日本土木史研究発表会論文集
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4 巻
選択された号の論文の23件中1~23を表示しています
  • 技術史の視点
    飯田 賢一
    1984 年 4 巻 p. 1-12
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
  • 青木 治夫
    1984 年 4 巻 p. 13-17
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    加賀藩は、辰巳用氷を造り城中に導水する際、規模の大きな逆サイフオン工法を用いた, 1981 (昭和56) 年兼六園から840m上流の石引町で、辰巳用水路底から木管が発掘された。炭素14による年代測定を行った結集、1632 (寛永9) 年を含む期間のものと判った。この期間内で、木管敷設工事を行ったのは用水完成当初でなかろうかと、今の兼六園になるまでの用水の変遷を調べてみた。その結集、総延長約2000m、最大静水圧約16mの木管造逆サイフオンが1632 (寛永9) 年から玉634 (寛永11) 年の間に造られたらしいことが判った。
  • 農民の治水論から想像される当時の姿
    澤田 健吉
    1984 年 4 巻 p. 19-26
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    普通母なる川の表題で川の歴史が書かれる場合, 川そのものは表に出にくい。川があることにより開けた地域の歴史が書かれているのが殆どである。筆者は川そのものの見方や扱い方が時代と共にまた人によって如何に変化して来たかに関心を持ち, 吉野川を例にして調査を続けている。
    すなわち, 第2回の研究発表会では “吉野川の歴史 (その2) 庄屋・豪農の日記類における洪水と普請の記録” と題して藩政時代の農民が治水工事の重要さをどの程度に意識していたかを, 農村に残っている記録により調べた。また前回第3回では “吉野川の歴史 (その3) 農村支配体制の面から見た勤農川除普請” と題して藩側から出た文書の中に, 出水や工事に関係する記述がどの程度見出せるかを, 藩法や農村法と云われる文書の条文や郡代の出した報告書により調べた。
    今回は農民特に庄屋と呼ばれる指導的立場にある入達が, 自分の所信を書いて藩当局に提出した治水論・利水論と云われる文書を集め, これを通して河川観の変化を調べた。読むことが出来た文書は天保年闇 (1830~1843) から明治年間 (1867~1912) にわたる50年に満たない短い期間に書かれたものだが, たまたま時代が大きく変化する特別な時代に当っていたため, 非常に面白い傾向を見出すことが出来た。すなわち何の拘束もなく沖積平野を流れていた吉野川を, 堤防を築いて拘束を始めた時代から, それによるひずみが次第に蓄積され抜本的な見直しが要求される時代になるまでの経過と, これを背影とする農民の要求の変化を見ることが出来た。
    庄屋達はさすがに地元で毎日良く現象を見ていて, 気が付く場所は, 近代の日本の河川計画に大きな影響を及ぼしたデレーケと大きく違わない。統一的な記述という面で後れをとるだけと云えそうで, これは非常に重要なことと評価して良いと考える。
  • 石崎 正和
    1984 年 4 巻 p. 27-32
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    洪水防禦および灌漑・排水などの水利技術は, 明治以降の西欧近代技術の導入により, わが国在来の技術と融合しつつ発達をみた。近年, 農業史や農業経済などの分野において近世農書の採集・刊行が行われており, 一方古くより経済学の分野においても地方書などを含む近世文書の整理がなされてきた。こうした農書や地方書などの近世文書の中には, しばしばわが国在来の水利技術の解説がみられる。わが国の地域性に強く根ざした明治以前の在来水利技術を理解する上で, 幸い多様な文書類が比較的容易に入手し得るようになった。したがって, 本稿においては水利技術について比較的多くの記述を行っている代表的な農書・地方書を中心に, その記述内容を概観するとともに, これまでほとんど考察されていない近世の築堤技術について, 文書の記述内容を比較検討した。限られた文書を対象としているため, 必ずしも近世水利技術の全体像を理解することは困難であるが, 護岸・水制工法の多様化の経緯, 築堤技術の基本的な状況, 堤防の機能の変化などを知ることができる。本稿では極めて概括的な考察に留まったが, 土木史の分野からも近世文書の再検討が期待される。
  • 各河川の水力開発の変遷 (その3)
    稲松 敏夫, 氷見野 省蔵
    1984 年 4 巻 p. 33-40
