-
原稿種別: 表紙
2004 年 13 巻 p.
Cover1-
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2004 年 13 巻 p.
App1-
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
生田 久美子
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
i-
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 目次
2004 年 13 巻 p.
Toc1-
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
森田 伸子
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
1-15
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
公教育制度とともに国民の識字化が着手されて100年余りを経て、文字は今どのような状況にあるだろうか。学校教育を、知育偏重、文字主義、書物主義と批判し、実感や経験、あるいは身体や美といった、分節化の彼方にある生の全体性を回復すべきだという教育論は、20世紀初頭の新教育運動以来、依然として進歩主義的教育論の主流を占めつづけているように思われる。本論文は、今日の状況をむしろ教育における文字の新たな位置づけが切実に要請されている時代としてとらえ、その思想的枠組みを、18世紀フランスの言語論における文字の思想を再検討することを通して模索しようとするものである。
抄録全体を表示
-
弘田 陽介
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
17-28
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
カントというテキストに触れること/このことは単に彼が残し現在まで刊行されてきた著作や研究書にあたることを指すのではない/彼が生きた時代およびそれ以降の200年間のテキストへの接触の技法こそが、カントをカントにしてきたテキストなのではないか/彼のテキストを読み、それと接続するテキスト/同時にそこから離れていこうとするテキスト/その中にカントそして近代の人間はいる/この場においては、カントを読み、触れる私の身体それ自体を読み、触れることによって、カントを読み・書くという営みが形作ってきた、私たちの研究のスタイルそのものを問いに付すことを試みてみたい。
抄録全体を表示
-
山名 淳
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
29-38
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
この司会論文では、まず弘田論文の特徴を、フォーラムの際に交わされた質疑応答も参照しつつ、私の関心に引き寄せて整理する。その後、フォーラムの質疑応答で提起された疑問などを紹介し、同時にそれに対応すると考えられる回答を弘田論文に求めてみたい。最後に、弘田論文および弘田フォーラムをきっかけに生じた自問について言及する。
抄録全体を表示
-
田中 智志
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
39-48
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
弘田は、近代教育学がいだいてきたカント像を構成するいわば言説装置を論じている。それは「超越論的なものと経験的なもの」とのせめぎあいである。この言説装置によって喚起されるものが近代教育学に見られる「人間的なもの」への渇望である。彼は私たちの教育学研究がこの言説装置の「外」に出られないという。彼のカント論はフーコーのカント論を彼なりに読みかえたうえで構成されているが、彼のフーコー論はフーコーが拒絶したカントの人間学をフーコーの晩期思想と見なすとともに、フーコーが肯定したカントの<アクチュアリテからの批判>をフーコーの思想から消している。人間学こそフーコーの敵であり、アクチュアリテこそすべての言説装置の「外」を開く起点である。批判的で闘争的なフーコーを批判的で非闘争的なカントのなかに回収してはならない。
抄録全体を表示
-
桜井 佳樹
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
49-57
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
このコメント論文は、弘田氏を「テキスト」として解読する試みである。弘田氏がカントを素材に報告した発表内容及び「報告論文」と、その「要旨」には大きなずれが認められる。彼が語ったことは、語らなかったもの・語ろうとして語り得なかったものの材料に過ぎず、彼が語らなかったもの・語り得なかったものを理解して初めて、意味が生まれる。それは、彼が「身体の『詩学』」と呼ぶ「方法論の問題」だと想定できる。弘田氏が他の諸論稿で語ってきた「方法論」に関する断片を素材に、彼の思想内容を再構成したい。そのことによって、弘田氏と読者が相互理解するための前提が構築されるはずである。
抄録全体を表示
-
松浦 良充
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
59-74
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
本報告において筆者は、「教育」思想史のオルタナティヴとして「Learningの思想史」を提案する。それは、「教育」ではすくいきれない人間の知的営為について、Learningということばを軸としてゆるやかに捉えこむことによって、その意味を歴史の文脈のなかに探し求めようとする試みである。Learningの思想史の対象と方法は多様でありうる。ここではそのアプローチの一つとして、Liberal Artsはどのように学ばれてきたのか、という問いを立てる。それによって「学習」でも「学び」でも、そして「教育」でもないLearningの様相に迫りたい。とりわけ大学成立前後のLiberal ArtsのLearningにまなざしを向けてみよう。そこに見えてくるのは、テクストと対峙しつつ「読む」こと、そしてそれについて「瞑想」「記憶」する、というLearningである。テクストをパラメータとして、Learningを見る視点。それを今回提案したい。
抄録全体を表示
-
松下 良平
