日本近代文学
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94 巻
選択された号の論文の34件中1~34を表示しています
論文
  • ――漱石『文学論』生成における視覚性の問題と『草枕』――
    服部 徹也
    2016 年 94 巻 p. 1-16
    発行日: 2016/05/15
    公開日: 2017/05/15
    ジャーナル フリー

    漱石は『文学論』出版に際し、草稿『文学論ノート』、東京帝国大学講義に見られる描写論を増補している。本稿はこの描写論に作品世界への没入体験である「幻惑」が密接に関わることを示した。またこの描写論の理論的課題が視覚性の問題であることを論証し、漱石がこの課題に小説『草枕』でも取り組んでいたことを示した。漱石の描写論は視覚性の問題を探究してはいるが、『草枕』のような作品を読む際に生じる視覚性とイメージ連鎖を説明しきることはできない。読者の認知過程に多くを委ねる『文学論』は、「自己催眠的」な読者の一回的な読みによって暫定的に傍証を得るしかない理論的限界をもつ。本稿は『文学論』と『草枕』の緊張関係を読み解き、漱石が困難を冒して描写による「幻惑」とその理論化に挑んでいたことを示した。

  • ――主客融合と無意識――
    権藤 愛順
    2016 年 94 巻 p. 17-30
    発行日: 2016/05/15
    公開日: 2017/05/15
    ジャーナル フリー

    明治期の木下杢太郎が、情調を喚起させる表現を重視していたことはよく知られている。しかし、これまで、杢太郎の試みた情調表現は極めて表層的なものであると考えられてきた。本稿は、明治三八年を始点とするわが国におけるStimmungというドイツ美学の受容の様相を明らかにし、杢太郎における情調表現の本質が深層の心理と関係するものであることを考察している。杢太郎の情調表現を評価したのが夏目漱石であった。本稿では、杢太郎の情調表現の意義を認めた漱石の背後にある思想性を分析し、従来あまり言及されることのなかった漱石と杢太郎の思想的接点も明らかにしている。さらに、Stimmungという概念が受容された結果、明治四〇年代の文壇において、無意識を表現することへの関心が広がりをみせていることも明らかにしている。

  • ――東北旅行と池田蕉園をめぐって――
    田中 励儀
    2016 年 94 巻 p. 31-44
    発行日: 2016/05/15
    公開日: 2017/05/15
    ジャーナル フリー

    大正十年五月上旬、泉鏡花は上野を発ち、平泉・松島・飯坂温泉を周遊した。この東北旅行を舞台とする小説「銀鼎」正・続は、夭折した女性歌人衣絵の霊が、銀の小鍋から沸き立つ湯気の中に垣間見える哀切な作品である。近代技術の粋といえる鉄道の車内が、どのようにして現世と他界とを結ぶ空間に変じるのか、時刻表や踏まえられた古典文学・伝説などを視野に入れ、さらに自筆原稿・初出誌・初刊本の本文異同を検討したうえで、成立過程を追った。

    衣絵は女性日本画家池田蕉園を、同じ肺結核で死去した夫香川は池田輝方を、それぞれモデルとする。蕉園の新たな伝記的事実や泉鏡花との交友を掘り起こし、本作の意義を探った。最後に、同じ旅の所産である「飯坂ゆき」を取り上げ、幻想小説と紀行文との連絡にも言及した。

  • ――井伏鱒二「谷間」論――
    佐藤 貴之
    2016 年 94 巻 p. 45-60
    発行日: 2016/05/15
    公開日: 2017/05/15
    ジャーナル フリー

    井伏鱒二「谷間」(「文芸都市」昭和四年)はその〈笑い〉が高く評価され、彼の登場を印象づけた出世作である。先行文脈を反復しながらも差異づけていく本作の叙述は、農村の騒動が「運動会」に変容するという物語内容とも照応しており、本稿はその構造をパロディという観点から考察したものである。昭和初頭の農村状況を背景に、社会的慣習に承認された「名」の権力への対抗戦略として、パロディは再領土化の可能性を示している。本作には様々な先行文学の定型が引用されているが、例えばプロレタリア芸術の諷刺画を踏まえた箇所からは、〈笑い〉の表現に対する井伏の模索も窺える。井伏自身はパロディの遊戯性を改稿によって否認するが、同時代のギャグとも共鳴した攪乱的な〈笑い〉を再検討することは今なお意義を持つ。

