-
原稿種別: 表紙
2005 年 14 巻 p.
Cover1-
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2005 年 14 巻 p.
App1-
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
小玉 重夫
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
i-
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 目次
2005 年 14 巻 p.
Toc1-
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 文献目録等
2005 年 14 巻 p.
Misc1-
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
池田 全之
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
1-18
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
今回の報告のテーマは「ドイツ観念論のアクチュアリティ」である。だが、ドイツ観念論は絶対者の学であり、近代批判の脈絡で、近代を形成した「確固とした完結した主体」という幻想に立つ主体性の形而上学の極北とみなされ、そのまま支持することが今日では難しいとされている。これまで筆者は、フィヒテの知識学を検討しながら、主体がドイツ観念論の文脈でどのように定式化されたのかを整理し、シェリング(F.W.J. Schelling 1775-1854)において、絶対者への渇望がドイツ観念論の枠内で辿った顛末を究明したが、今回はシェリングの中期以降の試みを辿り直す。というのも、ドイツ観念論研究を始めたときから念頭を去らない問い、「絶対者に基づく形而上学的思考は妥当性を失っているのか」、を真剣に考えなければならないと思われるからである。たしかに現代思想からの批判を侯つまでもなく、現実遊離した超越的な次元を想定して、そこに現実を基礎づけることは許されないだろう。しかし、20世紀の思想を参照すれば、例えばユートピアの痕跡としての芸術作品による社会批判のTh・アドルノの試み(『美学理論(Asthetische Theorie)』)や、脱構築不可能な正義からの呼びかけによる法の脱構築を説くJ・デリダの「亡霊学(hantologie)」には、超越との関係で内在をいかに批判するのかという視点が復活していると思われるからである。こうした問題意識から筆者は、一見関係が見えにくいシェリングと、デリダもまた超越の現代的様態を解明すべく取り上げたベンヤミンを重ねあわせることにより、そこに閃くものを掬い取りたいと思う。
抄録全体を表示
-
加藤 守通
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
19-27
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
教育思想史学会第14回大会のフォーラムにおける池田会員の発表、そしてそれをもとに書かれた論文の内容は、きわめて大雑把なまとめをすれば、ベンヤミンの時間論を高く評価し、その視点からシェリングの時間論を見ることによって、それとは違うシェリングの中期思想の時間論を批判し、それと類似した後期思想の時間論を賞揚するというものである。つまり、ベンヤミンがシェリングのアクチュアリティを判断する尺度となっている。しかし、このような手法がほんとうにシェリング、ひいてはドイツ観念論のアクチュアリティの評価につながるのだろうか。思い浮かんだいくつかの素朴な疑問と考えを以下の4章に分けて提示した。1 「決断」の所在 2 シェリングの時間論再考 3 過去志向の時間観 4 積極哲学の意義
抄録全体を表示
-
鳥光 美緒子
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
29-34
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
シェリングとベンヤミン、この二人の時間論を対象に、「決断こそが本来的時間を惹起させる」という両者に共有される思想の当否を問うことが、池田論文の課題であるという。だが、なぜシェリングとベンヤミンなのか。決断、本来的時間、これらの用語がなによりもふさわしいのは、シェリングでもベンヤミンでもなく、ハイデガーだろう。それにもかわらず、池田論文は、ハイデガーとシェリングでも、ハイデガーとベンヤミンでもなく、シェリングとベンヤミンの時間論を、比較思想史的な考察の対象として設定する。以下の私のコメント論文では、池田論文の隠れた主役として、ハイデガーを想定する。ベンヤミンをハイデガー的時間論の近傍におき、ベンヤミンを実存哲学的、実践哲学的に問題にするという、池田氏のアプローチがどのようにして成立したのか、またそれはベンヤミンの思想解読として果たして実り豊かなものといえるのかどうかが、以下において問題にされる。
抄録全体を表示
-
小野 文生
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
35-47
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
シェリングであれベンヤミンであれ、それぞれがきわあて破壊力のある批判を秘めた思想家であるため、それを組み合わせる場合の視点や思想への切り込み方という私たちの足場そのものが、他にもまして問われることになる。池田は両者の思想のうちに「決断が本来的時間を惹起する」という契機を読みとり、「時間の非連続性」と「決断の尺度は現前しない」という特徴を明らかにすることを通して、「決断主義」批判の陣地を確保しようとする。しかしその試みは、シェリングとベンヤミンの思想が持つ魅力と破壊力を充分に引き出しているとはいいがたく、さらにいえば、両者の思想のアクチュアリティを示すという池田自身の企図を裏切る結果になってしまったように思われる。なぜそうなったのか?時間や決断主義の議論を通して、私たちの足場を語る際の問題点を指摘しながら、シェリングとベンヤミンのテクストがもつ可能性のいくばくかを、テクストに向かい合う技法、解釈、根源のコレスポンデンツ、伝承といった観点から提示したいと思う。
