本研究の目的はカリキュラム論の視座から「生活綴方的教育方法」の本質を明らかにすることにある。国分一太郎によって提起されたこの用語に関わる先行研究は少なくないが、どのように全教科等と関わるのかと問い直すと解きほぐされておらず、その本質は明確に規定されていない。そこで、倉澤栄吉の作文観やコア・カリキュラム論といった1950年代のカリキュラムに関する議論と、国分一太郎のカリキュラム観を比較検討した。
その結果、「生活綴方的教育方法」は、相互の「連関」を図ることによって教育課程全体を組み立てていこうとするカリキュラム論ではないこと、また、日本作文の会が別途「作文法」という用語を必要としたように、「方法」という語からイメージされる学習活動や指導法としても規定できないことが判明した。さらに、国分等が重きを置くのは「現実認識」という教育目標であり、「生活綴方的教育方法」の本質は、あるべき認識の獲得を目指す教育理念にあり、その全教育活動への「適用」とは、「自由とリアリズム」の認識を綴り方と話し合いによって各教科等の学習に行き渡らせようとする教師の態度・意志を指すことを明らかにした。
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