平城京の造酒司(みきのつかさ)の酒造りは大陸文化の影響を受けた醞(しおり)方式という酒造法で、蒸米と米麹、水で最初の仕込みを行い、十日間醗酵させた後、熟成醪(もろみ)を筌(せん)等で濾(こ)して粕を取除き、得た酒に米麹、蒸米を仕込み十日間醗酵させる。これを都合四度繰返すことにより高濃度の酒を造る方式である。この方法で造られた酒では日本書紀の神代巻にでてくる八岐大蛇退治に用いられた八(や)醞(しおり)酒(さけ)がよく知られている。(古事記では八塩折之酒)このように平城京で本格的に始められた朝廷の酒造りは都が長岡、平安と移っても続けられました。
奈良の地に残された興福寺やその末寺では、酒を多量に醸(かも)して、一般市民に販売して寺の財政を賄(まかな)うようになりました。これが中世に於いて大層有名な僧房酒の始まりであります。ここで注目すべきは商品としての酒という観点。蒸米、麹米共に精白米を用いて仕込む諸白造(もろはくづくり)という原料面で大きなグレードアップがはかられると共に朝廷の酒造りの醞(しおり)方式とは全く異なる酘(とう)方式という、今日の日本酒醸造法の根幹をなす劃期的な方式で行われました。何時、誰がこの方式を工夫したのか明確な記録がないのでたぶん僧侶達が幾多の試行錯誤を積み重ねて技術革新を行ったと思われます。
さて酘(とう)方式とは、先ず少量の蒸米、麹、生米、水で菩提酛(もと)と名付けられた酵母培養基を造り、それを母体として三度に分けて蒸米、麹、水を加えてゆく方式であります。専門的に云うなら菩提酛(もと)段階では空中の乳酸菌を積極的に利用して乳酸醗酵を行わせ、酸度を高くして雑菌の混入や増殖を抑制し、酸に強い酵母を純粋に培養する技術であり、又、四日間で三度に分けて蒸米、麹、水を仕込む醪(もろみ)段階では麹の酵素力で蒸米の蛋白質を液化分解し旨味の素である各種アミノ酸をつくりだすこと、蒸すことによりデキストリンとなった米澱粉を糖化し、その糖分を酵母菌がアルコールに変える、即ち醗酵させるということを同時進行させる、大変複雑且つ精緻そのものの併行複醗酵(へいこうふくはっこう)と呼ばれる方式であります。
この醸造方法は世界の醸造酒の中でも最も高濃度のアルコール度数と旨味の多い酒を造り出しました。 人口の増加と共に酒の需要が増え、酒の仕込みを大きくしようという動きが出てきましたが陶製の壷や甕ではその要求は満たされませんでした。大型の大桶を作るのに必要な大鋸が十四世紀末から十五世紀に、前挽き鋸は十六世紀に、側板(がわいた)や底板を滑らかに仕上げる台鉋(かんな)は十五世紀中頃に、それぞれ中国や朝鮮等大陸から相次いで伝来しました。これ等の工具が日本各地いたるところにある柾目で工作し易い巨木の杉と結びつき、これまた、いたるところにある孟宗竹を細かく割り、何本も束ねて箍(たが)を作り、底板と側板(がわいた)を組合せ、締めあげて作る大型の結桶(ゆいおけ)が量産され、陶製の甕や壷に替ってゆきました。
このように木工技術の革新は容器革新につながり、酒の生産は一挙に大型化してゆきました。 仕込みの量の大型化は当然の帰結として産業化が可能になることを意味し、奈良町の中の良質の井戸水が湧出する処に酒造業者が誕生しました。
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