抄録全体を表示
-
松下 良平
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
49-62
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
教育への批判によって学習への関心が高まり、従来の学習とそれを乗り越える学習の区別が唱えられるようになったが、やがて後者の学習の問題点も暴かれるようになると、迷走する議論の向こう側では、教育が素知らぬ顔で傍若無人にふるまうようになった。この皮肉なパラドクスを回避するための鍵は、従来の学習論が無視・排除してきたものを救出するもう一つの学習ではなく、近代の学習とは原理的に異質にして、それを無用にするような学習の理論を築くことにあると考えられる。ここでは、近代に特有の学習とその代替となる学習を、「表象の学習」と「生としての学び」として区別する。当初大きな希望を伴っていた「表象の学習」が今日、喜劇的にして悲劇的なものへと転じていることを確認した上で、「生としての学び」を「表象の学習」に取って代わるものにするたあに、学習の因果性に焦点を当てて「生としての学び」論の再構成を試みる。
抄録全体を表示
-
松浦 良充
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
63-71
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
「教育」の捉え直しを徹底するために、「学び」論へ迂回する戦略がある。私たちの学会でも、近年そうした観点からの議論が一つの水脈をつくってきた。今回の松下氏のフォーラム報告はそれをより確実なものにすることに貢献している。松下氏と筆者は、ともにこの流れにおける問題意識を共有している。ただし議論のアプローチや方向においては、かなりの距離を見出せる。この水脈を継承し、いずれは松下氏と共同戦線を組み、今後の議論を豊かにしてゆきたい。そのためまず、筆者の「Learningの思想史」構想への松下氏によるコメントに対して応答した後、松下報告への問題提起を行う。論点は、大きく2つ。第1は、松下氏の議論の立て方に関して。具体的には、まずその二律背反的な枠組みの問題であり、さらに主張の歴史(思想史)的検証性の問題である。第2の論点は、松下氏の「生としての学び」という展望について。具体的には、表象にとらわれずに「学ぶ」ということ、そしてその「学び」を認知するメカニズムについて。さらに、「生としての学び」をどのように学校教育システムのなかに実現するのか、という問題である。
抄録全体を表示
-
小林 大祐
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
73-80
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
生としての学びは表象の学習と原理的に異質なものでありながら、表象の学習が既に展開されているのと同じ場で成立することができる。松下論考において提出されたこの論理が成り立つのは、どのようにしてか。松下自身の指示に従ってレファレンスを追ってみることで、以下のことが明らかになる。(1)<実践とその反対物>や<内的善と外的善>といった対概念が松下論考の一見アクロバティックな論理を支えていること。(2)それらの対概念によって表されるのは相対的な区別であり、区別されるものどうしのあいだにはグレーゾーンが開けていること。(3)このグレーゾーンに敢えて分け入ることは、一方で原理上のやっかいな問題を生じさせもするが、学習が学びへと転化する具体的様態の記述や分析を可能にもすること。
抄録全体を表示
-
古屋 恵太
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
81-91
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
進歩主義教育を、アメリカ革新主義期という国内の文脈に位置付けることで「社会統制」と「社会効率」を志向する教育運動と捉える従来の見方を一度放棄してみよう。そして、その代わりに、進歩主義教育を「自然な学び」を希求する動向と特徴付けてみたい。すると、人為的・人工的なものへの関心を対置する構図を描くことが論理的に可能となる。視点を変えて、世界同時進行的な現象であった新教育運動という国際的な文脈から進歩主義教育を眺め直すと、当時、ソビエト・ロシアのヴィゴツキーとアメリカのデューイが、ともに近代の物心二元論を克服するという企図から、道具、即ち人工物への関心に導かれていたことが注目される。両者を理論的ルーツとする現代の社会的構成主義の立場は、状況論が「自然な学び」に回帰する危険に対する歯止めとなり、進歩主義教育には、デューイの文化的な「道具主義」に見るような人工物への関心という独自な遺産があったことを伝えるものである。
抄録全体を表示
-
渡邊 隆信
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
93-106
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
従来の新教育研究は、新教育の個々の思想家や学校実践を対象としたものがほとんどであった。本論文では「新教育への新しいアプローチの可能性」として、そうした個別的な思想や実践それ自体ではなく、それらが相互に結びつくことによって生じた「運動」に注目することを提案する。具体的には、(1)「新教育」と「新教育運動」とを明確に区別すること、(2)新教育運動をあくまでも歴史的現象として捉え、その生成と展開のリアリティに迫ること、(3)それを可能にするために、材料となる資料の範囲を拡大すること、という3点を提案する。そのうえでこの3つの提案に基づいて、一つの事例研究を試みる。すなわち、新教育運動を推進した代表的な国際的ネットワーク組織である「新教育連盟」を取り上げ、同連盟のドイツ支部とそれに関与したE. ヴェーニガーの思想と行動に焦点をあてながら、実践家や理論家たちが繰り広げた新教育の「運動」の具体像を解明する。