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    筆者はさきに第5回日本土木史研究発表会に於て, 電力土木の変遷と, 電力土木に活躍した人びとを中心に全国にわたって各河川別に水力開発の変遷をまとめる中, 総論と神通川, 常願寺川, 手取川等の北陸地方の水力開発の変遷と, それらの開発に活躍した人びとを取纏めたが, 今回は第5章九頭竜川, 黒部川, 庄川等の水力開発の変遷と, それらの開発に活躍した人びとを取纒めた。
  • 小野 芳朗, 宗宮 功
    1984 年 4 巻 p. 41-48
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    19世紀は情報の発達により地球が稲対的に縮少した時代であった。そのことは、時の伝染病であるコレラが世界的規模で流行を繰りかえしたことでも象徴される。
    我国にもネガテイヴな情報フラックスの病とともに、近代医学、公衆衛生の概念が導入された。衛生の指導者にとって、民衆が自らの健康を近代的衛生観にもとづき管理し、それらの集積が健全なる国家建設につながることが理想であった。しかし衛生行政の現場は警察官であった。民衆の知りえた衛生情報は外国からもたらされる多くの物とともにはいってくる死病と、衛生という名を冠したあやしげな物、そして病の流行のたびに避病院へと走る巡査であった。
    病の際の医療に対する不信は、いつのときも信仰的なものに入々をかりたてるが明治の日本はビューロクラシーの思想と情報が人々とのそれと大きな差異をもった時代であった。
  • 汚物掃除法成立前後を中心として
    山崎 達雄
    1984 年 4 巻 p. 49-58
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    明治中項において処理すべき廃棄物は、一般塵芥、溝浚の汚泥、胞衣汚物であるが、量的な把握は汚物掃除法成立以前においてほとんど行われていない。
    これらの処理は、塵芥の資源化の試みなど明治初期における廃棄物処理に積極的な役割を果した化芥所が、1882 (明治15) 年に民間へ貸下された後、暫くの間は町の仕事として行われる。その後、特例市としての京都市の成立等、地方制度が整備されるに従い、塵芥処理も市の事業とされ、京都市は「塵芥採収請負人心得」を制定し、委託による塵芥処理を行っている。だが、塵芥採収請負人による市の塵芥処理事業は、財政的な理由等もあってか長く続かず、再び各後で構成する衛生組合の事業として行われ、1900 (明治33) 年の汚物掃除法の成立をむかえるのである。
    また、この時期における塵芥等の具体的な処理方法は、京都市内又は周辺の空地等が捨場として利用され、又、堆肥としても利用されている。なお、塵芥捨場の設置にあたっては届出制とされ、主に人家・道路等から十分離れているかが許可にあたっての大きな基準となっている。
  • 旧東京市内における復興局架設橋梁を中心として
    伊東 孝, 岡田 孝
    1984 年 4 巻 p. 59-70
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    永代橋や清洲橋などの隅田川橋梁が震災復興計画 (1924 (大正13)-1930 (昭和5) 年) によって架設された橋梁であることは有名だが、日本橋川や神田川などの運河、堀割に架かる橋の多くが、同じ計画で生み出されたことはあまり知られてはいない。震災復興橋梁 (以下「復興橋梁」) は、明治時代から欧米より吸収した橋梁技術を見事に開花させた成果物と雷われている。しかし、それらは単に技術面だけでなく、他の復興関連事業と一体となった都市計画の中に巧みに位置づけされていた、と推察できる。その特徴を3点あげると次のようになる。1.短期問に都市機能を復活させるためには、橋梁架設も急務を用した。しかし、ただ物理的条件を満足する永久橋梁を架設するのではなく、地域環境を考慮して構造形式の選定がなされた。美観を重視する箇所には種々のアーチ橋が配され、また河川と河川の合流点には原則として一径間の上路橋が架けられた。とりわけ側径間にア-チ形状のラーメン橋台を有する橋は、工期と美観を考慮して架けられたユニークな橋梁である。2.幹線街路に配された橋梁は96橋で、そのうち84橋の橋詰には一橋当り平均約440m2の植樹が施され、幹線街路の植樹総面積の約17%を占めていた。区画整理事業の助けをかり、復興橋梁には原則的に橋詰広場がとられ、貴重なオープン・スペースが整備されていた。3.目本橋 (1911 (明治44) 年竣工) のような華やかな装飾は影を潜めたが、個々の橋にシンボル性を持たセた親柱が造られ、路上および水上から橋の存在感を高めていた。
  • 窪田 陽一
    1984 年 4 巻 p. 71-80
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    This paper discusses the transition of the spatial structure of landscape in the Port of Yokohama upon the investigation of graphic materials and field survey.
