本稿は、アッサム州で進行しつつある農業の変容について、在来ヒンドゥー教徒村落でみられる耕地利用の転換を切り口にして、その一端を明らかにするものである。調査村では、生産性の低迷、配給米の支給、不安定な天候、労働力の不足などが原因となり、稲作以外の用途に転換される耕地が出現している。稲作が行なわれなくなった耕地は、その大きさや立地環境によって林地か養魚池のいずれかの用途として利用されるが、造成コストがほとんどかからず、すぐに現金収入が見込める養魚池への転換を選択する村人が多くなっている。ヒンドゥー教徒の村人が直接魚を捕獲して販売することは宗教的な理由から忌避されるため、養殖魚の販売ビジネスは周辺村落に居住するムスリムが担っている。草の根レベルでヒンドゥーとムスリムが互いに協力し合うことで、農業の多様化が進行しており、両コミュニティの関係について、経済的な側面から見ると、従来考えられてきたものとは異なる関係性がみられる。
今日、グルー・ナーナクの単独肖像画はスィック教徒の間で非常に人気があり、頻繁に家屋や寺院の壁に掛けられている。本稿は英領植民地期にもたらされた壁に掛ける肖像画がスィック教徒のアイデンティティに与えた影響を明らかにする。1849年にパンジャーブ地方がイギリス領に編入されたあと、民族や宗教を横断して中間層が形成され、その中から生まれた知識人たちは「スィング・サバー運動」と呼ばれる宗教改革運動やナショナリズムの担い手となった。都市中間層は植民者であるイギリス人と並んで、スィック教徒の王侯貴族の没落した後の主要な芸術の庇護者となった。彼らは西洋式の教育を受けており、西洋文化の受容に積極的であったため、グルー・ナーナクの肖像画を壁に掛けるようになったとみられる。壁にかけるグルー・ナーナクの肖像画は、スィック教の独自性を象徴する四分の三面観や、ヒンドゥー教の神像を思わせる正面観で描かれたため、様々な派閥に属していたスィック教徒たちを社会的に包摂する役割を担っていたと考えられる。
すでにアカウントをお持ちの場合 サインインはこちら