抄録全体を表示
-
木内 陽一
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
107-114
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
近代日本の教育理論家の中で、大正期の新教育と密接な関係を持っていた教育理論家の例として、谷本富、小西重直、篠原助市があげられる。本論文では、この三人の理論家を取り上げて、新教育の実践とのかかわりを検討した。とくに注目したのは、篠原助市の理論と教育実践とのかかわりである。結論的には、篠原にあっては、実践と距離を取ることによって、理論の体系化が可能になったことを指摘した。
抄録全体を表示
-
今井 重孝
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
115-122
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
三名の報告者は、それぞれ、新しいアプローチを提起した。木内陽一会員は、学問のオートポイエーシスというアプローチを、渡邊隆信会員は、コミュニケーション・ネットワークとしての新教育運動というアプローチを、そして、古屋恵太会員は、「自然の学び」に「人工物」(artifacts)を対比するアプローチを提示した。三つの新しいアプローチを同一の地平で議論可能とするために、「近代教育の表と裏」「新教育の表と裏」「忘れられた新教育」といった、第四のアプローチを設定し、このアプローチを軸にして三つのアプローチを位置づけなおそうとした。そのことにより、多様なアプローチの接点が見出せることを示そうとした。また、その結果として、三つのアプローチを「21世紀における新たな教育改革を導く」実践的な思想に結びつける可能性を示そうとした。
抄録全体を表示
-
川瀬 邦臣
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
123-130
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
本シンポジウムの趣旨説明文に明確に示されているように、新教育という「歴史的運動」の新たな評価が提示されることが期待されて本シンポジウムは企画・実施された。現代の諸教育問題を依然として規定し続けている新教育の思想と実践を評価し直すことこそが、緊急の究明課題なのである。しかし、この趣旨が期待通り満たされたとは残念ながら言いがたい。古屋論文に対してはデューイの「道具主義」理論がアメリカ革新主義期という国内の文脈のみならず「国際的な文脈」のなかに位置づけられること、渡邊論文に対してはドイツ国内外での新教育をめぐるコミュニケーションの総体の究明を通して新たなドイツ新教育像を提示すること、木内論文に対しては新教育実践家と教育理論家との関係の相互性を究明すること、をそれぞれ要望しておきたい。
抄録全体を表示
-
山内 紀幸
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
131-137
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
近代教育批判によって近代教育学を焼畑したのちに育ってきたものはなんだったか。それは新自由主義という外来種であった。三氏の発表は優れたものであったにも関わらず物足りなさを感じたのは、こうした今をほとんど考慮していない点である。ガーゲンのモデルに従うならば、私たちは「批判フェーズ」と「転換フェーズ」の間に位置している。「転換フェーズ」の真ん中にしっかりと足を踏み込むことを行うためには、1. 「批判フェーズ」の中で提起された様々な命題群を、私たちの日常に照らして精密化していく作業に着手し、その全体を明確化していくこと、2. 現在の教育言説の乱用や副作用の注意書き作業を開始することが必要である。
抄録全体を表示
-
久保田 健一郎, 森岡 次郎, 谷村 千絵, 藤田 雄飛
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
139-147
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
田中 智志, 加藤 守通, 小野 文生, 鈴木 晶子, 今井 重孝
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
149-161
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
生田 久美子, 下村 一彦, 村田 美穂, 尾崎 博美, 宮寺 晃夫
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
163-174
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
弘田 陽介
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
175-179
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
尾崎 公子
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
181-192
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
