宗教研究
Online ISSN : 2188-3858
Print ISSN : 0387-3293
ISSN-L : 2188-3858
特集号: 宗教研究
92 巻, 2 号
特集:明治維新と宗教
選択された号の論文の18件中1~18を表示しています
論文〔特集:明治維新と宗教〕
  • 編集委員会
    2018 年92 巻2 号 p. 1-2
    発行日: 2018/09/30
    公開日: 2018/12/30
    ジャーナル フリー
  • 井上 順孝
    2018 年92 巻2 号 p. 3-30
    発行日: 2018/09/30
    公開日: 2018/12/30
    ジャーナル フリー

    教派神道とカテゴライズされる神道の組織形態が形成された直接的契機は、明治政府の宗教政策に求められるが、個々の教派の形成は、当時日本宗教に蓄積されていたさまざまな宗教的観念・思想、儀礼や実践形態、そして組織形態などを継承しつつなされた。

    教派神道の組織形態は大きくは高坏型と樹木型に分けられるが、本稿ではとりわけ高坏型の組織のあり方に注目する。この型の組織における境界線について、教派の指導者層の場合を想定して、脳認知系の研究を参照しながら、組織のウチとソトを分ける際の遺伝的及び文化的に継承された認知の作用を分析していく。文化的継承に影響を受けたものとしては、神道か仏教か、日本固有の教えかそうでないか、文明社会にふさわしい宗教か淫祠邪教かといった認知フレームが作動している。それとともに、仲間で結束するときの遺伝的に組み込まれている無意識的な認知プロセスも作動したと考える。二〇世紀末より脳認知系の諸研究は人文系の研究にも及んでいるが、そうした議論を参照しながら、高坏型の組織に焦点を当て、融合や排除のダイナミズムについて分析する。

  • 花谷安慧『天文三字経』を読む
    岡田 正彦
    2018 年92 巻2 号 p. 31-53
    発行日: 2018/09/30
    公開日: 2018/12/30
    ジャーナル フリー

    明治政府は、神祇官復興や神仏分離に象徴される神道国教化政策を展開するが、廃仏毀釈による各地の混乱や教化政策の停滞によって方向転換し、明治五年には教部省のもとで仏教や儒教を取り込んだ大教院が設立される。しかし、「神主仏従」の教化政策は、真宗の大教院分離運動を招き、明治八年に大教院は解体されることになる。

    本稿では、こうした大教院の教説に対する仏教側の不満を色濃く反映する事例の一つとして、明治七年(一八七四)に出版された、花谷安慧『天文三字経』を取りあげ、これまで仏教側の大教院批判の言説としては注目されなかった、須弥山説に基づく国学的宇宙像の批判について考察したい。

    安慧は、仏教と儒教・神道の宇宙像の一致を主張する一方で、キリスト教/西洋の宇宙像に影響された平田篤胤の国学的宇宙像を厳しく批判する。こうした平田派国学の位置づけは、当時の大教院の教説と仏教思想の軋轢を色濃く反映しているのではなかろうか。

  • 齊藤 智朗
    2018 年92 巻2 号 p. 55-80
    発行日: 2018/09/30
    公開日: 2018/12/30
    ジャーナル フリー

    日本の近代国家形成が有する諸外国とは異なった特色である祭政一致国家と神社非宗教を確立させた基本概念が、神社における「祭祀」と「宗教」の分離=祭教分離である。本論は、三次にわたり展開された祭教分離のうち、維新直後における祭政一致の理念のもとになされた神祇官の再興から廃止に至る過程と密接に関連する明治五年の祭祀行政と神社行政の分掌としての第一次祭教分離を中心に、近代祭政一致国家成立の基盤形成について考察するものである。全体の構成としては、まず明治神祇官に関して、先行研究の成果をまとめつつ、その再興から廃止までを見直すことにより、その歴史的意義を再検証する。続いて第一次祭教分離の確立を中心に、近代祭政一致国家成立における基盤形成の過程を明らかにし、最後に祭教分離が近代の国家と神社の関係に与えた具体的な影響を挙げて、その歴史的な位置づけについて論及する。

  •  中央と地方・「神社」と「非」神社の狭間に何を見るか
    櫻井 治男
    2018 年92 巻2 号 p. 81-105
    発行日: 2018/09/30
    公開日: 2018/12/30
    ジャーナル フリー

    明治維新を契機とする変革を経て今日に至る神社・神道に関し、地域神社に焦点をあて、それが経験してきた諸場面を取り上げ、近代の持つ意味を考える上での検討課題を示す。今日の神社への関心や理解のあり方は、神社が近代以降国家制度の下にあり、第二次大戦終了の転機を経て「神社」としての形を新たに整え今に存することがさほど問われず、先験的にその本質や性格を大きな枠組みで論じられる傾向にある。

