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原稿種別: 表紙
2002 年 11 巻 p.
Cover1-
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2002 年 11 巻 p.
App1-
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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荻路 貫司
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
i-ii
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 目次
2002 年 11 巻 p.
Toc1-
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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丸山 恭司
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
1-12
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
ポストコロニアリズムの問題提起は、学習者をある権力構造へと組み入れようとする志向が教育的意図のうちに潜んでいることを教えてくれる。これを教育のコロニアリズムと呼ぼう。本論の課題は、ポストコロニアリズムの問題提起を整理し、教育のコロニアリズムを乗り越えるために、悲劇性と他者性という二つの特性から教育を読み解くことである。
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田中 智志
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
13-25
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
他者は、同化されたり馴致されることによって消えていくものではない。他者は、たとえば、近代教育のような現実の言語ゲームが構築するヘゲモニーを撃つ批判的な拠点である。このような他者の存在を承認し、他者の存在を教育することは、いかにして可能だろうか。第一に、他者への教育は、他者の了解不可能性を了解するという態度を要請するだろう。他者を了解することは、他者を承認することではなく物に還元することだからである。第二に、他者への教育は、近代教育の正当性を脱構築する知を要請するだろう。近代教育の正当性は、存在神学という、他者否定の思考にあるからである。近代教育の脱構築は、「進歩」「発達」「文明化」という上昇指向を相対化し、偶有的・刹那的な共在を語らなければならない。偶有的・刹那的な共在を語る存在論は、存在神学を喪った時代を生きる子どものニヒリズムを否定的なものから肯定的なものに反転させる契機となるだろう。つまり、偶有的・刹那的な共在を語る存在論は、生の悲劇性=喜劇性を感受するきっかけを子どもに与えるだろう。
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齋藤 直子
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
27-36
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
悲劇と他者の視点から、教育におけるコロニアリズムを抜け出す契機がもたらされるという丸山氏の主張は、教育の希望に向けて新たな展望を開くものである。この意義を一層明かにするために、本稿では三つの問題提起を試みる。それは、(1)知識への懐疑主義についての著者の立場、(2)「知りえない他者」という言明によって著者が志向する新たな知性の方向性、および、(3)ポストコロニアリズムの政治的論争とウィトゲンシュタインの他者論の結びつけかたにおいて、著者が政治と哲学と教育の関係をどのようにとらえるのか、ということに関わる問いである。そうした問題提起を通じて、著者が主張するような形で「教育のまなざし」を根源からゆさぶる力を教育哲学が獲得し、教育の希望へとつなげるためには、教育哲学者の言明(what he or she says)の意味するものを、それを語ることば、あるいは語る様態(how he or shesays)によって具体的に示すことが求められる、ということを明かにしたい。
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久保田 健一郎
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
37-45
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
報告論文において、これまで「他者」研究に取り組んできた丸山会員は、ポストコロニアリズムのインパクトを受容することによって、教育学に新たなる地平を切り開くことを試みている。丸山会員は、その切り開かれた地平において生じた問い、すなわち、自らが教育のコロニアリズムから抜け出せないことを自覚した上で、コロニアリズムの正当化に寄与することなく、それをいかに乗り越えるかという問いに対して、「他者」と「悲劇」という教育の二つの特性によって応答している。このような成果を認識した上で、映画『野性の少年』における野生児についての語りに関する考察から、丸山会員が切り開いた地平において生じた問いへの応答を試みる。
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加藤 守通
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
47-57
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
西洋教養史を支えてきたレトリック・ヒューマニズム的伝統は、とりわけ十六世紀以降、過去の文物の研究にうつつをぬかす無用な「衒学」として、しばしば嘲笑の的になった。しかし、プロタゴラス、キケロ、レオナルド・ブルーニといった古代やルネサンスの論者の言葉を吟味すれば、この伝統が、通常考えられている以上に、公共性を重視し、哲学的な言語観よりも幅広い言語観を有し、知の多様性を擁護するものであるということがわかる。このような視点から捉えたとき、この伝統は、過去の遺物であるどころか、現代においても(あるいは現代においてこそ)重要な意味を持つことになるであろう。
