教育方法学研究
Online ISSN : 2189-907X
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ISSN-L : 0385-9746
28 巻
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  • 原稿種別: 表紙
    2003 年 28 巻 p. Cover1-
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
  • 原稿種別: 付録等
    2003 年 28 巻 p. App1-
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
  • 原稿種別: 目次
    2003 年 28 巻 p. Toc1-
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
  • 尾島 卓
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 1-9
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    矛盾は弁証法の中心概念である。それゆえ弁証法研究では,弁証法と他の思考方法との関連やそこでの独自性を明確にする際に争点ともなってきた。本論では,まず,わが国の弁証法研究における矛盾をめぐる論争を概観し,矛盾把握をめぐる対立点を明らかにする。また矛盾は,教育学研究および実際の授業を対象としながら授業の改造を試みようとした授業研究においても重要な役割を担ってきた概念でもある。本論文後半では,広島県北地域で開催された全国授業研究協議会全国大会において公開された授業をめぐる評価のなかに,弁証法研究における矛盾把握をめぐる対立構図が暗黙のうちに下敷きにされていたことを指摘する。大学などの研究機関に所属する研究者と各種学校で授業を行っている教師との共同研究体制の確立に対して,全国授業研究協議会を中心とした授業研究運動は大きな影響を与えたと考えられる。この認識に基づき本論文は,形式論理学と唯物論的弁証法の関連づけから端を発した弁証法研究における論争のなかで対立する矛盾把握のそれぞれが,授業研究の対象の限定およびその発展の方向性の把握に与えた影響について検討することを最終的な目標として設定している。
  • 狩野 浩二
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 11-21
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    斎藤喜博(1911-1981)は,1952(昭和27)年から11年間にわたって,群馬県佐波郡島村立島小学校(後,境町と合併)の校長を務めた。その間に,斎藤はいきいきと勉強する児童をつくりだしている。島小の児童が自分の心をひらいて,いきいきと勉強した背景には,何があったのか。本論文では,子どもが地域の中でどのように活動していたのかということに光を当てる。島小学校の教師たちは学校での授業実践と同様に子どもの自主性を尊重した教育実践を地域で展開した。島小の教育実践の特徴は,子どもや教師,地域の人々を抑圧から解放し,のびのびと生活するようにしていった点である。教師たちは,儀礼的なものを排除し,児童の学力を保障する実質的なもの(授業)を大事にしていった。島小の児童は,学校での生活と同様に,地域の生活の中に課題を発見し,その課題を解決するために集団を作り,いきいきとした勉強を展開した。
  • 森 久佳
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 23-33
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    本論の目的は,初期(1896〜98年)におけるデューイ・スクールのカリキュラム開発形態の特徴を明らかにすることである。その際,「開校後半年間(1896年1〜6月)」と「1896年10月以降」の2つの時期に分けて検討する。開校後半年間におけるスクールの教育方法の方針は,「正規のオキュペーション」,すなわち,料理,裁縫,工作といった衣食住を基本とする活動をカリキュラムの中核に据えることだった。カリキュラムは,この基本的な諸活動を柱として,各活動における単元からさまざまな教科を分化させるよう開発された。この時期,スクールはオールラウンド教師の制度を採り入れていた。1896年10月以降では,教育方法の理念は大幅に変わらなかった。しかし,カリキュラムは,「手工訓練(料理・裁縫・工作)」,「歴史・文学」, 「理科」の3領域における各作業の単元を,他の2つの領域と相互に関連させるよう開発された。そして,この時期では,エキスパート教師の制度が採り入れられていた。そのため,教師同士のフォーマルおよびインフォーマルな交流も,カリキュラム開発にとって重要な要素だった。結論として,初期におけるデューイ・スクールのカリキュラムは,子どもたちが構成的で直接経験を伴う活動を行うことで教科(領域)の必要性を認識し,それらの教科が相互につながりあっていることを意識できるように工夫され,開発されていた。
