本稿では,大正新教育期の成城小学校における映画の教材利用の様相を明らかにし,後の映画教育の展開との関連を考察した。
まず,取り組みの中心的な役割を担った訓導,関猛の論文を検討して取り組みの実情を考察した。関は,学習者の感覚に訴える,直観的印象を明確にする,具体的経験を通した学習ができるといった,一般的で抽象的な表現で映画の教材としての利用価値を主張し続けた。そこには,成城小学校の新教育の考え方に基づいた児童中心の学習の実現に向けた映画利用法も研究していたが成果を得られなかったことが関連していたと考えられる。
つぎに,成城小学校の取り組みと後の映画教育との関連を検討した。成城小学校時代の関の主張は粗放であり理論の提示とはいえないが,奈良県桜井小学校訓導の下野宗逸は関の論文に強く影響を受けながら独自の映画利用論を構築した。下野の登場は,国定教科書の内容理解を促す教材として映画利用を拡大させる動きを導いた。一方,成城小学校を離れた関は1930年代半ばに,映画によって児童中心の学習を実現させるという考え方を具体的な指導案や自作した教材映画を通して初めて提示した。その教材映画は戦後にも受け継がれ,映画教育の方向性にも影響を与えた。理論の継承や発展,人的な連続性といった側面からは見えにくいが,成城小学校の映画利用と後の映画教育との間には確かな関連が存在しているのである。
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