  • ――転向小説「癩」(島木健作)への抵抗と他者性の再構築――
    李 珠姫
    2016 年 94 巻 p. 61-76
    発行日: 2016/05/15
    公開日: 2017/05/15
    ジャーナル フリー

    北條民雄の「道化芝居」(一九三八年)は、転向した社会主義者とハンセン病に罹った同志の再会を描いたテクストである。この物語設定が、ハンセン病者の監獄に収容された社会主義者が、そこでかつての同志に出会うという島木健作の「癩」(一九三四年)に類似するのは偶然だろうか。本論文は、「道化芝居」が「癩」への対抗言説として書かれていることを初めて主張するものである。さらには、「癩」のテクストがハンセン病者の社会的排除を絶対視することで成立していることを確かめ、「道化芝居」がその設定を転用して「癩」における他者表象の倫理性を問題化するテクストであることを明らかにする。

  • ――坂口安吾「真珠」における〝抵抗〟の方法について――
    山根 龍一
    2016 年 94 巻 p. 77-91
    発行日: 2016/05/15
    公開日: 2017/05/15
    ジャーナル フリー

    一九四二年前半は、アジア・太平洋戦争で日本軍が制圧地域を拡大した時期である。と同時に、論壇に〝軍人を藝術家と見なす論調〟が目立ち始めた時期でもあった。このような論調に異議を唱えることは、いかにして可能だったのか。本稿は、この問いを念頭に置く。そして、〝軍人を藝術家と見なす論調〟に〝抵抗〟する作品として、坂口安吾の小説「真珠」を読み変える。具体的にはまず、作品の前半部から、海軍軍人である「あなた方」と文学者である「僕」の対照的な関係を抽出した。次に、後半部から、両者を関係づける言語戦略を抽出した。その上で最後に、分析結果を同時代状況に接続した。そして「真珠」が、「軍人は藝術家である」という判断の妥当性を、揺さぶり、突き崩す可能性を持つ作品であることを結論づけた。

  • ――「現代の悲劇性」への眼差し――
    飯島 洋
    2016 年 94 巻 p. 92-106
    発行日: 2016/05/15
    公開日: 2017/05/15
    ジャーナル フリー

    人間関係における疎外感から精神を病んだ女性の物語として読まれてきた「世界の終り」を、万物照応・二重人・北方志向・現実批評などのボードレール受容や、同時代表象との関連を軸に解釈する。まず、主人公・多美は家族の問題で精神の問題を抱えたのではなく、生来、現実の世界を否定する存在として作品世界に投げ出されたのであり、その世界観が外界と照応して滅びの光景が現出していることを確認する。そしてその世界観は死と統合された静謐な生が現実世界では許されないというものであることを論証する。さらに、多美の個人的な悲劇が、原爆表象と内面的時間に基づいた語りの二重化作用という機構によって、現代の人間存在の問題へと普遍化されていることを検証した。

  • ――大江健三郎『万延元年のフットボール』論――
    村上 克尚
    2016 年 94 巻 p. 107-122
    発行日: 2016/05/15
    公開日: 2017/05/15
    ジャーナル フリー

    本稿の目的は、大江健三郎の『万延元年のフットボール』における《動物》の表象に着目し、先行言説の欠落を補うことである。まず、この小説に主体の解体を読み取る立場については、その先に出現する《動物》同士の依存関係を取り逃していることを指摘した。次いで、歴史と記憶に着目する読解が、歴史学の現在の知見との共通性を強調するあまり、この小説が、ベトナム戦争期の日米関係を背景に、主権が《動物》を抑圧するメカニズムを描いているのを見過ごしているのではないかと指摘した。さらに、蜜三郎と鷹四のあいだで優劣を定めようとする読解が、鷹四が見せた《動物》的な苦しみを軽く見積もらせ、赦しという重要な主題を捉え損なっていることを主張した。最後に、翻訳に着目する読解は、最終的に、人間/動物という境界線を越えて、傷つきやすいもの同士が身体のレヴェルで生じさせる共振への着目へと至るべきこと、その次元にまで降りて初めて、《主権》=《主体》の暴力の乗り越えと、赦しへの共同的な歩みが可能になることを論じた。