    The Port of Yokohama has experienced a series of stages in its development process. Before mid-seventeenth century. the major space was defined by the configuration of terrain and centripetal around the natural “Harbour- of Shukan” which was afterwards reclaimed for rice crop. At the outlet of this lagoon, there was a sandbar called “Elephant's Nose” running out from the sandbank of “Komagata (shape of horse headr)”. The major sights were distributed within this enclosed space. After the Meiji Revolution. Yokohama was designated to one of the open ports. and the foreign and japanese settlements were constructed on the sandbank. The shoreline facing Tokyo Bay was altered into a promenade called “the Bund of Yokohama” to form a centrifugal space. The port was modernized and enlarged through several steps of construction which caused the sense of visual enclosure. In front of the Bund.“Yamashita Park” was made by the Reconstruction Work after the Kanto Earthquake. After the World War II. the port was extended outward with offshore reclamation, and this enhanced the visual enclosure of distant view. The elevated railway and expressway visually divided the port area from the center of the city.
    The major pattern of transition in the landscape structure in this port area are summerixed in terms of three aspects; extension and articulation of waterfront space: transposition of the distribution of viewpoints: conversion of major sight line. There may be some underlyin tendency in forming landscape; maintenance of the trace of past landscape: regression to or compensatory reproduction of the original landscape; transplantation of landscape from other place (Shanghai in this case).
  • 篠原 修, 天野 光一, 阪井 清志
    1984 年 4 巻 p. 81-89
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    首都高速道路は既に20年以上の歴史をもち東京の都市景観の重要な一構成要素となっている。本研究は、この着都高速道路の供用以後の各時代の景観評価を文献によって調査し、その変遷と評価傾向について検討を行ったものである。供用時から今日までの新聞、雑誌等に見られる首都高速道路の景観に関する記述をまとめると、その評価は、道路線形、首都高速道路上からの眺望、名所の破壊の3点に要約できる。これら3種の評価は首都高速道路供用当初から現在に至るまで一貫しており、その間のウェートが変化しているだけである。又、評価の対象にされてしかるべき、景観に配慮し設計に苦心した箇所は取り上げられず、結果のみが評価の対象となっており、一般にその評価は皮相的である。評価の視点位置も首都高速道路上の視点と首都高速道路を俯瞰した視点がほとんどであり、都市生活者としての街路上の視点からの評価はみられなかった。更に重要なことは、今回の調査の限りでは、首都高速道路の景観を正面から議論したものが見られなかったことである。これらのことから考える限り、土木や建築などの専門家や、いわゆる知識人、文化人と呼ばれる人々の都市景観への関心が意外に浅かったのが昭和30年代から今日までの現実である。なお、この研究は、「都市の景観形成と首都高速道路に関する調査研究委員会」(昭和58年度、(財) 日本文化会議) で行った作業をとりまとめたものである。