本稿は、公教育形成期に法規範化されていった教員の「品行」要件に着目し、同要件を掲げていた民権結社の趣意書や社則を分析対象として、教職倫理規範の生成過程について解明することをねらいとする。民権派は、自らの振る舞いを導く倫理的主体を結社という新たな人間関係の組み方のなかで立ち上げようとしていた。そうした主体形成こそが、自治・自主・自立の実現、すなわち民権伸張の必要条件だとしたのである。しかし、明治政府は自ら品行正しさを課していた民権派に「不品行」のレッテルを貼って弾圧していった。この「品行」をめぐる反転の契機を民権派の自己統治論に見出しつつ、教職倫理の「自律性」や「倫理性」にも関わる倫理的主体の編成の問題を論究することにしたい。
抄録全体を表示
-
柴山 英樹
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
193-209
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
本稿は、ルドルフ・シュタイナーの色彩論について、19世紀末から20世紀にかけて展開された科学的色彩論やクレー、カンディンスキーなどのバウハウスの教師たちの色彩論などの同時代のコンテクストから読み直すことによって、シュタイナーの色彩論の意味内実をより明確に捉えられることを示したものである。シュタイナーは、色彩と身体のつながりを二元論的に捉えようとする科学的色彩論から距離を置き、ゲーテの色彩論における実在論的視点からの影響を受けつつ、進化論的視点という独自の視点に立脚した一元論的な色彩論を提示したのである。シュタイナーは、実在論的視点や進化論的視点に立脚することによって、自然界における色彩現象と人間の身体や感覚とのつがなりを解明し、そこから導き出された色彩が直接身体や感覚に働きかけてくるという観点に基づき、色彩を通じて自然の生成過程を追体験する絵画方法を提示したのである。
抄録全体を表示
-
渡辺 哲男
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
211-224
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
1941年に成立した国民学校のもとで、従来の「国語科」は、「国民科国語」として再編された。本稿では、「国民科国語」の目的である「国語の醇化」の、規範としての日本語の音を創出するという側面に着目し、そのたあの声と文字の秩序の形成過程を、植民地・占領地から日本語の音声の標準化が要請された状況をふまえながら、1930年代におけるローマ字表記法をめぐる論争を素材にして論じる。具体的には、臨時ローマ字調査会において、日本式ローマ字の先導的役割を果たした菊沢季生のテクストを検討する。これにより、彼がプラハ学派の「音韻論」を独自に解釈して導入することで、従来の言語観を脱し、声と文字とを分かち、文字が声を規範的な日本語の音として統制することを理論化する過程を明らかにする。また、同時代において、菊沢と同様に「音韻論」のインパクトに対峙した国語学者・時枝誠記のテクストとの比較検討を行うことで、当時の論点をより明確にする。時枝の言語過程説は、規範としての日本語の音を創出することの限界線をも浮き彫りにするのである。
抄録全体を表示
-
野平 慎二
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
225-228
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
木村 浩則
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
229-232
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
田中 智志
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
233-237
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
片山 勝茂
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
239-243
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
清水 禎文
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
245-248
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
下村 一彦
原稿種別: 本文
2005 年 14 巻 p.
249-252
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2005 年 14 巻 p.
253-254
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2005 年 14 巻 p.
254-
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2005 年 14 巻 p.
254-
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2005 年 14 巻 p.
255-
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2005 年 14 巻 p.
255-
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2005 年 14 巻 p.
256-
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2005 年 14 巻 p.
256-
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 表紙
2005 年 14 巻 p.
Cover2-
発行日: 2005/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー