日本近代文学
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96 巻
選択された号の論文の30件中1~30を表示しています
論文
  • ――日清戦後の「文学」の中で――
    田部 知季
    2017 年 96 巻 p. 1-16
    発行日: 2017/05/15
    公開日: 2018/05/15
    ジャーナル フリー

    本稿では、明治三十年前後の虚子俳論を日清戦後という時代相の中に布置し直し、その曲折の実態を明らかにした。当初俳句を叙景詩と定位していた虚子は、「大文学」待望論が加熱する日清戦後文壇の中、次第に人事句や時間句を支持し始める。そうした複雑な表現内容の追求は、定型を逸脱した「新調」を招来するが、虚子はその背後で俳句形式からの「蝉脱」をも提唱していた。当時の虚子は俳句を「理想詩」として擁立することに挫折した反面、自立化が進む新派俳壇において指導的な地位を確立していく。虚子が明治三十年中頃に至って定型へと回帰していくのも、そうした彼を取り巻く状況の変化に起因すると考えられる。以上の動向を描出することで、俳句というジャンルの通時的な実体性を批判的に問い直す、俳句言説史の一端を提示した。

  • ――小説から戯曲へ――
    植田 理子
    2017 年 96 巻 p. 17-32
    発行日: 2017/05/15
    公開日: 2018/05/15
    ジャーナル フリー

    泉鏡花最初の戯曲「深沙大王」は、明治三七年九月本郷座での新派合同劇のために書き下ろされた。鏡花の小説「水鶏の里」をもとにした「深沙大王」は、社に物の怪の集う「ふるやしろ」を物語の中心に据える。鏡花は小説の内容を踏まえた「ふるやしろ」と新たに設けた男女の物語をつなぐ人物として、伝助という悪役の造型に力を注いでいる。クライマックスで洪水の幻に追われ狂乱する伝助の姿は、俳優の演技を想定したと考えられ、また小説では語り伝えられていた洪水の瞬間が、「深沙大王」では因果関係とともに明示される。これらの表現は、現実の空間で物語を展開する演劇の創作を通して獲得されたのではないか。

  • ――一八世紀西洋道徳哲学の《sympathy》を視座として――
    木戸浦 豊和
    2017 年 96 巻 p. 33-48
    発行日: 2017/05/15
    公開日: 2018/05/15
    ジャーナル フリー

    本稿は、夏目漱石・島村抱月・大西祝の文学論や批評論を取り上げ、それらを「同情」概念の観点から考察した。三者の文学論・批評論は鍵語として「同情」の語を共有し、その概念は、他者と同一化する原理(「同情的想像力」)と、自己や他者の言動を公平に判断し、評価する原理(「同情的公平性」)の二つの面を合わせ持っている。本稿は、このような共感性と公平性とを兼ね備える「同情」概念は、アダム・スミスに代表される一八世紀西洋道徳哲学における《sympathy》の原理と接触する中から、新たに再編・形成された可能性があるという仮説を提示した。一方で本稿は、三者の「同情」概念を明治二〇年代と四〇年前後の文学場や社会状況との関連で捉え返した上で、それぞれの「同情」概念の固有の特徴についても論及した。

  • ――平出修「逆徒」における法と主体――
    堀井 一摩
    2017 年 96 巻 p. 49-61
    発行日: 2017/05/15
    公開日: 2018/05/15
    ジャーナル フリー

    本稿の目的は、大逆事件裁判を描いた平出修「逆徒」を心理小説として読むことで、裁判に対するこの小説の抵抗戦略を明らかにすることである。一九〇七年の刑法改正による裁判の変質を背景に、大逆事件裁判は犯罪事案の存否より被告の思想信条を争点としていた。被告の内面を心理小説という形式によって切開し、「大逆」の「信念」の所在/不在を問うことにこの小説の狙いがある。「逆徒」は、被告の心理表象を通して、死刑判決に先立って「信念」をもった無政府主義者が存在したのではなく、被告を無政府主義者と認定し死刑判決を下す行為こそが無政府主義者を遡及的に生み出したという司法権力の行為遂行性を可視化している。

  • ――織田作之助の作品と将棋――
    斎藤 理生
    2017 年 96 巻 p. 62-77
    発行日: 2017/05/15
    公開日: 2018/05/15
    ジャーナル フリー

    本論では、織田作之助の作品における坂田三吉という存在の使われ方を考察した。織田は一九四三年の小説『聴雨』と『勝負師』で、坂田が端歩を突いた二つの対局を主に描きつつ、所々に「私」を差し挟み、両者を複数の水準で重ねている。その実験的な手法は、端歩という手を再評価する視座を提示している。一九四六年に書いた「可能性の文学」では、坂田が端歩で見せた将棋における実験性に、自分が今後行おうとする文学上の試みを重ねている。織田は小説における嘘や面白さの価値を主張すると共に、評論自体を嘘や面白さを備えたものにしており、坂田はそのために効果的に使われている。この評論は、後に坂田が再び脚光を浴びるきっかけにもなった。

  • ――トラウマ的な視覚経験の語り――
    秋吉 大輔
    2017 年 96 巻 p. 78-92
    発行日: 2017/05/15
    公開日: 2018/05/15
    ジャーナル フリー

    三島由紀夫「弱法師」(一九六〇)は、これまで「盲目」と晴眼者の世界を二項対立で捉えることで、三島の述べる「形而上学的主題」(「あとがき」『近代能楽集』新潮社、一九五六年四月)を明らかにすることに焦点が絞られてきた。本論では家庭裁判所や戦災孤児としての俊徳を分析することで、個人的な視覚経験がどのような形で「盲目」として表象されるのか、その権力編成のあり方を明らかにする。家庭裁判所での発話が近代的な家族を前提にしていることを明らかにし、家族の物語という了解枠組みに沿わない俊徳のトラウマ的な視覚経験の語りが、家族の権力編制の中で「子ども」「狂人」「盲者」として配置され抑圧されていくさまを明らかにした。

  • ――大江健三郎の小説作品における死者とのコミュニケーションに着目して――
    菊間 晴子
    2017 年 96 巻 p. 93-107
    発行日: 2017/05/15
    公開日: 2018/05/15
    ジャーナル フリー

    大江健三郎は、一九九九年以降、自ら「後期の仕事(レイト・ワーク)」と呼称する小説群を執筆してきた。老作家・長江古義人を主人公とした大江の「後期の仕事(レイト・ワーク)」は、エドワード・W・サイードによる「レイト・スタイル」研究から深く影響を受けながらも、サイードの定義からは離れた独自の指針を有している。本稿は、サイードによる「レイト・スタイル」の定義を大江がいかに解釈し、再定義したのかを精査した上で、大江の「後期の仕事(レイト・ワーク)」が、彼の過去作品から連続する「二人組」構造の「書き直し」のプロセスであることを明らかにした。その上で、『取り替え子(チェンジリング)』、『さようなら、私の本よ!』、『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』に描かれる、生者と死者とのコミュニケーションのあり方の変遷を追い、『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』において提示される「集まり(コンミユニオン)」、そして「私ら」という存在様式―生者と死者の区別なき共同性―こそ、大江が「後期の仕事(レイト・ワーク)」の実践の先に見出そうとした「希望」である可能性を指摘した。

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