宗教研究
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特集号: 宗教研究
85 巻, 2 号
宗教の教育と伝承
選択された号の論文の17件中1~17を表示しています
  • 編集委員会
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. i-iv
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
  • 阿部 珠理
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. 237-264
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    アメリカ先住民ラコタ・スー族の社会における伝統の継承と実践を、ウォ・ラコタ-「ラコタの道」を中心に論じる。ウォ・ラコタはラコタ族としての生き方であり、彼らが、生きる指標とする価値の体系がそこに集約されるラコタ・アイデンティティの源泉である。本稿では、現在ラコタ族がおかれている社会状況を概観し、ウォ・ラコタを構成するものを「四つの徳」と「七つの儀式」と位置づけた。またそれらの継承と実践に果たす、「メディスンマン」「ティシパエ」「学校教育」の役割を考察し、その重要性を明らかにする。ことに教育機関における言語・伝統教育の制度的導入は、今後のラコタ族の社会、文化の再生にも貢献する可能性を示すものとして、着目している。
  • 飯嶋 秀治
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. 265-292
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    本稿では、「宗教の教育と伝承」を考える糧として、グレゴリー・ベイトソンのメタローグを取り上げる。そこで、メタローグを、まずは(一)ベイトソンの諸テクスト内部から、その重要性を確認する。その上で、(二)次にそれを当時、彼がおかれていた歴史的コンテクストに照らして、その効果と行方を検討してゆく。ここでは特に、パールズのゲシュタルト療法との交流と、エリクソンとの催眠療法との影響関係を重視する。結論として、ベイトソンのメタローグは、「聖なるもの」それ自体を語らずに提示する表現形式であった可能性を論じる。それは「宗教の教育と伝承」をテクスト上でどのように行うのかという可能性の一端に光を投げかけてくれるであろう。
  • 市川 裕
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. 293-317
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    本論文は、ユダヤ教共同体が一五〇〇年間、社会的にパーリアの状態にあった共同体の内部において形成したユダヤ法の精神文化の意義を考察する。古代ユダヤ社会は、西暦一世紀から二世紀にかけて、ローマ帝国からの独立を目指して二度の大戦争を交え、神殿の崩壊、社会の壊滅、エルサレムからの追放といった一連の苦難を受けた。そののち彼らは、政治的自立と独立の夢を放棄し、唯一神の教えの徹底的な学習と実践を自らの生きる道と定めることを決断した。そこから導かれるタルムードの学問は、神への愛に基づいて、徹底した討論によって理性的に相手を説得する方法であった。それは、ユダヤ賢者が預言者の伝統である偶像崇拝との闘いを継承したことによって達成された。その具体例をタルムードにおけるラビたちの思惟方法と討論における論証法の中から抽出したい。ここでいう偶像崇拝とは、社会的権威への盲従や、先入見に無批判な知的怠慢に対する批判的態度であって、ラビたちが新たな形式での偶像崇拝批判を宗教的人格形成の根幹にすえたのである。
  • 伊藤 泰信
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. 319-346
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    本稿はマイノリティのナショナリズムと、宗教の私事化や拡散化が絡み合う文脈に留意しつつ、先住民マオリの宗教教育について論じる。アイデンティティを求めることがスピリチュアルな旅になるといった私事的な宗教性は高度複雑社会の日本でもニュージーランドでも(ある程度までマオリにも)見られる。ただしマオリの場合、貧困や疎外から、先住民の地位を政治化し、心の脱植民地化が図られる中で、白人の知の倒立像とも言える「マオリ的なるもの」が浸透した。それは分離主義的なナショナリズムと重なり、マオリがコントロールしうる領域(制度・組織)の拡大へと繋がっている。こうした背景の下、個別の学校や大学でマオリ的なるものは組織的に教授・学習されるようになっている。マオリ的なるものを探し求めれば過去のホーリスティックな世界に焦点が結ばれるため、それが教授・学習される学校は、準宗教学校のような特異な形態を取るに至っていることを、学習実践の具体を含めて活写する。
  • 井上 順孝
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. 347-373
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    一九九〇年代に急速に進行したグローバル化・情報化と呼ばれる社会変化は、宗教教育に関する従来の議論に介在していると考えられる認知フレームに加え、新しい認知フレームを導入することを要請している。日本における宗教教育についての戦後の議論は、宗教知識教育、宗教情操教育、宗派教育という三区分を前提とするものが多い。このうち宗教情操教育が公立学校において可能かどうかをめぐる議論が大きな対立点となってきた。その理由には、近代日本の宗教史の独自の展開が関わっている。しかし、近年は国際理解教育の一環としての宗教に関する教育、多元的価値観の共存を前提とした宗教教育、そして宗教文化教育などと、新しい認知フレームに基づくとみなせる研究が増えてきている。これは、宗教教育に関する規範的視点とは別に、全体社会の変化に対応して形成されたものであり、従来の多くの議論とは異なる新しいフレームが加わった結果であると考える。
  • 岩田 文昭
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. 375-399
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    二〇〇六年十二月に改正施行された教育基本法や、二〇〇八年度に告示された小中学校の学習指導要領の登場とともに、日本の学校での宗教教育を巡る状況はいま新たな段階に入っている。このような状況を踏まえながら、本稿では国公立学校での宗教教育の現状を分析し、その教育の課題を探究したい。まず、これまで論じられてきた宗教的情操の内容と、戦前・戦後の宗教的情操教育をめぐる状況を考察する。その考察によって、国公立の学校では、宗教的情操の涵養を直接に目指す教育は、原理的にも歴史的にも実際的にも困難であることを示す。と同時に、宗教的情操教育に代わりうる教育が実際になされていることを明らかにする。そして、この代替教育は、二つの局面で宗教と関わりえるが、それは従来の宗教教育という枠に収まらないことを示す。最後に、教科における知識教育、とくに社会科における宗教知識教育の内実について検討する。そこから、宗教知識教育と価値形成との問題連関を指摘し、この連関の探究を深めるという課題が横たわっていることを示す。
  • 梶井 一暁
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. 401-428
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    近世社会において庶民教育を支えた代表的機関として知られる「寺子屋」は、近年「手習塾」と呼称されることが多い。この呼称転換は、寺子屋は寺院教育との関連をイメージしやすいが、むしろ寺子屋は寺院教育から自立した庶民の学習活動のうえに成立した文字学習の場であるという性格の把握をふまえた動向である。本稿ではこの理解のうえ、伊予国を事例に手習塾と僧侶の関係について批判的に再検討した。その結果、伊予国で手習塾の師匠をつとめるのは、身分別では僧侶がもっとも多いこと、僧侶のなかでも寺僧、庵主、修験者、女性などの多様な者がそれをつとめたこと、寺院の二〜三ヵ寺のうち一ヵ寺は手習塾を開くことがあったことなどが明らかとなり、近世僧侶の手習塾への積極的関与状況が認められた。これをふまえ、寺子屋から手習塾への呼称転換は、近世僧侶が庶民教育に果たす役割の過小評価を導くものであってはならないことを主張した。
  • 鎌田 東二
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. 429-456
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    「ワザ(技・業・術)」とは人間が編み出し、伝承し、改変を加えてきたさまざまな技法・技術であるが、その中に呼吸法や瞑想法などを含む身体技法や各種の芸能・芸術の技法やコミュニケーション技術、また物体を用いる技法・身体を用いる技法・意識に改変を加える技法などがある。ワザは心とモノとをつなぐ媒介者であり、身体を用いた心の表現法でもある。「滝行」を含む諸種の「ボディワーク(身体技法)」は、「ある目的(解脱・霊験・法力・活力を得る・悩みの解除など)を達成するために、心身を鍛錬し有効に用いるワザ・作法・技法である」。宗教的「身体知」も、宗教的観念や宗教思想に裏打ちされながら、さまざまなワザを持っている。その宗教的ワザの一つとしての「滝行」に着目することにより、日本の宗教的身体知の独自性とそこに宿る「生態智」を掘り起こす。
  • 佐藤 貢悦
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. 457-478
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    本論文は、日中韓東アジア三国、一般的にいう「儒教文化圏」のそれぞれの地域における儒教の伝承にみられる特色ある展開に注目しながら、これを比較論的に論じたものである。予備的考察として、まず儒教の宗教性について言及した。ついで、杜維明の所論を中国国内の任継愈、方克立の論説に対置させ、儒教の伝承をめぐる今日の状況とその困難な課題について論じ、無神論と有神論との複雑かつ高度な統合を目指す研究者の苦悩について開陳した。さらに、韓国儒教が今日の韓国社会に活きる姿を描写しながら、その生命力は信仰と理論体系とが一体的構造にあることを論じた。上記の所論を踏まえながら、日本の儒教が有するところの仏教的、神道的要素複雑な習合状況に言及し、その歴史的経緯を垣間見ながら、今日における儒教伝承の問題に言及したものである。
  • 伊達 聖伸
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. 479-504
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    カナダのケベック州は、一九六〇年代の「静かな革命」以降、大きな社会の変化を経験している。そのなかで、宗教のあり方も変化している。州政府、教会、家庭の関係が再編されるなかで、学校教育の役割も変わってきており、ますます増大する宗教的・文化的な多様性を踏まえながら、子どもたちの規範的な社会化と市民性教育を行なうことが課題となっている。そのときに拠り所となるのが「ライシテ」の原理だが、ケベックのライシテは、宗教を取り除くことを志向しがちなフランスのライシテとは趣を異にし、宗教と手を切る面を孕みながらも、むしろ学校での道徳教育や倫理教育、宗教文化教育、スピリチュアリティ教育の継続と再編を可能にしているところがある。それだけに、「道徳」「倫理」「文化」「スピリチュアリティ」という言葉には、ライシテの推進者のみならず、反対者の思惑も込められている。本稿は、これらの言葉のニュアンスを読み解きながら、一定の合意形成のなかに、対立の構図が残っていることを明らかにしようとするものである。
