本稿は、従来個別に扱われてきたバングラデシュのヒンドゥーとムスリムを同一の村落社会空間を共有する主体として捉えなおし、20世紀初頭以降、両者間の関係がいかに構築されてきたのかを、両者が社会的な活動を共同する場であるショマージと青年組合に着目して検討する。事例村では、政治的・社会的な変動に伴うヒンドゥー人口の流出とムスリムの居住空間の拡大により、両者間の物理的・社会的な距離が縮小していった一方で、ヒンドゥーはマイノリティとしての立場を強め、ムスリムがヒンドゥーのショマージの紛争解決や宗教行事に介入することが増えていった。青年組合では、60年以上ヒンドゥーとムスリムが共同してレクリエーション等を実施してきたが、活動の主体や対象は実質的にムスリムに限られるようになり、ヒンドゥーによる参加は形式的なものになっていた。しかし、青年組合はヒンドゥーが村のショマージの一部であることを示す役割を持っていた。
本稿は、明治前期の商工録と貿易取引の分析から、居留地貿易中に横浜の英系インド商会が「英国」商会のような一次産品の輸出・工業製品の輸入に携わらず、隙間貿易(薬種の輸入・「Japanese Curios」の香港・ボンベイ輸出)から新軽工業品(絹織物、マッチ)の対印貿易に先鞭をつけ、日印貿易にて強固な地位を確立する端緒を掴んだことを提示する。これらの商会は中小規模のムスリム、パールシー、シンディー商会で、まず東インド会社の関連会社として参入し、次第にボンベイやハイデラバードを商業拠点とするアジアの支店網の一部として横浜に支店を開設していった。欧米商会、中国商会、日本商会と競合しながら貿易に参入し得た背景には、アジア域内の主要貿易港間に広がる、英系インド商会の緊密な自商会・代理店の商業ネットワークがあった。居留地貿易以後に急増する英系インド商会の基本的な貿易構造を、この時期に移入したシンディー商会にみることができる。
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