    本稿では、地域神社が「神社」として姿を現す一方、「非」神社としてその姿を消しながらも地域社会に内在し続けてきた場面、明治末期の政策影響を受けた神社合祀の場面、さらに神社が近代の景観論の問題に向き合った場面につき具体例を取り上げ考察する。神社制度整備と実状の狭間におかれ、中央的な動向にも影響を受ける地域神社の主体性の問題を分析する意義・必要性と、そこから照射される神社・神道の近代を考える課題があることを述べた。

  • 清水 邦彦
    2018 年92 巻2 号 p. 107-130
    発行日: 2018/09/30
    公開日: 2018/12/30
    ジャーナル フリー

    明治時代初期において、地蔵像等の仏像が撤去・破壊された事例が全国に散見する。本稿では、地域を絞って、地蔵像等の仏像撤去・破壊の原因を解明することを目的とする。

    京都府・大阪府・滋賀県の三地域では、開化政策の一環として、路傍の地蔵像が撤去され、地蔵祭が禁止された。しかしながら、開化政策の一環であったためか、三地域いずれも明治時代中期には、地蔵像が再安置されている。

    加賀藩・富山藩では、当初、粛々と神仏分離が行われた。その後、富山藩では経済政策として寺院整理が行われ、仏像が鋳つぶされた。加賀藩を引き継いだ石川県は、水源確保を目的として白山より仏像を下山させ、時に仏像は破壊された。

    東京都御蔵島では、神道思想に基づき、寺が廃寺となり、地蔵像が破壊された。

    明治時代初期において、地蔵像等仏像が撤去・破壊された原因として、①開化政策、②神道思想に基づく廃仏毀釈の二つがあることが判明した。

  • 鈴木 正崇
    2018 年92 巻2 号 p. 131-157
    発行日: 2018/09/30
    公開日: 2018/12/30
    ジャーナル フリー

    修験道は、江戸時代には民衆の中に神仏混淆の形態で深く定着していたが、新政府による慶應四年(明治元年)のいわゆる神仏判然令以後、急速に崩壊へと向かった。神仏判然令で最も甚大な影響を被ったのは権現に社僧や別当として奉仕してきた修験道であり、その解体は神道国教化を進める新政府から見て必然であった。修験は政府の指令に基づき、寺院として存続する、復飾(還俗)して神主になる、帰農するなどの選択を迫られた。そして、明治五年に出された修験宗廃止令によって天台宗か真言宗への帰属を迫られて事実上、解体された。本稿は明治維新に大変動を被った修験道に関して、神仏判然令の及ぼした影響を修験道の本山と在地修験の双方から広く考察する。在地修験では東北の法印様の歴史的変化を考察し、本山では羽黒、吉野、英彦山の事例を中心に、神と仏の分離の展開を比較検討する。最後に学術用語として神仏習合と神仏分離の概念について再検討する。

  • 幡鎌 一弘
    2018 年92 巻2 号 p. 159-182
    発行日: 2018/09/30
    公開日: 2018/12/30
    ジャーナル フリー

    本稿は、島薗進が提示したコスモロジー=イデオロギー複合論をふまえつつ、二つの課題を設定した。一つ目は、焦点をコスモロジー=イデオロギー複合そのものから社会にずらし、コスモロジー=イデオロギー複合の位置づけの変化を見通すことである。二つ目は、おおよそ一九世紀初頭から論ずることで、「明治維新」を境域とした歴史の連続と断絶の両面を理解することである。第一章では、都市知識人による本門仏立講の開創と、洋学によってコスモロジー=イデオロギー複合が合理性に変質していったことを指摘した。第二章では、神仏分離・廃仏毀釈に呪術を克服する要素があったこと、公私の分離という原則が導入されていたことを示し、明治政府の諸政策あるいは近代に適合した思想を天理教のなかに見出した。

  • 三ツ松 誠
    2018 年92 巻2 号 p. 183-205
    発行日: 2018/09/30
    公開日: 2018/12/30
    ジャーナル フリー

    平田国学が明治維新に与えた影響の如何という古典的な問いにつき、現在の研究状況をサーベイする。要点を三点にまとめると以下の通り。

    第一点。戦後の平田国学研究には、戦時下の顕彰運動の反動で、ナショナリスティックな側面を取り上げることを回避して、霊的世界の探究者としての篤胤に注目する傾向があった。しかし政治運動に関わった人々の主体形成に篤胤国学が影響したことは否定しがたい。

    第二点。近年の国立歴史民俗博物館における平田篤胤関係資料の調査の進展によって、篤胤やその家族、門人たちに関する豊饒な研究素材が学界に提供され、大きく研究水準が引き上げられた。古い議論にはそのままでは通用しない部分が生じている。

    第三点。明治初年における平田国学の挫折、という通俗的理解には注意すべきである。津和野派や薩摩派の国学者も篤胤から影響を受けているのだから、平田直門の失脚だけでは維新政権での篤胤学の影響力の消滅は意味しない。

書評と紹介
feedback
Top