をそのまま差し出すための、いわば意思ある余地として機能していることの意義を明らかにした。

  • 松田 潤
    2016 年 95 巻 p. 81-96
    発行日: 2016/11/15
    公開日: 2017/11/15
    ジャーナル フリー

    本稿は、清田政信の詩的言語において「存在」とは異なる「非在」というイメージが、どのように表出させられているかを明らかにするものである。清田はシュルレアリスムに多大な影響をうけつつも批判的に継承し、現実と虚構を接近させることで非在のイメージを生み出すことを目指した。またこの非在のイメージの表出によって清田は失語に陥るが、三年の詩の絶筆を経て日本語と沖縄方言の相互規定的な結びつきを行為遂行的な「言葉になる」という運動によって転覆させていく。さらに同時期の詩論において、「共同体の不在」を共有するのみの「個人性」という非主体的な主体のあり方を、戦死者たちとの連帯の場として思考したことの意味を問い直す。

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