  • 特に七道駅路と高速道路
    武部 健一
    1984 年 4 巻 p. 91-98
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    日本の幹線道路網は、その形成過程からして、(1) 古代の七道駅路時代、(2) 江戸期の五街道時代、(3) 明治期の国道時代 (4) 昭和後期の高速道路時代、の4期に区分することができる。古代の七道駅路は、平城京および平安京を中心とし、放射状に全国に伸びる道路網体系であり、江戸期の五街道を中心とする諸街道は、江戸を中心とする放射幹線道路を軸に形成されている。明治期以降の国道網は、概ね街道網を踏襲しているが、統一国家としての面的形成に留意されている。自動車の発達に即応した高速道路網は、従来の国道網とは異なった新たな観点から網形成が行なわれているが、東京と大阪の二つの中心を持つ複心的な網構成にその特色がある。
    これらの各時代の幹線道路網のうち特徴的なことは、高速道路網が古代回帰ともいうべき様相を示し、七道駅路と延長、網構成、路線位置、駅 (インターチェンジ) 配置等において、顕著な一致性を見せていることである。延長については、高速道路計画の7.600kmのうち、北海道を除くと6, 500kmとなるが、七道駅路総延長6, 500kmとほとんど等しい。また路線のマクロ的な配置構成が近畿地域および九州地域において特徴的である。幾つかの地域において、高速道路の路線は近世の街道や近代の国道より山寄りとなって、古代路に近い場合がかなりある。また高速道路のインターチェンジと古代路の駅の間隔と位置はよく一致した例が各所に見られ、名称も同一なのが少なからずある。
  • 堂柿 栄輔, 佐藤 馨一, 五十嵐 日出夫
    1984 年 4 巻 p. 99-105
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    明治期における北海道開拓の歴史は, 鉄道建設の歴史に見ることが出来る.北海道における政府の開拓政策は明治初年から一貫して進められており, 開拓政策の進展が, 鉄道の建設計画とその運営方式を規制するという状況の下にあった. 北海道で最初に敷設された幌内鉄道は, 石炭の輸送という明確な目的をもって建設された. つまり北海道における鉄道は既になんらかの形で交通手段を持っていた全国のそれとは, 全く違った性格を有していたと言えよう. 北海道の鉄道の歴史はこの幌内鉄道に始まり, 以降鉄道は炭鉱から港湾への石炭輸送, 開拓地からの農産物および開拓者の輸送など北海道開拓を推進したのである。
    このように札幌を中心とした交通手段の整備は鉄道建設を上位計画として進められている. 本研究は明治期札幌を中心とした鉄道の建設を年表により時代分類を行い考察するものである. 対象とした期間は北海道に開拓使の置かれた1869 (明治2) 年から, 鉄道国有法の公布された1906 (明治39) 年までとした. この間幌内鉄道の建設を最初に, およそ1300キロメートルの鉄道建設がなされている. 歴史区分は鉄道事業主体の変遷と建設の進展段階とによった.
    北海道における鉄道建設の進展は当時の政治, 経済, 社会の状況の下に規定されていた. これを現在の対比として, 明治期の鉄道の歴史を考察することもまた意義のあることと考える. また, 各時代にその鉄道建設を担当した技術者についても若干の考察を行う.
  • 主として人力車・巡航船
    天野 光三, 三輪 利英, 前田 泰敬
    1984 年 4 巻 p. 107-113
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    明治後期から大正前期にかけて、成長期を迎えた大阪市の常住人口は100万人を超えて、膨脹し続けた。路面電車が市内交通機関として、十分な機能を発揮するに至る明治41年頃以前は人力車・巡航船が大阪市の都市交通の中心的役目を果たし、さらに、一部臨港地域では渡船も重要な役割を果たしてきた。
    なかでも、わが国の独創的交通機関である人力車は、明治初年に出現して以来、着実に増加して、明治中期以後は大阪市民の足として重要役割を果たすようになり全盛期には2人乗りもあわせて2万台を超えていたが、巡航船や路面電車、大正中期以降の自動車の発達により衰退して行った。路面電車開業と同年の明治36年運航を開始した巡航船は、最盛期には2万人以上の乗客を運んでいたが、明治41年路面電車の路線拡張により、大正2年にその使命を終えた。
    本研究は明治期における交通手段の変遷について述べる。
  • 天野 光三, 前田 泰敬, 二十軒 起夫
    1984 年 4 巻 p. 115-124
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    大阪都市圏の鉄道網の発達が、都市の発展過程と、どのような関係を持ちながら変化してきたか、また、鉄道開設に至るまで、その地域の交通事情はどうであったか、さらに、鉄道路線が計画された経緯等を調べ、鉄道開通前後より、現在に至るまでの市街地の発展情況を把握し、過去から未来に向って、時系列の中で考察し、新規路線の都市に与える効果の予測に利用出来ればと考えるところである。今回の発表は、そのうちの一部分として、比較的鉄道路線の競合性の少ない、東大阪地域での鉄道と都市の発展の関係を調査したものであり、不十分な資料ではあるが、一応この地域の交通慕情と歴史的背景を知ることができた。この地域の昔からの主要陸上交通は、大阪対奈良であり、大阪に陸揚げされた物資や、河内地方の産物を大和へ、また、大和の産物を大阪へと輸送する通路として、東西方向の道路が、古来より幾條にも開かれていた。南北の交通路は、大和川と淀川を結ぶ古くからの中小河川と、東高野街道など、生駒山麓に沿った街道がある。明治以降も東西方向の鉄道が先に開設され、南北を結ぶ鉄道は今だに実現していないが、これに代わるものとして、南北方向には、道路網が発展し、鉄道の補間的な役割をしている。
  • 主として道路の機械除雪について
    鈴木 哲, 大熊 孝, 松本 浩司
    1984 年 4 巻 p. 125-133
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    戦前は、降雪地域では自動車交通が可能なような道路除雪はほとんど行われなかった。社会的要求が、まだ未熟だったからである。戦後、車社会の到来と共に、要求が高まる。それを象徴的に示したのが36, 38豪雪で、これをインパクトに国・県・自治体等の道路除雪体制は急速に整えられ、量的にも質的にも高まる。当初、外国産の除雪車の輸入や模倣だったが36, 38豪雪を契機に、日本のきびしい条件に適合する除雪機械が独自に開発されるようになり、現在は、高速・短時間で広範・大量の道路除雪が可能になり、除雪の質も高くなってきている。
  • 金印の島のピラミッド図形
    木村 俊晃
    1984 年 4 巻 p. 135-142
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    その1「対称論」では、柳本・古市・百舌鳥などの大和朝廷の古墳群の配置計画が大阪湾沿岸30余km四方の山地地形を正確に把握し、近代的ともいえる高度の測地技術にもとずいて実施されていることを示すとともに、大和計画中心線からは29.58cm尺、仁徳計画中心線からは31.37cm尺をいずれも1/1, 000の高精度で検出した。
    その2「尺度論」では、日本・中国・朝鮮における尺度の時代的変遷を明らかにし、それをエジプト・ギリシャ・ローマの尺度系と比較して、古代世界尺度マトリックスを提案し、古代世界の尺度には古いエジプト系と新らしいギリシャ・ローマ系の2大系列があることを示し、実長のみかけ上の近似に反して、上記の31.37cm尺 (ラインフィート) はエジプト系、29.58cm尺 (ローマンフィート・唐尺) はギリシャ・ローマ系と別の系統のかけはなれた位置にあることを明らかにするとともに、大和・仁徳計画では、その初期に用いられた新らしいギリシャ・ローマ系尺度が吉墳建設事業の途中から古いエジプト系尺度に変更されたことになることを確認した。
    今回は、日本およびエジプトの古代施設配置計画のモチーフとなっている幾何図形の2
    ・3の実例を示し、それらがシルクロード以前におけるエジプト数学および測地学の直接的伝播を示す証拠と解されることを述べ、その世界史的意義について考繋する。
  • 渡辺 貴介, ラプキタロウ スントン
    1984 年 4 巻 p. 143-150
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    The paddy field reclamation work in the Edo period was usually made through the construction of irrigation system and the extensive implementation of cropping program. The project of Sarmtongi, being started in 1854, was initiated from theagricultural waterpaths operated under a relatively distinctive construction technology of the time. Furthermore, the new town and regional planning idea was peerlessly and successfully conducted. This historical performance is verified to be in close consistency with our contemporary theory for regional planning and is still the principle for the development of Towada City nowadays.
  • 西村 浩, 中村 良夫
    1984 年 4 巻 p. 151-156
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    首都東京の西部への拡大は、関東大震災 (1923、大正12年) 以降、特に大正末から昭秘初期にかけての郊外鉄道建設ラッシュと相前後する形で活発化した。当時は、職場を都心に持ち、郊外から通勤するといった生活形態が広まり出した時期であり、当時の注宅地における空間設計思想は、それ以前や、最近の状況とは異なる特徴を有している。本小論では、現筏、良好な柱宅地といわれている東京西南部の目黒、世田谷その他をケーススタディとして主として空間設計思想について、その特徴を述べる。
  • ハワード田園都布との比較
    清水 浩志郎, 折田 仁典, 本木 正直, 林 達夫