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
75-84
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
松浦氏は、Liberal artsをめぐる知的営為を「学習」でも「学び」でもなくあえて「Learning」と呼び、「『教育』を反転させる概念装置」として位置づけようとする。だがその試みは、「Learning」を歴史的に相対化することと、それを現実批判のための規範的枠組みとすることとのあいだで揺れ動いている。それは教育思想史と教育哲学の相剋を反映しているともいえるが、同時に氏の「Learning」の捉え方が生みだしたジレンマでもある。「Learning」を「『内容』=テクストとの対峙」として捉えることは、「Liberal artsのLearning」を中世ヨーロッパのエピソード以上のものにするが、「教育」を反転させることにはつながりにくい。氏の意図を活かす手がかりは、むしろイリイチのフーゴー学習論にあるように思われる。そのとき、「教育思想史のオルタナティヴ」としての「Learningの思想史」の構想は、より包括的な「学びの思想史」に統合される必要があろう。
抄録全体を表示
-
加藤 守通
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
85-91
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
松浦会員が提起した「Learningの思想史」は、われわれが自明なものとみなしてきた教育や学問に関する理解の枠組みに揺さぶりを仕掛ける、刺激的な構想である。この種の試みが既存の教育観や学問観の風圧に抗して進まざるを得ない以上、そこには多くの困難が待ちかまえている。この構想の可能性と問題点について、以下の四つの視点から論じる。1)教育思想史の窮屈さについて、2)「二つの系譜論」について、3)読書について、4)相対主義について。
抄録全体を表示
-
宮寺 晃夫
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
93-102
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
教育学言語としての「学習」は、心理学言語としてのそれとはことなるつかわれ方をする。心理学言語としての「学習」は行動主義的に定義され、S-Rによる習慣形成から高度な知識の習得まで、ひろく行動の変容を説明する原理としてつかわれる。それにたいして、教育学言語としての「学習」は内容特定的に規定されてはじめて意味をもつ。それゆえ、教育学の立場で関心があるのは、「何が学習されるか」(What is learned?)であって、「学習とは何か」(What is learning?)ではない。この内容特定的に規定される「学習」のルーツはどこにもとめられるのか。ひとつは中世大学でのLiberal artsの学習である。それを松浦氏は'Learning'と大文字で表示し、それは<教える-学ぶ>の教育関係から自立した「人間の知的営み」であったとしている。これは重要な着眼である。しかし問題は、Liberal artsという特定化された内容のLearningが、教育学言語としての「学習」(learning)にどのようにつながっていくかである。このLearningからlearningへのトランスファーを、本稿では思想史的にあとづけていく。
抄録全体を表示
-
辻本 雅史
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
103-112
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
日本近世教育を思想史の方法でとらえる立場(つまり「西洋/近代/教育学」研究の「他者」としての立場)から、本主題へ応答する。とくに近代日本と対照させる意図のもと、近世の側から、第1に「学びの身体性」,第2に「教育のメディア史」について論じた。第1については、(1)手習塾での手習いが手本を繰り返して模倣する身体的学習であること、(2)儒学学習の第一段階の素読が経書テキストの身体化であること、(3)この学びの身体性は貝原益軒の身体を回路とした人間形成の教育論にも見出せることを指摘した。第2について、(1)17世紀に成立した「文字社会」が大量出版メディアと相まって,近世の教育を規定したこと、(2)近代学校は近世以来の文字社会をさらに進展させたこと、(3)現代のメディア大転換がこの400年の文字社会を解体させ、知の大転換を惹き起こしている事態ととらえ、教育と教育学は再定義が迫られていること、などを論じた。
抄録全体を表示
-
北村 三子
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
113-122
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
日本の伝統的な学びの様式から近代的な学びの様式への移行を「関係性の変化」という観点から捉え、その概略を辿るとともに、それが個々人においてどのような現れ方をしたのかを、新渡戸稲造と嘉納治五郎の教育論を例にして検討する。
抄録全体を表示
-
橋本 美保
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
123-133
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
「他者としての近代」というテーマに筆者は違和感を覚えている。それは「近代=西洋」という理解を前提としており、その理解は西洋化以外の近代化の可能性を排除するからである。本報告では、「近代=西洋」の図式自体が問い直されるべきであることを明確にするために、近代日本にカリキュラムの二重性が生じる過程に注目した。潜在的カリキュラムの概念を用いてこの過程を分析すれば、異文化としての西洋カリキュラムを受容し運用したのは、旧下級武士階級に蔓延した日本的儒学知と功名的学問観であったと考えられる。このことは、実践主体の主観的な文脈が、顕在化する公共性のスローガンとしての近代的価値を無意識に日本の西洋的な近代教育として定着させていったことを示唆している。西洋こそが常に「他者」として機能してきたという事実を認識し、近代的教育価値の内実に照らして史実を検討してこそ、我々は近代化の到達点が何であったのかを知りうるであろう。
抄録全体を表示
-
矢野 智司
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
135-142
