現代社会学理論研究
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5 巻
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  • 決定・介入・帰属・分配
    出口 剛司
    2011 年 5 巻 p. 1-2
    発行日: 2011年
    公開日: 2020/03/09
    ジャーナル オープンアクセス
  • 多摩地域における知的障害当事者への支援から
    三井 さよ
    2011 年 5 巻 p. 3-15
    発行日: 2011年
    公開日: 2020/03/09
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    本稿は、多摩地域における知的障害当事者への支援活動に基づき、ケアや承認を論じる際にしばしば取り上げられる、「決定」「介入」と「帰属」「分配」について考察を加える。知的障害の当事者には決定が困難だとみなされがちだが、実際には、当事者による決定を周囲が理解できなかったり、決定に必要な情報を周囲が当事者に伝えられなかったりするとも言える。当事者の自己決定を尊重するというとき、その決定プロセスに支援者や周囲がすでにどう介入してしまっているのか、それ自体を相対化することが必要になる。このことは、分配や帰属という制度レベルにも影響している。その人の主体性をそれとして尊重するためには制度的分配が必要だが、制度的分配を活用するためには当事者をよく知る支援者によるきめ細やかな支援が必要である。決定と介入の割り切れなさはひとつの関係性の内部では解決不能なため、多摩地域では複数帰属という手法に取り組んでいる。
  • 天田 城介
    2011 年 5 巻 p. 16-29
    発行日: 2011年
    公開日: 2020/03/09
    ジャーナル オープンアクセス
    「ケア」とは介護の担い手と受け手のあいだでなされる行為である。介護の受け手は自らではさまざまなことができないからこそ「受け手」になるのであるからして、受け手が「介護する主体」になることは少ない。この点ではいわば徹底的に無力の存在である。そうであるがゆえに、「配慮する主体」として振る舞い、その「配慮する主体」であることによって他者が「介護する主体」「配慮する主体」であるよう積極的に働きかけるのだ。その意味では、これまでの「〈力〉をもつ主体同士の葛藤・闘争から体系に委譲することを通じて消極的な相互承認を遂行する形式へ」といった説明ではケアの場は説明できない。むしろ、自らにとっての「命綱」である「他者の介護」を自らの行為によって調達していくような相互行為が繰り広げられるのである。しかしながら、そうであるからこそ、ここに〈埋め合わせと負担の体系〉が形成されていく。受け手が四六時中「配慮する主体」となって「介護する主体」を繋ぎとめておくことはとてもしんどいのだ。だからこそ、その帰結として、〈冷たい関係〉の制度=体系へと委譲することが要請されていくのであるが、同時に、その〈冷たい関係〉のもとでは主体の〈力〉は極めて局域化・限定化されてしまうがために、またその〈冷たい関係〉のもとで供給される介護量は十分でないがために、〈熱い関係〉が同時に語られてしまうのである。こうした〈埋め合わせと負担の体系〉と〈冷たい関係と熱い関係の体系〉が多重的に構成されている中で「ケア」や「承認」は語られてしまっているのだ。そして、そもそもそうしたケアの場が圧倒的な分配の不足に規定されて形成されている以上、そこで問うべきは「自己決定がよいか悪いか」ではなく、むしろ「自己決定や承認がどのように作動してしまうか」を問うべきである。
  • パターナリズムと「安楽死」をめぐって
    安部 彰
    2011 年 5 巻 p. 30-42
    発行日: 2011年
    公開日: 2020/03/09
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    ケアにおける承認について考える。そのさい本稿はケアとパターナリズムの関係を軸にその考察を進める。ケアにおいて承認されるべきはケアされるひとの自己決定である、多くのひとがおそらくそう思っている。だがケアという相互行為は、いわばその構造的な必然として、パターナリズムとわかちがたくむすびついている。そしてそのパターナリズムは、ケアされるひとの「存在」を承認する場合、つまり自己決定がそのひとの「存在」の不可逆的な毀損をまねく場合には正当化されるといわれ、それは支持できるように思える。しかるに、まさにそうしたケースであるはずの「安楽死」を我々は容認することがある。とすれば、これは矛盾であるようにみえるが、「存在」理解を吟味すると、その消息があきらかになる。我々は快苦を「存在」のきわめて重要な契機と考えているのだ。だからその「存在」を承認するがゆえに「安楽死」に道をひらくことになるのだ。だが、そうしてみちびかれる帰結は、死の自己決定を認めることとおなじではある。かかる帰結の是非を本稿は問わないけれども、ケアにおける承認の問題をさらに追究するうえですくなくとも考慮にいれておくべき論点を最後に提起する。
  • ホネット アクセル, 出口 剛司, 宮本 真也
    2011 年 5 巻 p. 43-52
    発行日: 2011年
    公開日: 2020/03/09
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  • 台湾人女性におけるポルノグラフィー使用についての検討
    王 向華, 邱 愷欣, 速水 奈名子, 田村 周一, 雑賀 忠宏
    2011 年 5 巻 p. 53-75
    発行日: 2011年
    公開日: 2020/03/09
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  • 「自立」を強いられる社会における「生活の形」の創造
    権 永詞
    2011 年 5 巻 p. 76-88
    発行日: 2011年
    公開日: 2020/03/09
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    本稿は、多様性の保護と画一化の促進というモダンデザインの二面性についての理解を援用することで、「生活の形」の創造としてのライフデザインの現代的な意味を考察している。1960年代に普遍的価値として追求された「生活の質」は、70年代中頃からは個人による「自己実現」を意味するようになる。既存の「良い生活」を示す定型は失われ、個人は「生活の形」を自ら探し求めなければならなくなる。
    そこで必要とされたのがライフデザインという概念である。ライフデザインは、一方では個人を集団規範から解放して多様性を促進するが、他方では人々の生活を社会指標によって画一化・細分化された生活の部品の構築物へと変容させる。ライフデザインのこの二面性は、前者は集団からの解放という意味で、後者は断片化された人生を操作する主体の確立という意味で、個人の「自立」を規範化する。
    だが、個人を「自立」へと駆り立てる規範としてのライフデザインは、個人の責任を過剰に追及するあまり現存する社会的不平等を個人のライフデザイン能力に帰してしまう危険性がある。そこには、ライフデザイン能力自体における不平等を問題化する視線が欠けている。本稿では、以上の課題を乗り越えるために個人史に着目したライフデザインの方法論の転換を示唆する。
  • モノから主体への転回に向けて
    多田 光宏
    2011 年 5 巻 p. 89-100
    発行日: 2011年
    公開日: 2020/03/09
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    社会を「一種独特の実在」とするエミール・デュルケムは、通常、創発主義的なマクロ社会学理論の代表的な人物と考えられている。だが彼の社会実在論的な主張の手がかりとなったのは、じつは個人心理学であった。彼は、意識の特性が脳生理学には還元できないこととの類比で、社会は個人には還元できないと考えたのだった。ただ彼の場合、類比以上の適切な裏付けは欠けていた。ニクラス・ルーマンによって展開された自己準拠的な社会システムの理論が、創発主義に理論的基礎を与えうる。コミュニケーションからコミュニケーションへの接続という社会システムの自己準拠性の指摘は、社会的水準の還元不可能性を明確にした。もともと自己準拠概念は意識哲学的な伝統を含んでおり、自己準拠的な社会システムの構想も、意識に関する知見を社会的領域に一般化した帰結だと考えられる。ただデュルケムとは違い、このシステム理論は意識哲学的な認識論までも社会システムに適用し、社会システムが固有の環境を独自に認識する主体だとしている。そのためこの理論は、デュルケムが社会を存在論的表象のもとで「モノのように」観察したのとは異なり、社会システムを自律的な観察者として観察するという認識論的課題を掲げている。社会システムとはいわば一種独特の観察者だということである。
  • 平本 毅
    2011 年 5 巻 p. 101-119
    発行日: 2011年
    公開日: 2020/03/09
    ジャーナル オープンアクセス
    会話の中で一定のまとまりをもった話題上の話が展開し、その話題についての話が終了しうると参与者が指向している場所(話題の境界)には、「話題アイテム(名詞や名詞句で表象される話題)」が単体で、あるいは助詞を伴って置かれることがある。このような振る舞いを、本稿では「話題アイテムの掴み出し」と呼ぶ。本稿の目的は、「掴み出し」がはたす話題の管理上の仕事を会話分析により記述することである。「掴み出し」は、「呟かれた」ものとして聞くことが可能なように発される。そしてこの「呟き」が話題の境界において行われるために、「掴み出し」はそれ自体では次の発話スロットにたいして順番取得組織上の制約も、行為連鎖組織上の制約も課さない。その代わりに、実際には話題が途切れうるような箇所で、「掴み出し」に続けて①[無標な発話]を置くことにより、スムーズに話題が「継続」したかのような装いが、②[掴み出された話題アイテムの繰り返し+無標な発話]を置くことにより、スムーズに話題が「共一選択」されたかのような装いが、③[掴み出された話題アイテムの繰り返し+有標な発話]を置くことにより、先行発話に含まれていたアイテムを「接線的共一選択」したような装いが与えられる。言いかえれば「掴み出し」は、「潜在的に言及しうる話題」(Schegloff& Sacks 1973: 300)を会話にフィットさせるための足がかりを築く役割を果たしている。
  • ハーバマスの「協働的翻訳」の概念について
    原科 達也
    2011 年 5 巻 p. 120-132
    発行日: 2011年
    公開日: 2020/03/09
    ジャーナル オープンアクセス
