本稿は、D. コーネルの「イマジナリーな領域」概念を、J. バトラーにおける「批判的脱主体化」を手がかりに再検討するものである。
コーネルは、自分が何者であるかを自由に再想像できる「心的空間」として、「イマジナリーな領域」という概念を提示する。しかし、コーネルが「女性的なるもの」をメタファーによって再形象化すべきだと述べるとき、彼女の本質主義批判にもかかわらず、起源としての「共同性」を再び立ち上げてしまう危険性がある。
一方、バトラーのいう「批判的脱主体化」は、カテゴリーの絶えざる置換を強調するものといえる。バトラーは、言語行為の歴史性に着目することで、パフォーマティヴな攪乱の可能性を論じているが、ここでの歴史性は〈過去→現在→未来〉という通時性を意味するものではない。ある言語行為が依拠しうるコンテクストそれ自体は、一義的に決定できるものではないのだが、それは、言語行為の瞬間において過去と未来が召還されるからだ。「未来」への志向としての「批判的脱主体化」の契機は、「現在」を語ることのなかにある。
かかる視点にもとづけば、「イマジナリーな領域」を、「批判的脱主体化」を可能にする「心的空間」と解すべきだろう。このような再定式化によって、アイデンティティの再想像についての理論的な見通しを示すことができる。
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