    1984 年 4 巻 p. 157-162
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    秋田県仙北郡千畑村の豪農坂本理一郎 (東嶽)(文久元年 (1861年)~大正6年 (1917年)) は、明治35年 (1902年) 頃から千屋地区で耕地整理をはじめ道路整備、役場、学校、郵便局の移転などを計画的に行ない新しい村づくり事業を開始した。その土地利用の基本形態は、中心地区に行政機能などを集中させ、そこから松・杉・桜並木の放射状の6本の道路で各地区を分割している。坂木が独自の発想で村づくり事業を開始したほぼ同時期に、英国においてエペニザハワード (1850~1928年) が田園都市論 (1898年) を発表した。
    本報告は、坂本による千屋地区の村づくりとハワードの田園都市計画との類似点に注目し、両者の計画を歴史的背景等から比較・検討したものである。
  • 秀島 隆史
    1984 年 4 巻 p. 163-174
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    土木構築物は、必然的に自然の人工的改造を伴うものであるから、そこにはプラスとマイナスの両面が生ずる。現代の土木事業は、巨大化、広域化の傾向が強く、若しその方向を誤れば、マイナスの影響するところは極めて大であると思われる。こゝにおいて、我が先人達の自然との対決の姿勢や英知を理解し、今日までの時代の流れの中に、土木の経緯を把握することは、今日の重要な課題であり、土木史を研究・考察する意義もそこに存在すると思われる。
    日本土木史を研究・考察する場合、先づ我が国の「土木」及び「歴史」の本質的なものを理解し、その構成の要素に分類する必要がある。そして、これらの要素に基いて、土木史考察の要素を把握する必要がある。本論においてはその要素を、(1) 時間的なもの、(2) 対象となる自然物とその状態、(3) 地域的なもの、(4) 土木構築物等、(5) 時代背景に区分したものである。
    日本土木史の考察の方法は、その主題の採り方と、これらの要素の採り方ならびにその組合せ方によって決まるが、内容的には多岐に展開されるものである。本論においては、「(1) 時間的なもの」について若干の説明を加え、考察の例として、道路政策、福岡市の問題を挙げたものである。
  • 鈴木 恒夫
    1984 年 4 巻 p. 175-181
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
  • 大貫 三郎
    1984 年 4 巻 p. 183-189
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    庚申塔・馬頭観世音・お地蔵さま等は、日本全国にあり路傍の石仏とか、野の仏たちと呼ばれ、親しまれている。それらの多くは江戸時代に造られ、信仰のシンボルとしての役割を果してきたと同時に、旅人に対する道しるべとして大切な存在であった。しかし、現在それらの石仏達は、役目を終えたかのような存在になって簡単に移転されたり、壌されたりしていると言う。
    今回田無市にある石仏たちを中心にして、田無の町の歴史を生徒と一緒に調べた結果次のようなことが分かり、土木史の教材として郷土史を扱うのが非常に良いと思った。
    1。庚申塔・馬頭観世音・お地蔵さま等について調べると、江戸時代の民俗信仰が分かり、村人達の生活様式の一端を想像することが出来る。
    2。石仏達が身近にあるので、調査がしやすく、疑問点が出たときでも簡単に調べに行く事が出来る。
    3。地図に石仏たちの立っている位地を記入し、江戸時代の地図を重ねると、江戸時代の道路網と、現在の道路網との比較が出来る。
    4。地図を見た時でも、自分たちの町の状況は良く知っていて、古い地図を見ても理解が早い。
  • リレーショナル・データベースを用いた土木史史料の整理
    佐藤 馨一, 五十嵐 日出夫, 堂柿 栄輔, 中岡 良司
    1984 年 4 巻 p. 191-197
    発行日: 1984/06/25
    公開日: 2010/06/15
    ジャーナル フリー
    年表の作成は歴史の研究において最も基本的な、しかも重要なプロセスである。土木史研究においても明治以降については、「近代欝本土木年表」としてすでに発表されている。しかし明治以前については体系的に作られた土木史年表はなく、その編成が大きな研究課題として残されている。本文はこの点に着目し、小川博三著「日本土木史概説」から明治以前の主要土木史事項を抜きだし、明治以前日本土木史年表を試作したものである。この年表では明治以前を五つに区分し、各時代ごとに30~33の項目を取り上げた。
    本研究の最終目的は日本土木史年表の作成にあるが、本文ではとくに年表編集のプロセスにおいて、リレーショナル・データベースを用いて簡便に土木史史料を整理し、修正し削除する方法を開発した。すなわち本研究では大型電子計算機によらず、安価でかっ日本語入出力が可能なパーソナルコンピュータを用い、さらに入力した文章データを各種ファイルに再編集した。この結果、膨大な文書史料から必要事項を任意に検索、修正、削除することが可能となり、土木史史料の作成・整理・保管・再編集作業のシステム化、迅速化が図られることになった。
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