    J.ハーバマスは、現代の多元主義的状況における、世俗的市民と宗教的市民の間の対立を乗り越えるために、国家の世界観的中立性というリベラリズムの公準を主張し、その義務を等しく適用するために「協働的翻訳」の実践を要求する。
    本稿では、まず彼のこの概念の意味を明らかにし、そしてこの概念がいかにして基礎づけられているのか、ということについて論じる。その後、協働的翻訳の「翻訳」というものが、いかにして可能であるのかについて、扱っていく。
    「協働的翻訳」が規範的に要求されうるのは、それが可能である場合、つまりその翻訳が成功する可能性がある場合である。さらに、その可能性が基礎づけられうる場合だけである。しかしながら、言語の全体論的な性格を考慮すれば、翻訳の成功は自明ではない。このとき、ハーバマスは、この困難をコミュニケーションによって、克服しようとする。彼は、この種のコミュニケーションを、相補的学習プロセスとして、定式化する。そこで、このプロセスについて議論をし、このプロセスにおいて、翻訳の成功可能性は、そのつどの言語使用における語の意味の変化の可能性によって担保されるが、しかしこの変化を特定の方向に導くことはできない、つまり翻訳可能性の実現を保証するものとはならないのである。
  • Eriksonのアイデンティティ理論とそれ以降のアイデンティティ研究の検討
    河井 亨
    2011 年 5 巻 p. 146-158
    発行日: 2011年
    公開日: 2020/03/09
    ジャーナル オープンアクセス
    今日の社会理論にとってアイデンティティの概念は重要なものとなっている。ところが、その出発点であり、理論的源泉でもあるEriksonのアイデンティティ理論にはポストモダン・アプローチから数々の批判が寄せられ、アイデンティティ概念は混乱状態に置かれている。その批判とは、アイデンティティ概念を達成・個体論・首尾一貫性によって理解する批判である。本稿では、Eriksonのアイデンティティ理論とそれ以降の研究を検討することで、こうした批判を検討し、現代社会におけるアイデンティティ形成理論に対してEriksonから引き継ぐことができる点を明らかにする。
  • 「専門職」カテゴリーを用いた実践を捉える視角
    畠山 洋輔
    2011 年 5 巻 p. 159-170
    発行日: 2011年
    公開日: 2020/03/09
    ジャーナル オープンアクセス
    本稿は、専門職論のレビューを通して、ある職業を「専門職」として名指すことをめぐる実践を検討するための方法を提示することを目的としている。近代社会において、分業の進展と、自律性を特徴とする職業の専門職化とが並行した。専門職の定義に終始する専門職論は、定義だけではなく、その専門職がおかれている社会的な文脈を見るべきであるとして批判されてきた。そこで、専門職や専門職のおかれている文脈を検討するために、専門職として自己呈示すること、ある職業を専門職として記述すること、そして、そのような職業を専門職として承認する過程を、専門職カテゴリー化として捉えることを提案する。また、近年、専門職論では専門職の成立の前提として信頼が重視されていることを踏まえ、関連アクターからの信頼を維持・獲得しようとする専門職の実践や、専門職論による記述を信頼獲得プロジェクトとする。このように捉えることで、専門職の正しい定義をめぐる議論が抱えるに問題を回避しつつ、専門職を考察することができるようになる。記述の例として現在も様々な定義が提示される社会福祉士を取り上げ、このアプローチの可能性について提示する。
  • ハンセン病訴訟におけるストーリーの形成過程を通して
    青山 陽子
    2011 年 5 巻 p. 171-184
    発行日: 2011年
    公開日: 2020/03/09
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    本稿は、ハンセン病訴訟によって作り出されたある形式をもった語りが、どのような作用のもとで構築されたのか、その過程を分析するとともに、なぜこの語りが全体社会の支持を得て支配的な語り(マスター・ナラティブ)へと発展したのかを探ることにある。
    「物語論的回帰」を契機に、1990年代以降、社会学を始め、歴史学、心理学の分野において、個人の語りに対するまなざしの重要性が指摘された。それは、集団の構造や機能に着目し、抽象化を目指す従来の実証主義に対し、個人の主観的意味における多義性への再評価であった。確かに、語りは個人の経験や記憶を通して紡ぎ出されるきわめて主観的な産出物であるが、一方で、個人は社会的存在であるがゆえに、語りのすべてが個人の創造性による産物というわけではない。本稿では、語りの持つ主観的意味に対する分析視点を継承しつつ、そのなかに含まれる社会的作用へと分析を深めたい。それによって語り手の所属する集団や全体社会との関係で、ある語りが持つ社会的位相を考察することが可能となるからである。
    訴訟で勝利することを目的して形成された「被害」の語りは、患者社会の内部においては、ハンセン病の病いを語る新たな語りであり、また、語り手の所属する社会ではない別の解釈共同体との関係において生成した語りである。本稿では、新しい「被害」の語りの形成過程を既存の語りとの関係で検討し、その発展が患者社会に及ぼす影響について考察する。
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