  • 梶岡 寛之
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 35-45
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    本論文は,アントニオ・グラムシのヘゲモニー論とその再評価をめぐる研究動向を手がかりとして,教師と子どもの合意形成のあり方を問い直そうとするものである。これまでの教育実践において,ヘゲモニーは「主導権」と訳され,子どもたちの支持・同意を前提として教師が発揮するちからとしてとらえられてきた。それは,ヘゲモニー論を肯定的に,積極的に論じようとするものであるが,ヘゲモニー論が支配の文脈のなかで展開されている点を軽視していたのではないだろうか。グラムシにおいて,ヘゲモニーは,人々の集団的同意を意味すると同時に集団的同意をつくりだす働きを意味する。グラムシは支配の問題を,強制と,被支配者の自発的同意という二側面からとらえるのであるが,強制に対する同意こそグラムシにおけるヘゲモニーであり,それは支配の文脈のなかで用いられる概念なのである。このヘゲモニー概念から,現存する集団的同意の状態を分析するヘゲモニー論と,新たな集団的同意をつくりだそうとするヘゲモニー論が導かれる。これらふたつのヘゲモニー論によってはじめてヘゲモニーは動的なものとしてとらえられるのである。ヘゲモニーの成立過程と合意形成の過程を関連づけて考察することで,合意形成の際に生じるポリティクスが明らかになると同時に,合意形成を通して教師-子ども関係を変革していくことが可能となる。
  • 石井 英真
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 47-58
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    本稿は「改訂版タキソノミー」(以下「改訂版」と略す)に関する論稿である。「改訂版」は,かつてブルーム(B. S. Bloom)らによって開発された「教育目標の分類学」(以下ブルーム・タキソノミーないしは初版)の認知領域を改訂したものである。本稿では,初版との比較を通して「改訂版」の意義を探った。まず,本改訂における変更点について考察した。そして,特に注目すべき構造上の変化として,知識と認知過程の二次元構成を取り上げ,その中身について論じた。次に,初版の意義と限界を明らかにするために,初版における目標構造化の論理(タキソノミーの構造に内在している授業改善の方向性)を抽出し,その背後にある学習観についても検討した。最後に,「改訂版」の学習観と目標構造化の論理について分析を加えた。以上より,次のようなことが明らかになった。初版と「改訂版」との間には,学習観における重大な差違があり,「改訂版」の学習観(構成主義,領域固有性)は,初版の学習観を転換させるものである。そして,この学習観の転換がカテゴリー構成のレベルで具体化された結果,「改訂版」は初版にはない二つの視点(知識習得の質を問い直す回路,高次の認知目標を支える知識を問う回路)を生み出している。こうして,初版から「改訂版」への改訂は,目標構造化の論理を再構築する過程として捉えることができるのである。
  • 黒谷 和志
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 59-70
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    本研究は,批判的教育学におけるリテラシー研究の系譜に位置するランクシア(Lankshear, C.)の論考を手がかりとし,教室における批判的リテラシーの構成方法を解明することを目的とする。ランクシアのリテラシー研究の特質は,社会言語学の領域においてディスコース論から言語とリテラシーにアプローチするジー(Gee, J. P.)の論考に着目しつつ,学校教育におけるリテラシーの構成方法を解明している点にある。そこではディスコースとは,言語的に構成される「生の形態」(forms of life)を表す概念として捉えられる。それゆえにディスコースに着目したリテラシー教育の構想は,まさにことばを読むことのみならず,ディスコースを読みひらき,オールタナティブなディスコースを探求する過程となる。その探求過程を解明する際に重要となるのが,ディスコースの習得における「獲得」と「学習」という2つの作用の区別と関連を捉えることである。とりわけ,批判的リテラシーの構想においては,「学習」過程における異なるディスコースについての「メタレベルの知識」の生成を媒介に,自他のディスコースの関連を認識(相対化)していくことが重要となる。最後に,ランクシアの構想する「飢饉」をテーマとした批判的な学びの過程を分析する。それは,多様な科目領域を横断することにより多視点的にテクストを読みひらく実践であり,自他の多様なディスコースの接合をはかるリテラシー教育を構想するものである。
  • 小笠原 拓
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 71-82
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    本研究の目的は,創設から1世紀を経た小学校「国語科」について,その黎明期における実施状況を解明することである。「国語科」という教科がまだ不安定な時期において,言語そのものの教育に対する意識が極めて高い大阪府師範学校附属小学校の「国語科」実践に着目し,その教授過程や実態,および背後にある「国語科」観について検討を行った。本研究によって,歴史的な観点から,「国語科」に内在する独自の意義について探求する手掛かりを提示できたと考えている。先行研究では,設置された当初,「国語科」は教科書の内容を指導することに傾斜していったと考えられていた。しかし本研究では,このような傾向に抵抗して言語そのものの指導を重視した実践の存在に着目し,その実態や背景についての検討を行った。これまでほとんど用いられてこなかった資料をもとに,1900年代初頭における「国語科」独自の意義を強く意識した教員や実践の存在を,歴史的に実証することができた。それぞれの教科がどのような構成原理を有しているのかということは,教育方法学上の重要な課題である。現在は教科の枠組みそのものが問い直されつつあり,その重要度はより高まっているといえる。本研究はこの重要な課題に対して,歴史的な視座からの貢献を期するものである。
  • 多和田 真理子
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 83-94
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    本稿の目的は,上田万年の『作文教授法』(1895年)を素材に,言語と教育の結びつきを検討することにより,上田が明治期の小学校における作文教育に付与しようとしていた役割を論じることである。上田は「普通教育」と「国語」という2つの概念の関わりにおいて「作文教授」を構想していた。上田は「普通教育」に,「社会」における「人民の教育」と,「国家」における「国民教育」という,2つの側面を見出していた。それは「国語」がもつ2つの側面,すなわち「社会」の変化に応じて改良可能な「道具」としての面と,「国民」に与えられるべき固定的な「道具」としての面とに相互に関係していた。小学校の作文教育に対して上田が提起した新しい観点は,第1に,従来の教養に価値を認めず,かわりに<思想→言葉→文字>の変換に価値をおくということである。第2に,「言葉」や「文体」の多様性を認め,他者の「言葉」を聴き,「文章」を読むことによって他者の存在を認識することである。だがそれらは,上田が提起した第3の点,すなわち言語に一定の「標準」を求め,その「標準」に近づく階梯と子どもの「心理発達」とを結びつけ学校教育の段階として位置づけることにつながった。言語の共有という上田の理念が,「作文教授」論をつうじて,言語の標準化へと結びついたのであった。
  • 進藤 聡彦
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 95-105
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    社会科の歴史領域は暗記科目などと言われることがある。このことから,多くの学習者は機械的な暗記による学習方略を採用していると考えられる。そして,そのような学習方略の採用は,学習項目間の繋がりを欠き,有意味性を感じにくくさせるために,学習者にとっておもしろい学習とはなりにくいと予想される。そこで,調査Iでは歴史学習の好悪と学習方略の関連が調べられた。その結果,歴史の学習が好きだったとする者は嫌いだったとする者に比べて,メタ認知的な学習方略を採用していることが明らかになった。このことは,機械的な暗記による学習方略が歴史の学習を嫌いなものにすることを示唆する。学習者に歴史学習をおもしろいものとして捉えさせるための方法として,知識の構造化による有意味化が有効だと考えられる。そして,構造化のための前提として疑問が生成されることが必要だと推定される。すなわち,断片化された知識の関連についての不十分な知識は,疑問という形で意識される必要があるからである。こうした観点から,調査IIでは疑問の生成を保証するのは理解のモニターや既有知識との関連をつけようとするようなメタ認知に関わる学習方略の採用だとする仮定の下に,疑問の生成能力とメタ認知能力の間の関連が探られた。その結果,疑問の生成能力とメタ認知能力の間に相関関係が確認され,メタ認知的な方略の育成が構造化された知識の前提になり,そのことが知識の構造化による歴史学習の有意味化につながると考察された。
  • 山田 秀和
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 107-118
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    本研究では,合衆国で1968年に出版されたプロジェクト社会科の初等用自国史教材『合衆国史:コミュニティから社会へ』の分析を通して,歴史教育における主題学習の教材構成原理とその意義を解明した。主題学習の意義は,現代社会の成立根拠を理解させると同時に,現代社会を自由にそして批判的に読み解くための知識を獲得させることができる点にある。その方法論として,本研究で導き出した主題学習の教材構成の原則を示せば,以下のようになる。1)主題学習の教材は,主題に関係した現代社会の成り立ちを教えることを第一の目的とし,主題に関係した社会諸科学の知識を教えることを第二の目的とする。2)第一の目的を達成するためには,主題に関係して生じた社会変動を分析させる際に,その変動の過程に見出される現代社会の構成要素の起源や来歴を,たえず子どもに特定させてゆくように教材構成する必要がある。3)第二の目的を達成するためには,主題に関係して生じた社会変動を分析させる際に,その要因や影響の様々なパターンを科学的な探求手順によって研究させ,さらにその変動の背後に見出される様々な理論や法則を,たえず子どもに形成・吟味させてゆくように教材構成する必要がある。
  • 岩崎 紀子
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 119-130
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    自然との出会いを通して子どもが抱く「疑問」を起点、として,どのように学習活動を組織していくかという問題が,大正期以降の理科教育研究を通じて教師たちの大きな実践課題として議論されてきた。そうしたなかで,子どものもっている「科学心の萌芽」への信頼とその「独自生長性」への期待のもとに,子どもの探究過程と授業の展開過程とを密接に関連づけ,独自のアプローチで自然理解にまつわる「子ども研究」を展開した神戸伊三郎の実践と研究は,子どもの「疑問」をはぐくむ指導のあり方を提起している。子ども自身が「『なぜ?』という考えを自分の中に自分ではたらかせる」ことを理科学習指導の最大のねらいとした神戸実践から,次の3点の特徴を抽出した。(1)「興味は環境がつくる」と彼が述べるように,子どもが「科学を楽しめる」環境を組織し,そのなかで,子どもなりのものの見方を「子どもながらに眞」なものとして意味づけ,子どもの「科学心の萌芽」を教師が見出そうとする,教師の指導観の転換である。(2)子どもの発した「なぜ」の質を充実させるために,「結論の予想のひらめき」を出させる指導を展開した点である。「予想のひらめき」を待つことで,目的意識を伴った学習の内的動機を喚起することを重視したのである。(3)相互学習という協同の学びの場において,他者からの「質問」によって子どもの「疑問」の中身を吟味させ,自身の探究活動の自己評価を意識させた個々の独自学習を鍛えていく指導である。
  • 下出 美智子
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 131-139
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    研究目的は,映像「Music for Children」において,子どもの音楽経験はいかに発展したのか,また,そこで子どもの内面はどう育まれたのか,ということを明らかにすることである。この映像はオルフの教育哲学が直接的に現れていると言う意味で貴重な資料となる。ここではCarl Orff自身が台本を作成し,音楽プロデューサーをオルフの弟子でありオルフ教育の協力者であるGunild Keetmanがつとめている。演奏は後にオルフ研究所が設立されることとなるMozarteumの学校の生徒達が行っている。研究方法として,子どもが歌ううたやことば,動きや踊り,楽器演奏を聴取して楽譜として記す。同時に,子どもの活動する様子や表情を記録する。その記録を1.活動では子どもはどのように音楽経験を行ったのか,という視点から分析する。また,2.そこで子どもの内面はいかに育まれたのか,ということをビデオの子どもの姿から推察する。その結果,次のことが明らかになった。1 子どもの音楽経験の発展性・「Music for Children」では,どの段階でもことば・動き・音という媒体の一体化した活動が扱われた。それは(1)わらべうたから始まって,(2)打楽器を中心としたアンサンブルを経て,(3)更に音楽と踊りの一体となった活動へ発展した。・音楽の構成要素における音楽経験は,小さな単位から大きな単位へ,単純なものから複雑なものへと系統的に発展した。2 子どもの内面の育ち活動を通して子どもは情動を育み,楽器の音色が醸し出す雰囲気や,曲や踊りが持つ感情的な内容を掴みとったと推察される。
  • 木下 百合子
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 141-152
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    本小論文は,大阪教育大学教育学部附属平野中学校とドイツのブロックハウスギムナジウムの生徒間で実践されている英語を使用したEメイル交換の分析をとおして,Eメイルを使用した異文化問学習の可能性を実証的に明示するとともに,その可能性の拡大にむけた課題を提起することを目的としている。本Eメイル交換は,異文化間学習とメディア学習と協同学習の教育学的コンセプトの接点に位置している。その学習目標は,(1)グローバルな解決課題と文化についての情報交換と意見交換をとおして,文化的相違を知ると共に,文化の違いをこえて協力していく能力と立場の形成,(2)コンピュータと英語を使った情報受信と情報発信のスキルと倫理の形成,である。分析資料は,グローバルなテーマ「環境問題」と文化テーマ「日本とドイツのティーンエイジャーの生活」に関して交換された生徒のEメイルとその活動に付随する資料である。分析結果として,Eメイルを使用した異文化間学習が十分可能であり,それぞれの学校で,交換されたメイル内容についての知識拡大と意見交換が組織されるならば,その学習可能性はより拡大・深化することを実証しえた。なお本小論は,平成12・13年度科学研究費補助金「日本-ドイツ-Eメイル交換を通した中学生の異文化間コミュニケーションの開発研究」(課題番号12680265)の研究成果の一部である。
  • 手島 由紀子
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 153-162
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    本研究は,知的障害児の自己決定を視野に入れた教育実践の在り方について検討することを目的とした。まず自己決定を標榜したこれまでの実践報告を検討したところ,それらの報告における取り組みは,形骸化,ルーチン化された自己決定を求めかねないという課題を抱えていた。自己決定を教育実践に位置づけることはどのようなことなのかを明らかにすることの必要性が確認された。今回は,知的障害児教育実践における自己決定の在り方として,2点、に焦点、を絞り検討した。第1は,子ども一人ひとりの自己決定をどのように支援するのかという課題である。まず自己決定のプロセスを提示した。その上で,教育実践において自己決定のプロセスを活用する方策として,自己決定のプロセスを実施手順として位置づけること,自己決定のプロセスの実施を支援するにあたっては,教師は質の異なる2つの支援を提供することを述べた。第2は,共同を基礎とする学校教育に,どのように自己決定を位置づけるかという課題である。自己決定の学びの場としての共同決定の在り方について,近藤益雄の教育実践から示唆を探った。その結果,(1)教師が育てたい子ども像を獲得させるための主要な方策として共同決定が捉えられていること,(2)共同決定を通して一人ひとりの成長を促すという視点が重要であることが示唆として得られた。
  • 神藤 貴昭
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 163-174
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    近年,大学教育改革や大学におけるFD(faculty development)に関する議論が盛んにおこなわれているが,<大学>という概念はあいまいなまま社会的に構築されていると考えられる。本研究では,はじめに,<大学>という概念が日本においてあいまいになっている歴史的な理由を手短に検討した。本研究の目的は,まず,学生が高校から大学に入学し,大学の学業文化に参入した際の違和感を調査によって検討し,さらに,その違和感を基礎にし,高校から大学への学業文化移行や大学とは何かということを題材とした,大学授業を相対化する授業実践をおこない検討することであった。その結果,多くの学生が大学における授業の運営システム,教員の態度・様子,教授法,自由放任さ,まわりの学生の態度・様子に驚きを感じていた。また,授業実践で,学生は教養教育,自由,大学の学校化といったことに注目した。大学や大学授業の概念を相対化し,それぞれの大学授業実践や大学授業研究の位置づけをはかり,大学教育学の構築に向かうことの必要性が議論された。
  • 姫野 完治
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 175-186
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    教師教育を教員養成と現職教育の連続と捉える考え方は,世界的に共通したものとなっている。しかし,わが国では必ずしも連続していない。その背景には,教員養成カリキュラムと教員採用試験が時期的に重なる問題,また,臨時的任用教師の増加によって現職研修を経験しない教師が存在する問題などがある。教師教育を教員養成から現職教育まで連続したものとするためには,その接点をいかに改善するかが大切といえ,その一つの改善策として,教員採用試験の終了後から学校現場に赴任する前までの期間に,採用前研修を取り入れることが考えられる。しかし,これに関する先行研究はほとんど存在していない。そこで本研究では,教員採用試験に合格した学生と,現職教師を対象として,採用前研修のあり方に対する意識調査を実施した。その結果,採用前研修に対して学生と現職教師の双方が望んでいることとして,教師と話す機会,学校現場へ訪問する機会,スキルやテクニックを学ぶ場,学級経営に関して学ぶ場が明らかになり,またその研修は,採用試験の終了後から学校現場へ赴任するまで継続的に実施することが望まれていることがわかった。
  • 上杉 嘉見
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 187-197
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    本研究は,カナダ・オンタリオ州におけるメディア・リテラシー教育の概念と実践の普及過程を,その教師教育の側面に注目して検討するものである。オンタリオでは,1987年にメディア・リテラシー教育が第7学年から第12学年の英語科に必修領域として導入された。そのために現職教育が要請され,専門資格認定コースやワークショップが開催されてきた。講師を務めるのは,メディア・リテラシー協会(AML)に所属する経験のあるコンサルタントや教師である。専門資格認定コースでは,受講者はメディア・リテラシー教育のリーダーとなることが期待され,専門性の高い内容が教えられる。一方,ワークショップでは教室実践に直接役立つような内容構成となっている。ところが,英語科教育課程におけるメディア・リテラシーの周辺的性格から,推進の試みは困難に直面している。英語科の教員養成課程の中で,メディア・リテラシー教育にはごくわずかの時間しか充てられていない。また,生徒や教師の間でメディアのコースは,文学などと比して安易と見なされている。ここに,いわゆる高級文化と低級文化という区別が今もカリキュラムや人々の意識に存在していることがうかがえる。推進者の間では,普及のための方策として,他の教科目にメディア・リテラシーを組み込んで扱うことが議論されている。しかしながら,過密なカリキュラムの中で,このアイデアを実現するには限界があるかもしれない。
  • 小柳 和喜雄, 山内 祐平, 木原 俊行, 堀田 龍也
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 199-210
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
    本論は,これからますますメディア・リテラシーの実践研究が積み重ねられてくる前に,その視点に幅を持たせ,よりわが国にとって求められるメディア・リテラシー教育のあり方を探求していくために,その教育活動を進める考え方の枠組みを先行研究をレビューすることで明らかにすることを目指した。とりわけ,メディア・リテラシーを考えていく際に,必ず源泉として参考にすべき人物として指摘される,英国のLen MastermanとDavid Buckinghamを中心に,英国のメディア教育論の論理構造とその成立背景を探った。MastermanやBuckinghamは,映画・スクリーン理論やカルチャラル・スタディーズなどの影響を受けながら,批判的教育学を参考に,またそれを批判的に乗り越えようとして,メディア教育を論じていることが見えてきた。その主張している内容は,わが国でよく紹介されてきているカナダのメディア・リテラシーのテキスト内容や教育方法と重なる点が多い。しかしそれらがどのような教育的脈絡(必然性)から生じてきたものか英国のメディア教育は示してくれた。ところが,現在,わが国で紹介されているメディア・リテラシーの諸論の中では,この点が,明確にされず,通時的というよりは共時的に理論の紹介がなされ,それに基づく実践を生み出してきている。メディア・リテラシーの実践の幅を広め,豊かにしていくためにも,さらにメディア・リテラシーの教育学的系譜を丁寧に明らかにしていく作業が求められてきていることを指摘している。
  • 原稿種別: 付録等
    2003 年 28 巻 p. App2-
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
  • 水越 敏行
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 211-213
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
  • 湯浅 恭正
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 213-215
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
  • 藤原 幸男
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 215-217
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
  • 子安 潤
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 217-219
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
  • 久田 敏彦
    原稿種別: 本文
    2003 年 28 巻 p. 219-222
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
  • 原稿種別: 付録等
    2003 年 28 巻 p. App3-
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
    ジャーナル フリー
  • 原稿種別: 目次
    2003 年 28 巻 p. Toc2-
    発行日: 2003/03/31
    公開日: 2017/04/22
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