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
シンポジウムでのそれぞれの発表の中で、明示的あるいは暗示的に示される「他者」の像を手がかりに、それぞれの発表者の問題提起を整理しつつ、そこから立ち上がってくる教育思想史研究上の反省的な課題を提起する。その課題とは、私たちが教育について考える際の問い方や議論の仕方を規定している翻訳語の課題であり、私たちの研究の立脚点の歴史的反省という課題である。
抄録全体を表示
-
清水 禎文
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
143-149
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
近代とは、認識論に基因する新たな人間像の提示、またその人間像に基づく人間的諸権利の発見及びその制度化への努力であった。それは本質的には、人間に自由をもたらす解放の理念であった。しかし、当初の理念が希薄化し、官僚化した制度のみがひたすら合理化へと向かうなかで、最終的には意味の失われた「鉄の檻」に至るというアイロニーをもたらした。新たな認識論上の革命でもないかぎり、そこから逃れることはできない。こうした状況のなかにあって、実践的な課題としては、認知のみならず身体に刻み込まれる習熟と模倣、あるいは関係性と自己創出は、新たな教育を切りひらく有効な手段となりうるであろう。
抄録全体を表示
-
江口 潔
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
151-158
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
本稿では、日本の近代化を、単に西洋化の過程としてではなく、伝統的な思考様式も反映した過程として捉えるべきだという指摘をふまえ、西洋思想を積極的に摂取していた戦前の教育学の中に伝統的な思考様式と共通した視点を見ていくこととしたい。先ず、大正期の教育学が、西洋思想に根拠付けを求めながらも、模倣と習熟を中心とした伝統的な学びと共通した思想的課題を示していたことを指摘するとともに、戦時期の「錬成」を取り上げて、先に西洋の教育思想に見出していた課題を、日本的な教育方法に見出す見解があったことを指摘した。ここでは伝統的な学びが近代批判として位置づけられて理解されたことを見出したが、その一方で、戦前の学び論が今日の学び論とは異なる視点を提起していたことも指摘していくこととする。
抄録全体を表示
-
スタンディッシュ ポール, 齋藤 直子
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
159-168
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
北詰 裕子, 柴山 英樹, 柏木 敦, 渡辺 哲男
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
169-182
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
小林 大祐, 松岡 靖
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
183-191
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
江口 潔, 前田 晶子, 高瀬 雅弘, 日暮 トモ子
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
193-201
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
ヴルフ クリストフ, 今井 康雄, 樋口 聡
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
203-210
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
秋田 摩紀
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
211-225
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
演説指南書とは、明治10年代から大量に出版されつづけた弁論術の総合マニュアル本である。これらの書物には、あるべき演説の姿や演説者像が図解つきの身振り手振りの技法という形で刻印されており、それはまた演説がまだ新奇な作法であった近代日本に理想とされた知識人像でもあった。本稿はこれらの身振り教授の図を手がかりに、学者に代表される知識人が不特定多数の人々にどのように見られたがっていたかという知識人の欲望を解き明かす。細かな計算つくの「技法」は、見られることに対する不安に裏打ちされていたが、明治40年代から大正時代にかけて、この不安は快楽に転換する。それとともに、身振りは演説者と聴衆を熱狂の渦にまきこむ重要な要素となっていく。演説の身振りを教えることをめぐる問題圏は、たんに演説者の文字通りの身振りだけではなく、近代以後、知識人に理想とされる「身振り」(振る舞い)がどのように構成されてきたかの考察をも含むものである。
抄録全体を表示
-
池田 全之
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
227-246
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
教育思想史研究において、我々は過去のテキストを読解している。だが、この読解において過去のテキストの含意を、我々は無自覚に自身の意味づけ作用の中に回収してはいないか。教育思想史研究でなされてきた他者性を巡る議論を踏まえれば、こうした疑問が脳裏に去来する。現代思想の動向から考えれば、テキストが孕む理解不可能性(他者性)を極限まで尊重する解釈術としては、デリダの業績が真っ先に思い浮かぶ。だが、デリダも指摘するように、こうした解釈術の先駆けとして、ベンヤミンの批評手法がある。当初翻訳論として提起された、テキストの真理そのもの不在と諸翻訳の協働によるその再現という解釈術構想は、『ドイツ悲劇の根源』の序論で、現象の概念的弁別と理念におけるその救済の思想に拡張され、『パサージュ論』において、対立項の緊張の極みでの真理の閃き構想(静止状態の弁証法)に帰着した。本稿は、文芸批評の方法論から始まり社会批判の方法に深化したベンヤミンの解釈術の構造を、その鍵語であるアレゴリーに着目して解明し、破壊即救済というそれの特異なテキスト理解論を明らかにした。
抄録全体を表示
-
