攻玉社は鳥羽藩士近藤真琴 (1831-1886) が, 文久3年 (1863) に四谷坂町の自宅で, 同学の士に蘭学を教授したことに始まる。これは当時の藩校等に対する私塾 (Private Academy) で, その後, 攻玉塾から攻玉社と発展し, 中学校, 工学校と商船簧の三校並列で現在に至っている。真琴は和漢蘭英独の語学に通じ, また軍艦操練所 (後に海軍兵学校) 測量算術教授方として, 創設時の海軍にも貢献した。近藤は当時の “富国強兵”, “殖産興業” のため, には, 先づ海外交易と国土開発とのための入材の養成が必要と断じ。私財を投じて, 航海測量習練所 (明治7年) 及び陸地測量習練所 (明治13年) を作った。これ等の工学校や商船簧は, いずれも, 小学校から入学できる学校で, 藩校や官立の高等教育機関 (工部大学校) 等に行けない子弟を受け入れた。当時は, 地方の青雲の志を抱いた青年は。先輩知人を頼って都会へ “留学” して勉強し官吏その他それぞれの “出世” の道へ進んだ。
攻玉社陸地測量習練所は後に土木科 (明治21年) となり, 31年からは夜間授業となって, 働く青年のための中級技術者 (技手) の養成機関として, 多くの実力の有る土木技術者を世に送り出し, “土木の攻玉社” の名声を得た。
また, 攻玉社の教員や卒業生は, 土木を志す人々に解り易すい講義録・便覧・解説書を多数出版し, 明治時代の技術の普及向上に貢献した。
以上のことを, 攻玉社を明治26年に卒業した東京市技師亀井重麿を通して検証した。
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