  • ――乞食に託された自画像――
    下岡 友加
    2016 年 94 巻 p. 123-135
    発行日: 2016/05/15
    公開日: 2017/05/15
    ジャーナル フリー

    黄霊芝は戦後台湾において日本語による文芸創作を六十年以上続けてきた、「日本語世代」を代表する作家である。黄の代表作「蟹」は蟹を食べ、そして蟹に食べられるという乞食の顛末を中心に描き、生命の循環の歴史をテーマとして提示している。最終的に西方の海を目指して旅立つ乞食の道程は、死を代償とした自然への回帰であり、彼は生物として理想的な死を迎えた。しかし同時に、その乞食の像を戦後の政府によって虐げられ、政治の中心から追いやられた台湾人の姿の暗喩と見なすことができる。「蟹」は戦前戦後の政変による苦渋と忍耐のなかで生まれた黄文学の思想の核を知る上でも、戦後台湾であらわされた日本語文学の水準の一端を知る上でも極めて重要な作品と位置づけられる。

《小特集 劇的なるもの》
  • ――水族館-人魚幻想、〈見交わし〉の惑溺――
    佐藤 未央子
    2016 年 94 巻 p. 136-151
    発行日: 2016/05/15
    公開日: 2017/05/15
    ジャーナル フリー

    映画監督の小野田吉之助が作中で撮る映画「人魚」の機能と、吉之助また女優グランドレンの動向の相関性に焦点を当てた。観客を没入させる一方で見る主体と対象との間に隔たりがある装置として水族館と映画館は類似する。「人魚」のプリンスと人魚がその隔絶を越えて結ばれたように、吉之助もグランドレンとの交情に惑溺、映画と現実を混同したうえブルー・フィルムを製作する。映像の視覚美に加え、フィルムへの触覚的な接し方も人魚の比喩を用いて表された。映画的な視覚性を持ちつつ肉体を持つ人魚が泳ぐ水族館は物語の象徴として機能した。「人魚」は本作のプロットを方向づけており、吉之助において映画と人魚への欲望は一体となっていた。本作は「見る」ことの誘惑から、触覚、嗅覚を刺激する〈肉塊〉の歓楽に達する動態を映画の存在論に沿って描いた作品であると論じた。

  • ――劇的なものの発信――
    宮内 淳子
    2016 年 94 巻 p. 152-166
    発行日: 2016/05/15
    公開日: 2017/05/15
    ジャーナル フリー

    岸田國士は、悲劇だけに劇的なものを見るのではなく、現代では日常のなかに喜劇を発見する批評精神が求められるとする。だが、この日常の喜劇は書かれたものだけでは機能せず、観客を入れた劇場ではじめて発信されるという。具体例として岸田國士「ママ先生とその夫」を取り上げ、築地座での上演時の岸田の演出ぶりや、俳優たちが戯曲からどのように役を立ち上げていったかなどを、当時の劇評や主演者の回想などを資料として探る。劇場では戯曲のことば以外の表現が求められ、近代の支配的言語観からどう抜け出すかが問われていた。その点で、文学と一線を画す戯曲のあり方にも言及した。

  • ――井上ひさし『父と暮せば』を観ること――
    嶋田 直哉
    2016 年 94 巻 p. 167-180
    発行日: 2016/05/15
    公開日: 2017/05/15
    ジャーナル フリー

    井上ひさし『父と暮せば』(一九九四・九)は死者である父竹造が幽霊となってあらわれ娘美津江にヒロシマの記憶の受け渡しをする物語である。美津江は竹造から「原爆資料」を加えた新たな〈歴史〉を覚え直すことが求められる。また第四場の「ちゃんぽんげ」(ジャンケン)の場面は実際の舞台から考えてみると父娘の個の記憶と集団的な記憶=〈歴史〉が同時に提示されている。また井上ひさしは数多くの被爆者の手記をもとに『父と暮せば』を創作したことがわかっているが、その言葉を観客である「われわれ」は運動体の言葉として受けとめる必要がある。その時『父と暮せば』は世代を超えて継承するべき作品として存在することになるだろう。

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