  • 藤本 頼生
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. 505-528
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    本稿では、戦後の神社本庁発足以降の神職資格の付与と神職の養成、研修について、その歴史的変遷をみてゆくなかで、宗教教育の担い手としての神職とその教育のあり方について課題と現状を窺うものである。戦前から戦後の未曾有の変革の中で神社本庁が設立され、任用されている神職に対して神職資格が付与されるが、その経緯をみていくと、神職資格である階位については、戦前期に既に任用されている神職の資格切替えがなされるとともに、戦前の神職高等試験を範にした試験検定を前提にした上で、神社・神道の専門科目の増加がなされていることが明らかとなった。神職教育の上では、資格取得のための科目が養成機関や研修でも大きな意味をなすため、取得する階位の意義とともに今後議論がなされていくべきものであり、後継者問題や神職のあり方も含め、研修制度の見直しとともに検討していく必要があるものと考える。
  • 藤原 聖子
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. 529-554
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    公教育における宗教の教え方は、グローバル化の進展とともに世界的に大きく変化している。日本でも、そのような国際的状況を参照しながら、従来「宗教知識教育」という呼称で半ば自明視されていた教育を、「誰が、何のために、何を伝えるのか」という基礎的なレベルから、再検討することが必要である。本論文は、主として欧米諸国の学術的論争を取り上げ、「誰が、何のために、何を伝えるのか」に沿って独自の整理を行い、そこから日本の教育・宗教学はどのような示唆を得られるかを論じる。分析の中心となる資料はNumenやBritish Journal of Religious Educationである。今後、日本の宗教知識教育は、旧教養主義から、異文化間教育型に変わっていくべきなのか。それとも、全員が明確な宗教的アイデンティティを持っていることが前提とされるような多文化主義モデルが該当しない日本では、欧米とは違う、独自の教育を開発すべきなのか。そこに日本の宗教学が取り組むべき問題を見出していく。
  • 細田 あや子
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. 555-582
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    ヨーロッパ中世のキリスト教美術のなかから、マリア信仰や三位一体という教義が視覚化された彫像、マリアやアンナ信仰が反映された画像、ベネディクト派女子修道院で用いられた画像、ヨセフ崇拝に基づいたイエス降誕の図を取り上げ、このような造形物が信仰生活においてもたらす教育的機能・効果を考える。さまざまな画像から、正統な教義とはなっていなくとも、民衆の信仰や霊性に根ざした図像は、人びとに宗教の教えを理解させ信心を深めるために役立ったであろうことは推測される。とくに家族にかかわる画像などからは、家族のつながり、子どもの教育への配慮といった意味も読み取れる。宗教のなかの表象造形は、人びとの信仰心に基づいて生成、受容され、民衆の霊性を表現したものととらえることができるが、そこには信仰の教化、強化に役立つ機能も大きな意味を持っており、視覚イメージの効用の多様な可能性が指摘されうる。
  • 矢内 義顕
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. 583-606
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    本稿は、西欧の共住修道制の父と言われるヌルシアのベネディクトゥスによる『戒律』と西欧の女子修道制にとって最も基礎的な戒律の一つであるアルルのカエサリウスによる『修道女のための戒律』をとおして、六世紀初頭の修道院・女子修道院における宗教教育を論じる。修道院の生活の中心となるのは、「聖務日課」と呼ばれる共同の祈りと労働だが、この聖務日課を充実するために、二つの戒律は、修道士・修道女が一日の一定時間を「聖なる読書」(lectio divina)にあてるよう定める。それは、世俗の書物ではなく、聖書、教父の著作、修道生活に必要な霊的な書物を読み、瞑想することによって、それらを学ぶことである。それゆえ、この「聖なる読書」の最終的な目的は、修道生活の完成を目指すことにある。そしてこの修道院を、ベネディクトゥスは「主への奉仕の学校」と呼んだが、それは、カエサリウスの女子修道院にもあてはまるであろう。
  • 新田 均
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. 607-612
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
  • 岡本 亮輔
    原稿種別: 本文
    2011 年 85 巻 2 号 p. 613-616
    発行日: 2011/09/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
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