岩下 誠
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
247-260
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
教育学研究において、ロック教育論における観念連合は単なる初期教育の手段と見なされてきた。そして、観念連合による教育は、『人間知性論』『知性指導論』における理性による教育、あるいは自己学習による教育に対し、その代替(道徳)教育として考えられてきた。このような解釈に対し、本稿は、ロック教育論において、観念連合が単なる教育手段ではなく、子どもを教育関係へと参入させる教育可能性の条件として機能しているということを示す。まず、ロックの狂気に関する日記の検討によって、狂気は理性の欠如でも観念の失調でもなく、想像力の過剰であることが示される。第二に、『知性論』における狂気と観念連合の分析によって、日記における「像」が認識の最小単位である観念へと微分されること、およびこの微分は必然的に観念同士が「有意的、あるいは偶然的に」結合する領域を導くことが指摘される。第三に、『知性論』で批判の対象となった「自然の対応をもたない」観念連合が、『教育に関する考察』においては、徳育のみならず、知育にも導入されていること、そしてこの観念連合により、子どもが「上手くだまされて」教育関係へと参入することが示される。この検討の結果、ロックにおける教育可能性は、子どもの完全な受動性ではなく、子どもの心の有意的な側面を前提にしていることが示される。この結論によって、「タブラ・ラサ」的なロック教育論解釈は否定されるであろう。
抄録全体を表示
-
北詰 裕子
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
261-278
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
近代教育においてコメニウスは、レトリック教育と相反する事物主義の祖として位置づけられてきた。しかし、彼の脚本形式の著作『遊戯学校』は、事物提示の表象機能と修辞学的な語りの機能という二側面を含み込むテクストであった。本論は、一七世紀当時の演劇や修辞学の再編という文脈の中に『遊戯学校』を置き直すことで、そこ描かれている世界構造(事物・学校・人間・宗教の四世界)を明らかにする。『遊戯学校』において世界の構図(扱われる諸事物・空間構成)と、その示され方(対話・独白、アレゴリー的擬人化等)は密接に関わっており、<学校>場面の特徴的な入れ子構造の背景には、世界を学校として捉えるコメニウスの思想があった。また、『遊戯学校』は伝統的なレトリック教育における対話実践を引き継ぎつつも、当時の修辞学教育が、擬似-法廷弁論や書簡の書き方等、公共生活と社交に向けられた訓練だったのに対し、『遊戯学校』は「世界を表象」することに向けられている点で、独特なものであった。
抄録全体を表示
-
上地 完治
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
279-282
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
下地 秀樹
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
283-286
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
田代 尚弘
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
287-291
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
小野 文生
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
293-299
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
平野 正久
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
301-305
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
大関 達也
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
307-310
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
西村 拓生
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
311-316
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
坂倉 裕治
原稿種別: 本文
2004 年 13 巻 p.
317-319
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2004 年 13 巻 p.
321-322
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2004 年 13 巻 p.
322-
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2004 年 13 巻 p.
322-
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2004 年 13 巻 p.
323-331
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2004 年 13 巻 p.
332-
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2004 年 13 巻 p.
332-
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2004 年 13 巻 p.
333-
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 付録等
2004 年 13 巻 p.
333-
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
-
原稿種別: 表紙
2004 年 13 巻 p.
Cover2-
発行日: 2004/09/18
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー