普通母なる川の表題で川の歴史が書かれる場合, 川そのものは表に出にくい。川があることにより開けた地域の歴史が書かれているのが殆どである。筆者は川そのものの見方や扱い方が時代と共にまた人によって如何に変化して来たかに関心を持ち, 吉野川を例にして調査を続けている。
すなわち, 第2回の研究発表会では “吉野川の歴史 (その2) 庄屋・豪農の日記類における洪水と普請の記録” と題して藩政時代の農民が治水工事の重要さをどの程度に意識していたかを, 農村に残っている記録により調べた。また前回第3回では “吉野川の歴史 (その3) 農村支配体制の面から見た勤農川除普請” と題して藩側から出た文書の中に, 出水や工事に関係する記述がどの程度見出せるかを, 藩法や農村法と云われる文書の条文や郡代の出した報告書により調べた。
今回は農民特に庄屋と呼ばれる指導的立場にある入達が, 自分の所信を書いて藩当局に提出した治水論・利水論と云われる文書を集め, これを通して河川観の変化を調べた。読むことが出来た文書は天保年闇 (1830~1843) から明治年間 (1867~1912) にわたる50年に満たない短い期間に書かれたものだが, たまたま時代が大きく変化する特別な時代に当っていたため, 非常に面白い傾向を見出すことが出来た。すなわち何の拘束もなく沖積平野を流れていた吉野川を, 堤防を築いて拘束を始めた時代から, それによるひずみが次第に蓄積され抜本的な見直しが要求される時代になるまでの経過と, これを背影とする農民の要求の変化を見ることが出来た。
庄屋達はさすがに地元で毎日良く現象を見ていて, 気が付く場所は, 近代の日本の河川計画に大きな影響を及ぼしたデレーケと大きく違わない。統一的な記述という面で後れをとるだけと云えそうで, これは非常に重要なことと評価して良いと考える。
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