教育方法学研究
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42 巻
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表紙
原著論文
  • ―理科教育を通した「職業教育」の内容と方法―
    梶原 郁夫
    2017 年 42 巻 p. 1-11
    発行日: 2017/03/31
    公開日: 2018/04/01
    ジャーナル フリー

     本稿は,初等中等教育のキャリア教育の現状を普通教育論の視座から問い直して,普通教育における「職業教育」の在り方として,理科教育を通した「職業教育」の内容と方法を提示している。第一に,職場体験に大きく傾斜し教科教育との関連を欠いているキャリア教育の現状を,筆者によるアンケート調査と国立教育研究所による報告とによって明示している。第二に,わが国がモデルとしている米国キャリア教育運動におけるキャリア教育の本来の目的が,普通教育と職業教育との統一にあったことをおさえている。第三に,戦後教育学における職業教育との関連を問うた普通教育論に立ち返り,科学の知識による諸職業の通約的学習を同論の到達点として把握している。その到達点を教育内容・方法にまで具現して普通教育論をさらに一歩前に進めるために,第四に,理科の知識(内容)がどのような点で通約的学習を可能にするのか具体的に検討して,第五にデューイの転移論に基づいて,理科の知識を児童生徒に転移可能な状態で保障する方法を提示している。以上の作業を通して本稿は,戦後教育学の普通教育論を教育過程論の次元にまで降ろし,理科教育を通した「職業教育」を,キャリア教育の現状に対する代案として提出している。

  • ―L. S. ヴィゴツキーの遊びの「内的ルール」に着目して―
    佐々木 徹雄
    2017 年 42 巻 p. 13-21
    発行日: 2017/03/31
    公開日: 2018/04/01
    ジャーナル フリー

     子どもの劇づくりと教育との接点においては,それが「子ども自身のもの」であるべきであるという理念が存在する。そのような活動と「遊び」との共通性が唱えられてきた。その共通性を考察する際に,ヴィゴツキーの幼児期のごっこ遊びにおける「内的ルール」の議論は,示唆に富んでいる。近年では,彼の論が,幼児期のごっこ遊びに限定されたものではないことが指摘されてきている。

     本稿では,筆者が参加した小学生の劇づくりの実践事例を参照し,子どもたち自身が確立に参加する「内的ルール」の形成過程を具体的に考察する。ヴィゴツキーの遊びのルールについての論は,潜在的ルール,内的ルール,動的ルールというその三つの特徴をもつ。近年の解釈を踏まえ,子ども間のルールの共有という点に課題を見出す。この課題を明らかにするため,虚構場面の展開における「間」に注目して具体的事例を取り上げる。また,ルールの合意に向けたコミュニケーションへの参加について取り上げる。これらの子どもの姿から浮かび上がることは,子ども自身の「内的ルール」形成への取り組みである。子どもの遊びのルール,つまり能動的な「内的ルール」の形成過程の一つとして位置づけることができる。

  • ― 生活との差異に基づく学校教授構想の展開 ―
    田中 怜
    2017 年 42 巻 p. 23-33
    発行日: 2017/03/31
    公開日: 2018/04/01
    ジャーナル フリー

     学校での学習が生活実践と結び付かない,いわゆる学校と生活との乖離の問題は,20世紀初頭の改革教育学から現代の学校改革に至るまで,これまで広く教授学において議論がなされてきた。その際の議論の視角は,学校と生活とをどのようにして結び付けるのか,という点にあった。しかしそうした教授学的な問題設定に対して異を唱えたのがプランゲ(Prange, K.)である。彼は,学校と生活の間の差異を埋め難きものとして強調するのみならず,さらには両者の分離から学校教授を捉え直すことを試みた。

     それでは,プランゲは学校と生活の分離を前提として,どのような学校教授構想を展開したのか。こうした問いを起点とする本稿の目的は,プランゲの学校教授構想を明らかにすることを通して,学校と生活の統合の困難性を浮き彫りにすると同時に,両者の分離を前提とした学校教授の在り方を提示することである。

     プランゲは近代社会の「偶発性」を根拠として学校と生活の間の断絶を指摘し,この偶発性から学校の役割の変動を描き出している。彼によれば近代社会における学校と生活の媒介は「反省的学習」の促しという迂回路の経由によって可能になるという。このようにプランゲの学校教授構想の独自性は,学校と生活の間の統合ではなく,むしろ両者の差異を十全に生かそうとする点に認められる。

  • ― 梅根悟と海後勝雄の対比に焦点を合わせて ―
    中西 修一郞
    2017 年 42 巻 p. 35-45
    発行日: 2017/03/31
    公開日: 2018/04/01
    ジャーナル フリー

     本稿では,梅根悟と海後勝雄の論を対比することで,画一的に捉えられてきたコア・カリキュラム連盟の三層論に,経験主義と本質主義という両側面があったことを明らかにした。まず第一章では,梅根の論を,単元区分の変遷と問題解決学習論に基づいて検討した。梅根は学習を子どもにとって「不測の産物」であるべきだと考え,子どもの立場に立つことで分析した。問題解決学習論はその成果であり,これによって三層論を基礎づけたのである。第二章では,海後のカリキュラム論を,学力論と問題解決学習論に着目して検討した。海後は,教育における科学と技術のあり方についての問いを戦前から追究しており,その帰結として,戦後はコア連において,特に能力表の作成を主張するなど教育内容を問うことになった。彼は学力を論じる中で,知識の羅列ではなく法則を見出すことが重要だと考えており,知識の構造の議論への未発の契機となっていたと言える。このように,本質主義的な側面を強調した学力観に支えられた海後の問題解決学習論は,習得すべき知識や解決すべき問題に応じて,学習の場を用意することに主眼が置かれていた。第三章では,両者の理論を,経験主義と本質主義という論点から対比した。カリキュラム論として見た場合,両者の相異は三層論における問題単元に集約的に表れている。梅根と海後それぞれが影響を与えた実践においても,問題単元には差が生じていることが確認できた。

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〈日本教育方法学会第52回大会報告〉
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