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矢野 智司
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
59-66
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
加藤論文の図式的な要約をふまえた上で、他者問題の観点から加藤氏の伝統的レトリック・ヒューマニズムの評価を再点検してみる。まず、レトリック・ヒューマニズムは公共性・言語観・認識論の面において民主主義を擁護する伝統を持ちながらも、想定されている他者が同じ共同体の成員に限定されていること、そして同じ言語ゲームに組みしない他者にたいしては十分に開かれていないことを指摘する。さらに、ロゴスには、レトリック・ヒューマニズムが志向したように共同体の内部で活躍する優れた成員の形成を目指す「薬としてのロゴス」という側面とは別に、ソクラテスが実践したように成員としての自己を<死>に追いやり共同体の外部を垣間見させる「毒としてのロゴス」の側面があることを指摘し、レトリック・ヒューマニズムを人間形成史におけるより大きな文脈のもとで評価する必要性を指摘する。
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村島 義彦
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
67-73
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
レトリック的伝統は、もう一方の哲学的伝統に比べ、オーソドックスな西洋教養史の分野では、これまで常に、一段も二段も低い評価に身を晒してきた。こうした通説にプロテストして、加藤論文では、他でもない前者が、「通常考えられている以上に、公共性を重視し、哲学的な言語観よりも幅広い言語観を有し、知の多様性を擁護する」点を裏書きして、この角度から、この伝統の現代的意味を問い直している。その意味で、レトリックの「毒」ないしは「闇」の部分にスポットを当てた、従来のネガティブ一辺倒なレトリック評価に対して、あくまで逆方向の、「薬」ないしは「光」の部分にスポットを当てた、徹底してポジティブなレトリック評価いわゆる通説の逆転(パラ・ドクサ)が、この論文の基調であり、「(毒ならぬ)薬としてのロゴス」というタイトルは、これを端的に映し出している。加藤論文の生命線は、こうしたユニークな発想が、果たしてどの程度に裏書きされ、資料面でも論理面でも、どれほどの説得性を備えているかにあるだろう。
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片山 勝茂
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
75-85
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
加藤守通氏の報告論文「薬としてのロゴス」は、教養のレトリック・ヒューマニズム的伝統が公共性を重視し、哲学的な言語観よりも幅広い言語観を有し、知の多様性を擁護していると主張している。そこで、本稿では、この主張がどこまで妥当であるのかを吟味する。すなわち、第一に、レトリック的伝統とは異なり、ヒューマニズム的伝統には、国政の場や裁判といった公的領域への強い関心が認めにくいことを論じる。また、同様の問題が現代における人文的教養にもあてはまることを指摘する。第二に、哲学的な言語観はレトリックの言語をも射程に収めた幅広いものであることを指摘する。その上で、レトリック的伝統に立つ人々が用いる「薬としての言語(ロゴス)」という比喩が豊かな内実を持ち、かつ、人々の間で比喩の用い方に大きな相違があることを明らかにする。第三に、ソフィスト的な知の内実を検討した上で、報告論文の提唱する「マルティパースペクティヴィズムとしての知」ではなく、むしろ、「物事を賛否両面から論じることの重視」をレトリック的伝統の大きな特徴と見なすよう提案する。
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広田 照幸
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
87-96
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
本稿は、現代における「教える-学ぶ」関係のゆらぎを、現代社会のイデオロギー状況の変化から説明し、今後の方向の可能性について考察した。まず、教える行為と学ぶ行為とが、必ずしも原理的に結びついているわけではなく、常に偶然性をともなって成立するしかないことを指摘した。そのうえで、現代は、教える側が自らの行為を正当化するイデオロギーを喪失し、学ぶ側が優位な関係へと変化してきたこと、またそれゆえに、一方では学ぶ側にすり寄った学校論や教育関係論が流行し、他方では、社会からの些事にわたる要求を引き受けて、教える側が、多方面で不定型なものへと、その役割を広げてきたことを指摘した。今後の可能な方向は、学ぶ側を誘惑したり恫喝したりする仕掛けを考案する戦略、「教える」をやめる戦略、「教える」をイデオロギー的に復権する戦略などが考えられる。いずれを選ぶべきかは、価値的な選択にならざるをえない。
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松下 晴彦
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
97-107
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
第一に、教える-学ぶの関係への探究に付随する限界として、私たちは関係が把捉される以前の混沌を知る立場にはなく、概念化、秩序化、表象化はいつも事後的な結果としてあるということに留意する必要がある。その意味で、「関係」そのものを見えなくしている概念やモデルこそが先ず問われなくてはならない。第二に、教える-学ぶ関係の捉え方の変遷として、修練者の教育(教授と学習、内容と方法、精神と身体が一体のものと捉えられる)、近代教育に典型的な表象モデル(教える側と学ぶ側の分離とともに、両者を俯瞰するメタ的な視点が措定される)、脱表象モデル(近代の諸概念への批判)の三つのモデルを提示し、比較考察する。第三に、脱表象モデルにおいては、関係を内部から批判しながら、そもそも探究はいかにして可能であるのか、教えることやコミュニケーションがいかに可能であるかといった原理的な問題が検討されるが、この種のアプローチの典型として、教える-学ぶ関係の懐疑論的解釈と自然主義的解釈を取りあげる。最後にこれらのモデルへの変異・逸脱にも見える現代社会に特徴的な「オリることのできない」関係について考察する。
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松浦 良充
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
109-121
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
「教育的関係」をめぐって、現在、相反する二つの状況が見られる。教育や人間形成環境における「関係性」の喪失や危機が叫ばれる一方で、これまで「教育的関係」が意識されなかったような、たとえば大学・高等教育などの領域において、その増殖・強化が指摘される。教育学においては、19世紀末から20世紀にかけて教育関係論という認識枠組みが成立したが、それはやがて教育的相互作用論にシフトした。しかしそれは結局「教育的関係」の喪失を追認する役割を果たし、またその危機と増殖というアンビヴァレントな状況を説明する有効な診立てを提供できていない。さらに「教え-学ぶ」という教育関係論の概念装置は、関係性の媒介項として「内容」を想定する場合に、より現実的な認識を提供することを予感させる。ただしこれについても「学び」の強調によって、相互作用論と同様の結果をもたらしている。そこから本稿は、既存の教育学や心理学の影響を受ける以前の、Learning概念の思想史的研究を展望する。
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鳥光 美緒子
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
123-130
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
教育について道徳の言語で語ることを常としてきた者にとって、それを社会学的に語る言葉を聞くことは、なにはともあれ、新鮮に響く。今回のシンポジウムでとりわけ印象に残ったのは、語られた内容にもましてその語りの言葉だった。社会学的視点は、教育システムについての俯瞰図を念頭に、現代の私たちの教育的関係をめぐる問題を定式化し、反省知の課題について自覚的に測量する。反省知の制御のかなたにあるものについては、黙して語らない。もちろん、語ることができないということが、存在しないということではない。道徳の言語がもっぱら語ってきたのはまさにその領域についてであるのだから。今日、その領域を語ることのできる言語とはどのような言語なのだろうか。
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高橋 勝
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
131-139
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
歴史的に見れば、教育的関係には多様な形態が見られるが、近代の教育学では、<教師と生徒>という関係が重視され、<教える-学ぶ>という概念図式を巡って言説が構成されてきた。そこでは、教師が<教え>、生徒が<学ぶ>という、本来は非対称の行為を接合する「予定調和の物語」が、多種多様な仕方で語り継がれてきた。教師は、テクストを介して、この世界の内容を生徒に提示する。それは、同時に、この世界を分節化して読み解くコード、規則、構造を暗黙のうちに提示することでもある。<教える-学ぶ>という概念図式の強度は、教師の提示する世界が「真の構造」であり、生徒は「真の構造」を獲得できるという啓蒙の物語に支えられている。ところが、20世紀に入り、産業化、都市化によってリアリティが解体し、世界が多元的、重層的に捉えられるようになると、教師の<教え>にもゆらぎが生じる。教育的関係論や作業共同体論は、世界が多元的、重層的に構成されるものであり、生徒の<学び>は、その構成の最中にしかあり得ないという「新しい物語」の創出でもある。そこでは、ますます多元化する世界における関係性の新しい形態が模索されたのではないか。
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生田 久美子
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
141-150
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
本稿では、まずは三人のシンポジストの議論の概要を紹介し、その上で私自らも当該の議論に参加させていただく形で論を進める。三者の議論は、いずれも伝統的な「教育的関係論」を、つまりは「教える者」が「教えられる者(学ぶ者)」に「教える内容」を伝達すること、という固い関係論からの解放を企てる議論であり、そうした試みは私たちがこれまでとらわれてきた「教育的関係」についての認識の枠組みを解体・再構成することを要請している。しかしながら、三者の議論では、学習者の「学び」がどのような相互的なプロセスの結果成就されるのか、また「学び」を捉える枠組みの問題、つまり従来の「個人の出来事」として「学び」を狭く捉えることの問題性については議論されていない。そこで本稿の後半部では、ジェンダー研究のひとつの成果である「ケア論」の観点から、あらためて「学び」を捉える枠組みと「学び」が成就していくプロセスに注目し、「学び」の新たな側面に光を当てることの必要性について議論する。
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鈴木 晶子, 弘田 陽介
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
151-161
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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小玉 重夫, 野平 慎二, 松下 良平, 宮寺 晃夫
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
163-173
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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河野 誠哉
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
175-188
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
科学の名を冠する調査的実践の歴史的系譜のなかで、児童という存在はいかなる分析視角のもとで捉えられてきたのか。こうした問題関心のもとに、本稿は、近代日本において取り組まれた2つの大規模児童測定調査(明治期における医学士・三島通良によるそれと、大正末における心理学者・大伴茂によるそれ)をとりあげ、これらを分かつ「隔たり」に注目するところから出発して、近代日本の児童研究の系譜のなかで児童を対象化するまなざしの根本的な転換について論じる。ここで本稿が指摘するのは、個人性への分析視角の移動と、それに伴って生じた教育臨床的なまなざしの成立という局面である。また、そのうえで、大正末から昭和初年にかけての時期において、このような根本的な転換をへて生まれることになった新しいタイプの科学的知の実践のもつ、近代学校論的な含意について検討していく。それは、当時の学校システムが直面しつつあった危機的状況への対応として、新たに要請された実践であったというのが、ここでの論点である。
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平井 悠介
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
189-203
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
ハンナ・アレントの「ネイタリティ」の概念は、市場論に基礎を置く教育改革論の相対化の論理として、今日注目されている。ただ、子どもの保守的な側面を保持しながら同時に革新的な側面を強調するということが公共性創出の鍵であるとするこの概念の中では、両側面を統合する具体的な方法論が提示されていない。本論文では、この方法論を、エイミー・ガットマンの民主主義的教育理論とその中心概念である「意識的社会再生産」の中に見出すことを目的とする。この際、保守とリベラルの教育目的を統合しようとするガットマンの思想の展開過程を検討しながら、彼女の思想が「意識的社会再生産」へと集約されていることを、さらに、彼女が討議(デリバレイション)を通じた市民的徳の育成を強調していることを明らかにする。その上で、教育の保守的な側面と革新的な側面の統合問題が、多様な価値観を有する市民の継続的な討議という方法論によって解決されることを示唆する。
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今井 康雄
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
205-211
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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西平 直
原稿種別: Article
2002 年 11 巻 p.
213-218
発行日: 2002年
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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北詰 裕子
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
219-223
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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鈴木 晶子
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
225-230
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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山名 淳
原稿種別: 本文
2002 年 11 巻 p.
231-234
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2002 年 11 巻 p.
235-236
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2002 年 11 巻 p.
236-
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2002 年 11 巻 p.
236-
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2002 年 11 巻 p.
237-243
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2002 年 11 巻 p.
244-
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2002 年 11 巻 p.
244-
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2002 年 11 巻 p.
245-
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2002 年 11 巻 p.
245-
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 表紙
2002 年 11 巻 p.
Cover2-
発行日: 2002/12/04
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー